secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

スイミング・プール(V)

2009-05-22 08:04:16 | 映画(さ)
評価点:81点/2003年/フランス

監督:フランソワ・オゾン

適当に観てたら、えらい目に遭いました。

イギリスの売れっ子推理作家のサラ(シャーロット・ランプリング)は、都会の喧噪を逃れるため、新しい作品を出版社の社長の別荘で書くことを勧められる。
フランスの別荘に着いた彼女は、創作意欲に燃え、パソコンに向かう。
しかし、そこに来たのは、その別荘の持ち主である、社員の娘ジュリー(リュディヴィーヌ・サニエ)だった。
グラマラスな容姿を武器に、娘は遊びほうける。
再び自分のプライベートスペースを奪われた彼女は、娘を題材にした小説を書くことで復讐しようとするが……。

周りの友人達に勧められて、とりあえず借りて見た。
サスペンスであることはわかっていたが、ヨーロッパ映画をほとんど見ない僕にとって、このオゾン監督がどういう作風の人物かもわからないという不勉強さだった。
良い映画であるということと、サスペンスであるということ以外、まったく予備知識がなかった。

ただ、なんとなく、「ああ、よく脱ぐねぇ」と思っていたら、全然予期しないオチが待っていた。
これを今から見ようと思う人は、ちょっと気張って見て欲しい。
もちろん、妖艶な肉体美も本作の見所なので、男性諸君は十分に酔いしれて欲しい。
 
▼以下はネタバレあり▼

これが、本当の意味での「ミステリー」なのだろう。
謎が提示されて、それが解決されるところに、多くのミステリーは焦点が置かれる。
解決によるカタルシスを味わうために、観客や読者もそれを享受する。
だが、この映画はそんなに生ぬるいものではない。
当たり前のように、解答が得られると思って観ていると、手痛いしっぺ返しを食うことになるだろう。

この映画の謎は、映画内でのみ留まるような類ではなく、観ている観客への大きな一石となり、上映後、観客の心の中に波紋を作り出すように仕組まれているのだ。
この違和感と、大きな不安感を十分に楽しめただろうか。

この物語は、場所の転換が重要な意味を持っている。
イギリス、南仏、イギリスという空間の移動が、物語構造と大きく関わっている。
これも、非日常的な異空間である、南仏の別荘という時間を、日常があるイギリスという時間で挟んだ、「往来」の物語となる。
ラピュタ」も、「キング・コング」も、「エターナル・サンシャイン」も、このパターンとなっている。非常に典型的な、例のあの型である。

もう少しストーリーとプロットを整理しておこう。

別荘の持ち主である出版社の社長と、作家のサラは、単なる仕事上の関係でないことは、冒頭の二人のやりとりからわかる。
サラは「お金が欲しいんじゃないの」といい、社長との関係が冷めつつあることにいらだちと、ストレスを感じている。

それは、南仏に行ったあとの言動も示している。
「いつになったらあなたはここに来られるの?」
しかし、一向に彼は訪れない。
代わりに訪れたのは、その娘だと名乗るジュリーだ。
元々非日常的な静かな空間を望んでいたサラとは、全く正反対の性格のジュリーは、毎日のように遊び回り、男を連れ込む。
当然、サラはいらだって仕事ができなくなっていく。

このときのサラは、ただジュリーの奔放さに苛立っているのではない。
若い恵まれた容姿をしているジュリーは、サラにとって単なる仕事の邪魔をする人物ではない。
ジュリーはサラの欲望を体現する人物でもある。
つまり、ジュリーはサラの欲望そのものなのだ。
だから、彼女の行動が気になり、挙げ句の果てには、留守中に下着まで盗む。
まるで、自分が彼氏である出版社の社長に抱いてもらえないことを、発散するように、ジュリーに興味を抱くのだ。
そして、反目していたジュリーと会話をしはじめ、彼女を題材に小説を書き始める。

