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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

悪人

2010-09-28 20:24:44 | 映画(あ)
評価点:63点/2010年/日本

監督:李相日

後半、心情の「説明」的描写が多すぎる。

九州の博多。
久しぶりに実家に返ってきた石橋佳乃(満島ひかり)は父親と再会し、そのまま同級生と夕飯を食べに行った。
そして、二人と別れた彼女は、出会い系サイトで出会った男・清水裕一(妻夫木聡)と合う予定だったが、偶然湯布院の老舗旅館の一人息子増尾(岡田将生)と鉢合わせする。
裕一に気のない彼女は約束を断り、増尾の車に乗ってしまう。
失意のまま車を走らせた裕一のケータイに別の女性から連絡があった。
光代(深津絵里)と会うことにした裕一は、……。

海外の映画賞を取ると日本では話題になるらしい。
この「悪人」も深津絵里が主演女優賞を光代で受賞したため、一気に話題になった。
「あの女優は誰だ!」という話が劇中から出たというから高評価であったことは確かなようだ。
見る気はあまりなかったのだが、何にも他に見るものがなく、かつ周りが観に行っていることもあって、観に行った。

原作は当然のことながら読んでいない。
周りは原作を読んだ後に鑑賞したということだったので、僕とは違った印象を受けただろう。
興味はあるけれども、残念ながら本を読む予定はない。
単品としての批評で我慢してもらいたい。

▼以下はネタバレあり▼

本の方がもっと設定やエピソードが細かく、おもしろかったという話を聞いていた。
けれども、僕の印象は原作を読んでいないためか、むしろ「長い」と感じた。
特に中盤からラストにかけては、心情表現がくどく、いらいらしてしまった。
これには理由がある。

その前日、今敏の追悼企画としてNHKの「トップランナー」という番組が再放送されていた。
今敏が「パプリカ」を発表する前に撮影されたものだ。
その中で、彼は

「僕は、悲しみを、悲しみの表情をするキャラを出して表現するような手法は嫌いなんです。
悲しい表情をする姿をカットに出すって事は、それは悲しみの表現ではなくて、悲しみの説明でしょ?
そうされてしまうと僕は引いてしまうんですよね。
もういいですって。
だからもしそういう表情を撮りたいなら、後ろを向かせるとか遠くから撮るとかして、観客が想像できる余地を残しておきたいんです。」

まさにその言葉を聞いた十数時間後にみた映画だったので、そこをどうしても着目してしまった。
カットの時間、視点、何が説明で何が表現か。
そして奇しくも、今敏が嫌っていた手法が、後半になるにつけて増えていったのだ。

「けれども、そういう手法をとるということは、ある意味では観客を信じなければいけない。
理解できない、置いていかれる観客も出てしまう。
そういう意味では僕の手法は賭けでもあるわけです。」

監督の李はきっとその賭けを避けたのだろう。
そうも感じた。

改めて「悪人」について考えていこう。
テーマはずばり、悪人とはどういう人間のことをいうのか、である。
殺人は悪には違いないが、それだけが悪なのか、それとも他に悪はあるのか。
そういった問いかけをしてくるのが、この映画のいわんとするところだろう。
だが、それを深津絵里が言ってしまった時点で、この映画は「負け」なのだ。
映画や小説の法則、それは「一番に言いたいことは隠す」ことなのだから。

裕一は孤独だった。
彼は港町で育ち、祖父母に育てられた。
愛情がなかったわけではない。
けれども幼少期から育てられたため、当然普通じゃないことへの屈折があった。
そのまま小さな町の中で生きていくことになった彼は仕事を周りの人に勧められるがままに就き、祖父母の介護をしながら過ごしていた。
友人もいない、母親も父親もいない。
母親に金をせびりにいっていたのは、金のためではない。

兄弟もいない彼は、孤独の中で出会い系サイトで女性と知り合う方法をとった。
はじめは本気だったのかも知れないが、出会った女はセックスと金だけが目的だった。
半ば娼婦との関係を続けていた彼は、孤独なまま生きていた。

そんなとき、その娼婦が彼の心の箍(たが)が外れる。
女を助けようとしたところ、その女に逆上され脅迫される。
彼が向けた唯一の本当の「愛」が無残にも踏みにじられる。
だから、彼は光代を殺してしまう。

