secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

トゥモローワールド

2009-08-13 21:57:55 | 映画(た)
評価点:75点/2006年/イギリス・アメリカ

監督:アルフォンソ・クアロン

圧倒的な映像の完成度だが、「個」を描き切れていない。

2027年、ついに子どもが生まれなくなって18年以上が経過していた。
その最小年の青年ディエゴが襲われ死んでしまった。
人々は絶望しながら生きていた。
イギリスロンドンでは、入国管理を徹底することにより、何とか治安維持を保っていた。
昔、反政府の活動家だったセオ(クライヴ・オーウェン)は、ディエゴの死への抗議の爆弾テロに巻き込まれ、危うく死ぬところを免れる。
翌日、出勤途中に何者かにさらわれ、気がつくと目の前には
かつての妻であり、現在反政府組織「フィッシュ」のリーダー、ジュリアン(ジュリアン・ムーア)が立っていた。
通行書を発行するように取りはからって欲しいという頼みだった。
断ったセオだったが、従兄のコネクションにより、通行書を手に入れ、入国させるつもりだった娘を護送中、何者かに襲われる。
そこでジュリアンが殺されてしまう。
なんとか暴徒たちを振り切り、セオたちはフィッシュのアジトに逃げ込む。
そこで教えられた事実は、キーと呼ばれる娘が妊娠していたということだった。
驚くセオは、なりゆき上、彼女を守ることになってしまう。

一人も子どもが生まれなくなる時代。
これは日本人にとって強烈な設定だろう。
すでに少子化が叫ばれはじめて、何年も経っている。
ついには1.3という出生率を切った。
先進国は軒並み少子化傾向にあるが、この映画はそれをリアルに描き出している。
アイデアだけでも、観に行きたいと思わせる設定である。
そのアイデアに負けないくらい、世界観の書き込みが素晴らしい。
近未来を舞台にした映画でこれほどのしっかりした映画は少ない。

この映画の魅力はそれだけではない。
ワンカット撮影にこだわり、臨場感や緊張感を高める演出をしている。
特にクライマックスのシーンは、十分に観る価値があるだろう。
 
▼以下はネタバレあり▼

近未来の描き方がどんどん変わってきている。
それは起点とするべき「現在」が変化しているからである。
完成度の高いSF映画はいつも「リアルな世界観」と謳われてきた。
個人的な意見を言えば、いつまでも「近未来」なのは、「時計仕掛けのオレンジ」くらいだろう。
それ以外の作品は、やはり古くさく、「昔の近未来」になっていく。

近未来の描き方は、ありていに言えば、「現在のどの部分を伸長させるか」
という点に尽きるだろう。
経済格差を重く見る人は、「ジャッジ・ドレッド」のような世界を想像するだろうし、核兵器に対する恐怖を抱く監督なら、「ターミネーター」のような世界を思い描くのだろう。
この作品の監督は「少子化」を重く見たのだ。

子どもが一人も生まれない。
この設定は、非常に単純明快だが、きわめて恐ろしい。
今までこのような設定を持つ映画が出てこなかったことが不思議なくらいだ。
クローン技術に対する関心や知識が広まっている中で、むしろ最も恐ろしいのは、「生み出しすぎる」ことではなく、「生み出せなくなる」ことなのである。
この設定を思いついた時点で、この映画は偉大だ。

そして何より、その設定を十二分に活かしている。
その世界観は見事な完成度である。
子供が生まれないということは、最大の関心事は「最高齢」ではありえない。
「最年少」が一番の話題である。
一番若い、一番最近に生まれたのは誰か。
一方、当然ながら、人類は全員「死に逝く」人々である。
もはや子どもがいない世界に、希望など持てるはずはない。
残りの余生を「浪費」していく他ないのだ。
世界は当然荒廃していく。
それを防ごうとイギリスが排他的になるのもうなずける。

では、なぜイギリスか。
それは現在の情勢をみれば火を見るよりも明らかだ。
EUにも参加せずに、ひたすら伝統を守り続ける国家。
それほど閉鎖的で、旧態依然とした国は少ない。
しかも、先進国であり、国連の常任理事国でさえある。
アメリカが「鎖国」することは、物理的に不可能だが、島国のイギリスなら、十分に可能なのだ。

そして18歳の最年少のディエゴが殺されてしまう。
人々は戦慄し、社会はますます不安に陥る。
物語はここからはじまるのである。

話をすっ飛ばそう。
フィッシュの代表者であるジュリアン(名前が役名と役者名でややこしい)に誘われるままに、反政府組織に取り込まれるセオは、通行書のために彼らに同行することになる。
しかし、そこでいきなりジュリアンが襲われる。
(僕はあまりに突然の出来事で「夢落ち」なのでないかとずっと疑っていた)

ここからセオは本格的に騒動に巻き込まれていく。
セオはキーと呼ばれる娘が妊娠していることを明かされ、公表すべきだと組織に訴える。
しかし、政治目的に利用されるだろうと反対され、組織で子どもを生み育てようと決議される。
だが、これもすべて茶番であり、フィッシュのメンバーも実は生まれてくる子どもを武装蜂起の起爆剤に利用しようとしていた。
それを知ったセオは、キーを逃がし、ジュリアンの遺志であった
「ヒューマンプロジェクト」に送り届けることを決意するのだ。