彼女の父親はイギリスに住み、母親は南仏のニースに住んでいるという。
母親はやすい小説を書き、デビューを目指そうとするが、野心ある父親は、イギリスへと移り住み、母子を捨てる。

彼女と話すたびに、サラの小説は進んでいく。
だが、サラが外出中に、ジュリーがサラの小説を読んでしまう。
驚いたジュリーだが、その小説のために、隣町に住むレストランのウェイターを誘い出し、殺してしまう。

そして、ジュリーは、母親の小説をなんとかサラの小説に組み込ませ、母の物語を公表して欲しいと言い残し、去っていくのだ。

帰ってきたサラは、別荘の持ち主である父親に、他社から、できあがった本を出版すると告げる。
驚く社長の元に、彼の元に娘が訪れる。
だが、その娘・ジュエルは、十歳ほどの少女だったのだ。

この時点で、大きな疑問点が沸く。
抱き合っていた娘が、社長の娘だったとすれば、南仏にいたグラマラスなジュリーは誰なのだ、ということだ。

ジュリーは、彼らの事情に詳しい単なる詐欺師なのか。
そのように考えると、ジュリーが個人的なことを知りすぎているし、抱き合う二人の姿を無表情に見つめるサラの説明ができない。
また、あのような方法で完全殺人が可能なのか、という疑問も残る。
もちろん、その可能性は完全に捨てきれないのだが。

無理なく説明するなら、南仏の出来事がすべてサラの書いた本の内容だ、というほうが良いだろう。
つまり、現実は、イギリスでの出来事のみで、南仏での出来事は、サラの個人的な設定を踏まえたフィクションだということだ。
劇中劇、つまり入れ子型構造になっているのだ。

このように考えれば、完全犯罪が成立するかどうかは二の次になり、テーマは、出版社の社長への物語による「復讐」であり、さらに、ジュリーはサラの隠れた性欲や頽廃的な願望を具現化した人物として、内在的な自己の投影であることが説明できる。
つまり、一向に自分に見向きもしない出版社の社長へ、いかにも現実的な設定を残した私小説的な内容の本を出版することにより、間接的に、復讐したのだ。

そして、このように考えれば、ジュリーとサラの関係が絶妙であることがわかる。
ジュリーはサラの願望の具象である。
さらにジュリーは、母親の小説をサラに託すことにより、現実とフィクションが整合する。
ジュリーがサラに小説を託すように、サラもまた、ジュリーに自分の思いを投影させて個人的な「物語」を託すのだ。
物語をめぐる関係性において、ジュリー = サラという符号が一致するのだ。

そのうえ、完全犯罪としての「殺人」の関係性においても両者は一致する。
殺しても誰にも気づかれないウェイターを殺すように、誰にも気づかれないように、自分に見向きもしない不倫相手である社長を、物語の中で「殺す」のだ。
当然、彼は全く手出しできない。
なぜなら、それはあくまでもフィクションであり、実際に彼は何の被害も被っていないからだ。
しかし、この「復讐」は生やさしいものではないだろう。

ますます、ジュリーはサラの創作物であることが補強される。

ジュリーとサラの関係は、イコールでありながら、サラにとっては羨望そのものである存在だ。
ある時には、サラとジュリーは母子の関係にも転換される。
まさにサラにとって、ジュリーは、〈トリックスター〉ともいえる存在なのだ。

ジュリーとサラとの、微妙で、しかも物語的にも様々な符丁をもった関係は、見事だ。
意外な結末を用意した作品だが、謎の解答だけがこの映画の魅力ではない。
真の魅力は、二人の距離感であり、ほとんど二人芝居と言ってもいい、南仏という空間そのものである。

下手な監督や役者なら、中だるみしそうなシナリオを、ボール一個分を出し入れする技巧派の投手のように、しっかりと「映画」に仕立て上げた作り手には拍手ものだ。

女はやっぱり恐ろしい。

(2006/2/11執筆)

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