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メディアリテラシーとは

2024-01-07 14:00:11 | 表現を考える
正月早々、大きなニュースが日本を揺るがした。
私は直接の当事者ではないので、憶測からは何も言えない。
その詳細は、別の人に譲ろう。

こういう災害が起こると、必ず著名人が寄付したことが話題になる。
そしてそこで必ず「売名行為である」という種類の批判が寄せられる。
売名行為であっても、寄付することは良いことだ、という種類の反論がまた起こり、ちょっとした議論になる。
私はそれについて別の角度から考えてみたい。

表現とは、表象を生み出すきっかけとなるものであり、表現にはかならず形式が必要である。
自分の思いなるものが客観的に存在するかどうかは別にして、少なくとも自分の内面にあるものは何らかの形にしなければ誰も理解できない。
だから、言葉にする。
あるいは音にしたり、絵にしたり、その他の作品で表現される。

しかし、ここで確認しておくべきことは、どんな表現を選択するにしても、そこには原理的な第一次的な目的とともに表出されるということだ。
どんな表現も、何らかの要求を受け手に押しつけることになる。
表現は表現のまま受け取ってもらうことは不可能である。
この説明は抽象的なので、具体的にしてみよう。
たとえばSNSという手段で何かを表現しようとすると、必然的にSNSという表現手段の特徴を踏まえての表現になる。
SNSの成立の経緯はともかくとして、現在のSNSで表現される一次的な目的は、みんなに見てもらうことであり、「いいね!」の評価を得ることであり、フォロアー数を増やすことである。
自分を支持してくれる人を数値化できるのがSNSである限り、どんな投稿もすべては、有り体に言って、バズることである。
だから、SNSで「寄付させていただきました」という投稿があれば、必ず「売名行為と直結する」ことになる。

この点をもってして、寄付をしたということをSNSで表明することに対する批判は、もちろん「ごもっとも」、ということになる。

SNSだけではない。
テレビ番組についても同じだ。
どんな放送であっても結局は民放であれば必ずスポンサーの広告を「買ってもらう(見てもらう)」ことが第一次的な目的である。
よく「スポンサーの顔色を窺いやがって!」という批判があるが、もちろん「ごもっとも」、ということになる。
また、コマーシャル・フィルム(CF)がよく話題になるが、これもどんなにおもしろい作品をつくったところで、それは「売るための手段」であるという第一次的な特性から逃れることはできない。

SNSで、「寄付しました」ということを表明する人に対して、「売名行為だ」という批判は、CFに対して「物を売るために流しやがって!」と批判するのと同じなのだ。
「おっしゃるとおり、ごもっとも」、という返しが適切である。

だが、表現はその特性を超えて伝わる部分がどこかしらにある。
「どうせ商業主義でしょ?」と分かりつつも映画館にいくのは、それ以上の「何か」があると知っているからだ。
時にテレビ番組の合間にあるCFが、私たちに「刺さる」のは、売りたいという第一次的な目的を超えて、何かが私たちに訴えてくることを感じるからである。

これを混同してしまうと、わけのわからないことになる。

メディアリテラシーとはなにか。
私たちは、正しい情報を手に入れたり、情報を吟味したり、正しい情報を発信するべきだというようなことを想定する。
けれども、メディアの仕組み、メッセージを発信するときの、表現方法についての理解を深めていくことが、重要なのだろう。
いや、もちろんそんなことを知らなくても発信も受信もできるだろう。
けれども、それは現象に漂うだけの、まさにメディアに踊らされているだけの人になる。
本を書くとは? 音にするとは? 映画を撮るとは? 写真で発信するとは?

そういうことについて自分なりに抽象化し、意味づけし、使い分け、整理しておく。
これはどんなに手軽に知識や情報が手に入る時代になっても必要なリテラシーだろう。

こんなふうに、私はブログで「売名行為」にいそしむわけだ。
それが「ブログを書く」ということなのだから。

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