島根県の山奥にあった、赤朽葉家一家の伝説について描かれたフィクション。
万葉は拾われた子だった。
そして若夫婦に育てられた彼女は、未来視ができた。
千里眼として恐れられるようになるまで、彼女は幻か現実かわからない様子を見ていた。
あるとき、大屋敷に住む赤朽葉タツに、「私のところに嫁にこい」と言われる。
それが、のちに赤朽葉万葉となる、彼女の運命的な出会いであった。
奥さんが桜庭一樹のファンで、他にめぼしい読む本がなかったので、勧められて借りて読んだ。
まったく彼女のことを知らなかった私は、他の作品も、映画化された作品も読んでいないし、観ていない。
ストーリーも全く知らなかった。
▼以下はネタバレあり▼
三部構成になっている。
第一部は赤朽葉万葉の、神話と現実が入り交じった世界の時代。
第二部はその娘毛毬(けまり)の破天荒な人生をつづった時代。
第三部は語り手である赤朽葉瞳子の現代の時代。
第一部は主に戦後あたりまで、第二部は2000年直前まで、それ以降が第三部だ。
未来が見えるという万葉と、その娘の毛毬、毛毬の娘である瞳子がそれぞれ主人公となる。
語り手はずっと瞳子であり、瞳子が周りの人や本人から聞かされた物語が、第一部と二部の主な内容だ。
社会的な視座というよりは、時代の荒波の中どのように製鉄所である名家の赤朽葉家が生き残っていくかということが題材となっている。
非常にリアルな筆致で、それを支えているのは時代考証と、万葉と毛毬の人物造形だろう。
第一部第二部ともに、「ありえないけれどもありえるかもしれない」ほどの説得力がある。
それは小説にとって欠かせない要素だろう。
だが、第三部になってとたんに「語るべき事がない」印象を受けるようになる。
現代になって、自分自身の物語を紡げない瞳子の姿が浮き彫りになる。
それをレトリックとして狙っているというよりは、むしろ本当に書くべき物語がないような印象なのだ。
急に平凡な男と謎解きに走ったり、私には語るべき物語がないと直接的に書いたりと、〈語り手〉の内面を鋭く描ききれなかった印象が強い。
第一部と第二部が非常にみずみずしく描かれていた筆のスピードも、〈語り手〉の時代になるととたんに色あせてしまう。
(何もないと言いながら、甲子園のヒーローの恋人を作って、私には人生を達観しているような、あるいは余裕で生きているような、〈私〉の物語、自身の内面に深く踏み込もうとしていない態度が気になるのだ)
だが、この第三部がなければ小説として成り立たない。
語ることは、語られる時間との交渉(あるいは衝突)によって紡がれるからだ。
片目のない男の顛末だけが、今のわたしの語るべき事ではないはずだ。
面白かったのに、ちょっと残念な気持ちになった。
万葉は拾われた子だった。
そして若夫婦に育てられた彼女は、未来視ができた。
千里眼として恐れられるようになるまで、彼女は幻か現実かわからない様子を見ていた。
あるとき、大屋敷に住む赤朽葉タツに、「私のところに嫁にこい」と言われる。
それが、のちに赤朽葉万葉となる、彼女の運命的な出会いであった。
奥さんが桜庭一樹のファンで、他にめぼしい読む本がなかったので、勧められて借りて読んだ。
まったく彼女のことを知らなかった私は、他の作品も、映画化された作品も読んでいないし、観ていない。
ストーリーも全く知らなかった。
▼以下はネタバレあり▼
三部構成になっている。
第一部は赤朽葉万葉の、神話と現実が入り交じった世界の時代。
第二部はその娘毛毬(けまり)の破天荒な人生をつづった時代。
第三部は語り手である赤朽葉瞳子の現代の時代。
第一部は主に戦後あたりまで、第二部は2000年直前まで、それ以降が第三部だ。
未来が見えるという万葉と、その娘の毛毬、毛毬の娘である瞳子がそれぞれ主人公となる。
語り手はずっと瞳子であり、瞳子が周りの人や本人から聞かされた物語が、第一部と二部の主な内容だ。
社会的な視座というよりは、時代の荒波の中どのように製鉄所である名家の赤朽葉家が生き残っていくかということが題材となっている。
非常にリアルな筆致で、それを支えているのは時代考証と、万葉と毛毬の人物造形だろう。
第一部第二部ともに、「ありえないけれどもありえるかもしれない」ほどの説得力がある。
それは小説にとって欠かせない要素だろう。
だが、第三部になってとたんに「語るべき事がない」印象を受けるようになる。
現代になって、自分自身の物語を紡げない瞳子の姿が浮き彫りになる。
それをレトリックとして狙っているというよりは、むしろ本当に書くべき物語がないような印象なのだ。
急に平凡な男と謎解きに走ったり、私には語るべき物語がないと直接的に書いたりと、〈語り手〉の内面を鋭く描ききれなかった印象が強い。
第一部と第二部が非常にみずみずしく描かれていた筆のスピードも、〈語り手〉の時代になるととたんに色あせてしまう。
(何もないと言いながら、甲子園のヒーローの恋人を作って、私には人生を達観しているような、あるいは余裕で生きているような、〈私〉の物語、自身の内面に深く踏み込もうとしていない態度が気になるのだ)
だが、この第三部がなければ小説として成り立たない。
語ることは、語られる時間との交渉(あるいは衝突)によって紡がれるからだ。
片目のない男の顛末だけが、今のわたしの語るべき事ではないはずだ。
面白かったのに、ちょっと残念な気持ちになった。
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