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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ザリガニの鳴くところ

2022-12-03 17:53:32 | 映画(さ)
評価点:76点/2022年/アメリカ/126分

監督:オリヴィア・ニューマン

語りのズレと、完璧な映画化と。

チェイス・アンドリュース(ハリス・ディキンソン)の遺体がカロライナ地方の湿地で発見された。
火の見櫓から落下したと思われるが、周りには指紋や足跡一つ残されていなかった。
逮捕されたのは湿地に一人で住む、娘カイア(デイジー・エドガー=ジョーンズ)だった。
彼女の家からは、チェイスの遺体に唯一残されていた繊維と同じものでできたニット帽があったのだ。
町からも奇異な目で見られていた彼女を弁護したのは老齢のトム(デヴィッド・ストラザーン)だった。
トムに心を開いたカイアは、これまでの壮絶な人生を語り始める。

言わずもがな、小説を読んだので映画館に向かった。
平日だったが、客の入りはよくて、真ん中の席を取れたのはラッキーだった。
原作を読んでいる人がどれくらいいるのかわからないが、派手な映画でもない作品がこうして注目されるのはうれしいことだ。

テイト役にはテイラー・ジョン・スミス、チェイス役にはハリス・ディキンソンという顔ぶれ。
すまん、誰もわからない。
弁護士のトムは、「ボーン・アルティメイタム」の指揮官をやっていた人だ。
しかし、これくらい無名の役者で良かった気がする。
スターを登場させるような手垢の付いた「人間社会」を彷彿とさせる必要はなかったから。

これから大作が公開されるので、早く行かなければ見られなくなるだろう。
これは是非映画館で見て欲しいし、この空間性と時間性は得がたい経験だと思う。
もちろん、原作を読んだところだったので、思い入れは強い。
(カイアが出てきたところですでに私は若干泣いていた。)

客観的な批評など存在しないので、面白くないと思った人はすみません。

▼以下はネタバレあり▼

正しい映画化がされた映画、と言って良いだろう。
物語の都合上カットされてしまった設定やカット、時間軸が入れ替わってしまったところはあるが、ほぼ原作通りに描いている。
この間書いたところなので、原作と重複するところは、先の記事に譲ることにする。

気になっていたのは、やはり最後の貝のペンダントのシーンだ。
ここをどれだけうまく描くのかが、映画としての重要な点だった。
説明的な描写や、過剰に重きを置いた描き方になると、仰々しくなりかえって意味合いが軽くなる。
しかし、ほとんど原作に忠実に描いていたと言えるだろう。
見てほしいところをあえてさらりと描くからこそ、物語のパースペクティヴは鮮やかに転換する。

全編を通して、原作へのリスペクトは強かった。
原作のファンはきっと喜んだろうし、納得もしただろう。
私もその一人だ。

私がもう一つ気になっていたのは、語りである。
原作を読む前に、少しだけストーリーを調べたときに、逮捕されたカイアが自分の過去を語り始める、とあった。
私はこの点に違和感と不安を覚えていた。
カイアは自分で自分の人生を語ることはしない。
語るべき相手もいないし、語るべき意志がない。
だから、弁護士に話し始めるという流れは原作を知っている私にとっては違和感がある。
語るとは、自分の人生を誰かに預けることであり、社会的に開くことであり、共有するということだ。
その相手として弁護士がふさわしかったのかどうか。

あれだけ詳細に「語った」はずなのに、裁判ではほとんど生かされていない。
それは原作に忠実ではあるのだが、彼女の監獄での語りが注意に浮いてしまっている。

だが、それでも私は巧く映画として成立させたと思う。
なぜなら、その彼女の語りは抑揚なく淡々としたものであり、語る現在から語られる過去を意味づけるような種類の語りにはなっていなかったから。
多くの人が違和感なくこの語りを享受しただろうし、語ったとしてもなお、カイアの人生の閉塞性や気高さは保たれていた。
先に書いた「正しい映画化」というのはそういう意味だ。
三人称小説であることを肝とした原作を、映画として見せる術を、演出とともに心得ていたと言えるだろう。

湿地や沼の描写はすばらしかった。
彼女の世界をきちんと描き、なおかつ収束される「かわいそうな無実の無垢な娘」から「狡猾でしたたかな捕食者」へと変容する、その伏線にもなっている。
彼女は無慈悲で、裁判や善悪という人間社会の枠組みの外に生きている。
そのことを、何度も挿入される湿地の描写によって組み立てられていく。
映画の読後感と、小説の読後感がほぼ変わらないと感じたのは、なかなか希有なことだと私は思う。

原作が言葉で詳細に説明できるという強みがあるので、チェイスの人間像がやや軽薄に描かれていたり、ジャンピンとメイビルのやりとりが説明的に描かれていたり(カイア中心に描かれる原作では描かれない)、少し省略や簡略化はあった。
しかし、ここまで忠実にそして物語の核の部分を損なわずに映画化したのはすばらしいことだと思う。
原作を知らない人が、どのように感じたか読み取ったのか気になるところではある。

話の設定は1950年代から1960年代終盤と古いものだ。
しかし、周辺と中心という対立は、ようやく問題化されてつつあるテーマである。
小説にしても映画にしても、まさにいま話題にすべき現代的な作品である。

ちなみに、タイトル「ザリガニの鳴くところ」についてほとんど劇中では説明されていない。
原作では、誰かに見つかりそうになったら、人間が誰も行かないようなところまで逃げろ、それがザリガニの鳴くところだ、と教えられる。
彼女は、人間が寄りつかない場所で生きてきた。
それはザリガニの鳴き声が聞こえるような静謐な場所である。
ザリガニの鳴き声が聞こえる、ということは、人間の話し声はおろかすべての生き物がただ生きているために出す音や声しか聞こえないほどの静寂が支配する世界だ。
チェイスはそこで発見される。

彼女は人間が支配する世界とは全く別の世界で生きてきた。
それは、私たちがソロキャンプなどと称して、人間社会で過剰なまでなアウトドアグッズを持ち込むような「賑やかな」体験型の自然とは違う。
生きることに懸命な者たちだけで支配される、非情な世界だ。
その静かさと、彼女に深く刻まれた孤独、そんな彼女の目に映ったチェイスのまぶしすぎる姿、あらゆることがこのタイトルには込められていることを確認しておきたい。

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