その「娼婦」だった佳乃も、ただ孤独の中で生きていた。
彼氏を極力求めようと積極的になるのは、彼女自身がからっぽで孤独だったからだ。
周りに湯布院の老舗旅館の息子、増尾と付き合っているように振る舞うのも、自分が孤独であることを周りにさえ明かせなかったからに他ならない。
そして彼女は増尾を自分のものにできるという自信もあった。
だからこそ、増尾に拒否されたことが信じられず、そして、改めて孤独をなすりつけられたのだ。
「キック」で。

そこに裕一が来たから彼女は逆上してしまう。
助けられた相手が自分がどうでもよいと思っていた相手で、しかも自分の姿を一番見られたくなかった姿だった。
裕一と会う前に餃子をたらふく食べる彼女の態度は、とても大切な相手と会う前のそれには見えない。
そんな彼女はなりふりかまわず自分のプライドを守ろうとする。
「訴えてやる」と叫ぶ彼女は、本気でそう考えていたとは思えない。
彼女はレイプされたということを嘘でも告白する器量はなかっただろう。
そこまで自分のプライドを汚せるほど、腹の据わった人間ではない。
負け犬の遠吠え。
けれども、余裕のなかった裕一にはそれが最後通告のように響いたのだ。

裕一の祖母(樹木希林)もまた孤独だった。
手に負えない孫の面倒をみながらも、それでもまともな会話もない。
夫は入退院を繰り返し、心の拠り所はなかった。
だから、悪徳商法まがいのセミナーに参加していた。
彼女はどこにも頼るべき人がいなかった。
そして挙げ句の果てに孫が殺人犯になってしまう。
報道陣を前にして、彼女は立っているのがやっとだったのかもしれない。

光代(深津絵里)もまた孤独だった。
彼女の寂しさを端的に示しているのは、妹と同居しているアパートでのシークエンスだ。
妹の彼氏と出かけるという話を聞いて、一人取り残された彼女は、いままでそこで愛し合っていただろう妹の寝室のふすまを閉める。
彼女がどのような孤独を抱えているかは、それだけで十分だ。

だから、裕一から求められるということ自体が、彼女の幸せそのものだった。
終盤で裕一が「君といると辛い」と言われながらも、一緒にいようとするのは、彼女にとってはじめての「幸せ」がそこにあったからだ。
彼女にとって、裕一との数日間は、悲劇の逃避行ではない。
幸せの極地といってもいいほどの悦を感じていたはずだ。
なぜなら、彼女はそれまで孤独だったからだ。

被害者・理髪店の夫婦もまた孤独だった。
父親は、何も知らなかった娘の交友関係を知って、打ちひしがれている。
母親もまた同様だ。

なぜこんなにだらだらと書いたのか。
それは解説したいからではない。
この程度のことは、映画を観ている人間には自ずと理解できる。
特に中盤まではその小さい描写や仕草、そして台詞で、十二分に描けていた。
にもかかわらず、中盤以降、それが急に丁寧に、くどく描き始める。
それがとても見ていてお腹いっぱいになってしまったのだ。

だから僕の涙を誘ったのは、逆光で表情が見えなかった被害者夫婦の姿だった。
それで十分なのだ。

それなのに、後半になると告白と執拗な心理描写(説明)が増えてしまい、冗長になっていく。
特に二人の逃避行での描写は、くどすぎる。
また、死んだ娘の事件現場を訪れる父親とのやりとりは、大きすぎる蛇足だった。
そんなことを丁寧に「説明」しなくても、観客は十分理解できるし、感情移入できている。
長ければ長いほど、興ざめしてしまうものだ。
上映時間でいうなら2時間をきってもいいくらいだ。

だから前半と後半で僕のこの映画への評価は大きく異なる。
ラストになればなるほど、どんどんおもしろみが減って、最後にはため息しか出なくなった。

名作になりえたのに、監督は「賭け」の我慢ができなかったのだろう。

役者に賞をあげるなら、岡田将生と満島ひかりの二人だろう。
この二人の「弱さ」がこの映画のテーマを象徴しているような気がする。

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2 コメント(10/1 コメント投稿終了予定)

