secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ウエスト・サイド物語(V)

2009-12-20 17:54:50 | 映画(あ)
評価点:90点/1961年/アメリカ

監督:ロバート・ワイズ&ジェローム・ロビンズ

あまりにも格好良すぎる。あまりにも鮮烈過ぎる。

ジェット団はニューヨークのウェストサイドを牛耳る不良の集まり。
ポーランド系アメリカンの彼らは他のグループをつぶしながら勢力を伸ばしていた。
一方プエルトリコからの移民のシャーク団は最近めきめきと力をつけてきた。
目の上のたんこぶだったシャーク団を一気に滅ぼそうと、ジェット団はダンス会場で決闘を申し込もうと考える。
ジェット団の兄貴分的存在のトニー(リチャード・ベイマー)はレフに頼まれて、ダンス会場に行くと、そこにいたシャーク団のリーダー、ベルナルド(ジョージ・チャキリス)の妹マリア(ナタリー・ウッド)に恋してしまう。
二人の運命はいがみ合う仲間たちの争いに翻弄されてしまう。

はじめに見たのはおそらく小学生くらいだったと思う。
二度くらいはみているだろうが、やはりミュージカルが苦手だったので、今までそれほど真剣に見ていなかった。
覚えているのは「be cool」というフレーズと、あのリズミカルな指パッチンの独特なポーズくらいだ。

デジタルリマスターでDVD化されたときに購入して、ずっと眠ったままだった。
ヘアスプレー」に触発されて、観てみようと意を決した次第だ。

いまさら、という感は否めないが、とにかく批評にしてみよう。
 
▼以下はネタバレあり▼

「ウェスト・サイド・ストーリー」は、当時のアカデミーを総なめにした作品だ。
当時、観客に鮮烈で、強烈な印象を与えたに違いない。
だが、その鮮烈さは今でもいささかも消え去っていない。
今でも「新しい」し、今でも「スタイリッシュ」という言葉が似合う。
完璧という表現はそうそう使うべき言葉ではないが、この映画に関して言えば、完璧という言葉で形容するにふさわしいだろう。
この映画を今改めてみて、この映画が上映されていた時代に生まれたかったと本気で思う。
当時の人間としてこの映画を体験できた人は幸せだ。

この映画がすごいと思えば思うほど、この映画の下地にある、シェイクスピアの「ロミオとジュリエット」のすばらしさに、同時に気づく。
いがみ合う組織の間に生まれた男女の関係は、多くの作品に影響を与え、そして今も感動を呼ぶ。
悲しみの物語というのは、いつの時代も通用する普遍性があるのだろう。

もともとミュージカルだった作品を映画化したということで、制約が生まれたり、表現媒体の違いにより見せ場や説明の方法が違ったりと、同じように演じているものでありながら、その特徴はかなりちがう。
その中でも大きいのは、背景だと思う。
つまり、画面と舞台では、現実の切り取り方が違う。
よって、比率の違いやカメラアングルといった別要素が発生したりと、背景の描き方、切り取り方に大きな「個性」というか、「アダプテーション(脚色)」が表れる。

「ウエスト・サイド・ストーリー」はその切り取り方が秀逸だ。
人がいなかったところに表れることで画面としての比率が
スタイリッシュになったり、ダンスの動きを計算してセットが組まれていたりと、背景とダンス、演技、画面の切り替えが見事にマッチしている。
宇多田ヒカルの元だんなが「光」のプロモを撮ったときに、「画面の比率に合うようにセットを組んだ」と言っていた。
まさにそれをこの当時のロバート・ワイズはやっていたのだ。
もちろん、今優先されるだろうリアリティとか、現実味があるセットやロケーションではない。
だが、非現実的であったとしても、そのスタイリッシュな構図は、観るものをひきつけるし、それがダンスとマッチすることによって、画として完璧なものになる。
冒頭のダンスシーンは、単なるダンスとしてだけではなく、映像を楽しむ、という映画本来の楽しみを教えてくれる。

一見狭すぎるような部屋や裏通りなども、ダンサーがそこに置かれることによって、「理由」がわかるようになっている。
それがたまらなく気持ちいいのだ。
ダンスが格好いいだけでは、この映画は売れなかっただろうし、今でも支持されるような名作にはならなかっただろう。
この映画は映画として面白いのだ。

だから余計にダンスがかっこいいのだ。
背景と主役ががっちりと手を組んでいる。
スタイリッシュであるわけだ。
下手にCG技術が発達しても、「かっこよさを求めるセンス」に、時代による発達はない。
これだけイマジネーションが実現可能な時代なのに、すべての映画がかっこいいわけではないのは、なぜなのだろう。
現代の映画人はそれを真剣に悩むべきだろう。

もちろん、社会的視座が全くいい加減なものであれば、きっとアカデミーは評価しなかっただろう。
当時実際にあった新たに移住してきたプエルトリコ人移民と、イタリアやポーランド系の移民との衝突を下地にしている。
もちろん、この事実を知っているか知らないかはあまり関係がない。
人種や宗教、肌の色、考え方、国の違い、僕たちをとりまく様々な違いを普遍的に訴えかけるように仕組まれている。
そのため、人は彼らの悩み、苦しみ、悲しみ、怒り、不安、喜びが伝わってくるのだ。

個人としての二人が、愛すべき人に出会ったことだけではなく、お互いが人種を越えて愛し合えたことが、すばらしく尊いのだ、という側面もある。

「彼を殺したのは銃やナイフではない。あなたたちの憎しみだ」という台詞が重くのしかかり、僕たちの胸に突き刺さるのは、こうした理由だ。

とにかく、この映画に必要なのは下手な言葉ではない。
ただ、かっこよさをもとめる感性だ。
観終わっても、もう一度見直したい。
そういう稀有な映画である。
 
(2007/11/11執筆)

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