ここからは、キーの側近である元助産婦と、三人の逃避行になる。
クライマックスまで一気に話を進めよう。
まず、クライマックスのワンカット撮影についてだ。
武装蜂起が起こり、そこに出産したキー(とその赤ん坊)とセオが巻き込まれる。
街中を武装した国連と、フィッシュの武闘派たちとの攻防をすり抜けるように展開するシーンが、数分(六分~八分程度)間、ワンカットで撮られている。
これは、観ている分には「ふーん、すごいんだ」程度にしか思えない。
しかし、あれだけの爆薬と、激しいカメラの移動、多くの人物が入れ替わっていく、ということを考えれば、めちゃんこすごい。
パンフによれば、この撮影のためにセット設営だけで五日間かけたらしい。
多くの人が、このシーンのためだけに映画館に行くだけの価値がある、というのはそういうことだ。
数分間の間で、一度たりとも「切る」ことができない緊張感というのは、安易なCGでは出せない異様なものがある。

だが、問題はこのシーンの意義である。
どんな素晴らしいシーンでも、結局奇をてらったものであれば、映画として全く価値のないものになってしまうからだ。
その意味で、このシーンに拘った理由はよくわかる。

赤ん坊を抱いたキーは、弾丸が飛び交う雑居房の中、一つの奇跡を生み出す。
人々は泣き叫ぶ赤ん坊に呆然と立ちつくし、救いを求めるのだ。
テロ国連の連合軍も、唖然となり、文字通りなにもできなくなるのだ。

このシーンにはきわめて明確な哲学が流れている。
この映画の根幹と言ってもよい。
この映画を観て「救いがなかった」とか
「なぜ不妊症になったのかわからない」とか
「なぜそれを克服できたのか明確でない」とかいう批判は全くの誤解だ。
あるいは、それはこのシーンを理解し切れていない。
(もちろん、理解させるのも作り手の使命だが)

ここには戦うことの無意味さが描かれている。
ここには壊すよりも生み出すことの強さが描かれている。
製作者は、徹底的に社会的な視座をもってこの映画を撮っている。
どれだけ強い兵器や完璧な法律を作ったところで、人が人を生み、それを祝福の中で育て、子どもに目を向けること以上に価値のあることなど存在しないのだ、という視座である。

女性が不妊になった理由は明らかだ。
子どもが存在できる世界でなくなったからだ。
子どもがいないから、殺伐としているのではない。
子どもがいなくなる前から、世界は殺伐としていたのだ。
戸田奈津子がテロップで「イラク戦争」という字幕を何度が「敢えて」付けたのにも訳があるだろう。
子どもに目を向けることをやめ、大人たちが嘆くだけの世界になり、イギリスを閉じることでますます子どもが消えたのだ。

子供が生まれたとしても、ディエゴのような悲劇が起こりうる世界で、だれが「生まれたい」と願うだろうか。
人々はそれをすっかり忘れてしまっているのだ。
「なぜ生まれなくなったのかわからない」と思ったのなら、それは、この映画の世界の多くの人々が抱いている矛盾をまた現代人も抱えている、何よりの証拠だ。
生まれた子どもに、兵器は必要ない。
ただ、温かいまなざしだけあればよいのだ。

では、この映画は絶望で終わったのだろうか。
そんなはずはない。
ラスト、セオは死んでしまう。
しかし、船が大きな文字を付けて登場するではないか。
船の名前は「明日」なのだ。
それまで映像的、映画的象徴を多用してきた監督が、この船の名前に込めた意味は、「絶望」では決してないはずだ。

だが、この映画に乗れなかった人が、理解力がないのではないだろう。
僕も、それほど面白いとは感じなかった。
なぜだろう。
それもまた、明らかだ。
この映画は誰一人描いてはいないからだ。
内面を鋭くえぐる人物が一人としていない。
セオにしても、子どもが死んでしまったことから活動家を辞めてしまったのだろうか。
それはあまりにもわかりやすすぎるだろう。
なぜ彼は酒浸りで煙草をやめられないのだろうか。
その「課題」をすべて過去の出来事とするのは安直だろう。

また、なぜジュリアンは彼を求めてきたのだろう。
今更、そして突然。
キーにしても、彼女が「選ばれた」必然を、浮かび上がらせるまで描き込まれていない。

要するに人間がいない。
そのくせ、社会的な視座があまりに強烈だ。
だから、感情移入が出来ないし、感覚的に言えば、お説教を無理矢理強要されているような息苦しさを感じるのだ。
「一人」には社会的視点や問題に還元しえない、個人の「物語」が存在しているはずだ。
その部分を描ききらないと、「文明」を否定する単なるプロパガンダ映画に成り下がってしまう。

この映画で一番問われるべき問いは「なぜセオなのか」ではなかったか。

(2006/12/10執筆)

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