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Unknown (あきら)
2010-09-29 14:42:22
>映画や小説の法則、それは「一番に言いたいことは>隠す」ことなのだから。

そうなんですか?
何故そうした方がいいのか理由を教えてください。
返信する
補足として。 (menfith)
2010-09-30 22:02:12
管理人のmenfithです。

>あきらさん
補完記事として以下の説明を付け加えておきます。
デスマス調じゃないのはあまり気にせずに。

映画や小説は本当に言いたいことを隠す。
これが唯一の「決まり事」だと僕は考えている。
それは詞や歌、漫画にしても同じ事だろう。

少し前に公開された映画に「サトラレ」というのがあった。
漫画を原作にしたこの作品は、主人公の青年が自分の思考が周りにすべて伝わってしまうという障害をもっているという設定だった。
その代わり天才的な頭脳を持ち合わせているということで、周りが彼に対して配慮して過ごしてきた。
彼自身は思考が伝わっていることは知らない。
その映画のラストで、彼の大切な人物が死ぬ。
そのとき、劇中では「○○が死んだ。死んだ。」と連呼するシークエンスがある。
おそらく制作陣はここで観客の感動を一気に誘うもくろみだったのだろう。
しかし、僕はこのシークエンスを見て、笑った。

人が死んだときに頭によぎる言葉何か。
その問いはあまりにも抽象的すぎて意味をなさないが、多くの人にとって、それは「言葉にならない気持ち」であろう。
人は本当に悲しいときには悲しいという言葉では表せない。
失恋した悲しみを、悲しいとだけで表現できないのと同じだ。
言葉に限らず、悲しみに限らず、ある感情が高ぶったときには、その感情をどういう手段でも表現し得ない。

なぜなら、表現できると言うことは、それは外に出し、取り出すことができる状態まで「整えられたもの」であるからだ。
だが、整えるまでの期間は、それほど短いものではないはずだ。
最愛の人の死であればなおさらだ。
本当は「何も言葉にできないまっさらな思考」というのが、きっと現実に近い。

話を戻そう。
なぜ小説や映画は、本当に言いたいことを隠すのだろうか。
それは「言えないはず」だからだ。
本当に言いたいことが、表面的な形で示すことができるなら、そう描けばいい。
そう描けるならば、きっとだれも見向きもしないだろう。
なぜなら、そんな「整っている感情」は、誰もが経験したことがある感情であり、敢えて表現としてとりあげるまでもないからだ。

逆の言い方をすれば、本当に言いたいことを隠すことで、その隠された内容に対して、僕たち表現の享受者はより深くその内容を味わうことができる。
よく国語の教師が、この作品のテーマ(作者がもっとも言いたかったこと)は、「戦争の悲しみ」です、と高らかに宣言する人がいる。
僕もよくそういう授業を受けてきたものだが、そんなことを言ってしまえば、もう読む必要はない。
なぜなら、伝えたいこと(テーマ)が、伝えるための手段(物語)よりも遥かに短いのなら、長大な物語を読む意味がないからだ。
それでも長い物語を読む。
それはその長い物語でなければ語り尽くせない、あるいはそういう長い物語でも語り尽くせないテーマがあるからだ。
それを安易に誰かが与えることはできない。
勿論、それは作者にだってできない。
テーマは、読者と作者との間にあるテクスト(物語空間)にだけ表れるものだからだ。

わかりにくければよいというわけでもなければ、わかりやすければ駄目だということでもない。
隠し方はそれぞれだし、わかりにくければ誰にも理解されないかもしれない。
問題は「言えない」ということなのだ。

「悪人」の映画にしても同じだ。
自分がどれだけ孤独で、どれだけ相手を愛しているか、愛していたかを表現しうるなら、その「かなしみ」は一般化されうる「整えられた」かなしみだ。
自分がどれだけ愛しているかを伝えられないから人は悩む。
自分がどれだけかなしいかを自分でも理解できないから、違う形でしか表現できないのだ。
泣くことで、それが表現しうるなら、泣けばいいのだ。
けれども、本当に伝えたいことは、泣くことでは表現しえない感情のはずだ。
それならば、泣いているカットを見せるだけでその感情は伝えられないはずだ。

残念ながらそれが人間の本質だし、それが物語や表現の本質だ。
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