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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

レボリューショナリー・ロード 燃え尽きるまで(V)

2010-04-24 23:09:58 | 映画(ら)
評価点:86点/2009年/アメリカ

監督:サム・メンデス

あの時代の、あの国のあの場所、そして二人の夫婦。

1950年代アメリカ。
パーティで知り合ったフランク・ウィーラー(レオナルド・ディカプリオ)とエイプリル(ケイト・ウィンスレット)は、すぐに恋に落ち結婚した。
子どもができ、アメリカ郊外のレボリューショナリー・ロードに家を購入した二人は順風満帆に見えた。
しかし、エイプリルは女優の夢をあきらめたことに絶望していた。
一方父親と同じノックスに勤める夫フランクもまた、日常に満足できずにいた。
30歳の誕生日、妻は夫にパリに移住することを提案する。

サム・メンデスは僕が最も好きな映画である「アメリカン・ビューティー」でオスカーを取った監督である。
ほとんど完璧な映画を撮る能力に長けながら、「ロード・トゥ・パーディション」などという駄作も生み出している。
その妻ケイト・ウィンスレットを主要キャストに向かえた本作は、ディカプリオとの競演にも関わらずそれほど話題にならなかったようだ。
テーマが重すぎる、あるいは社会的な背景を知ってこそおもしろい映画であったため、日本では大ヒットとはいかなかったのかもしれない。

だが、おもしろい。
M4(注)のメンバーの一人は、この映画を2009年(日本公開)で最もおもしろかった映画に挙げた。
僕は結局見に行けず終いで、いまさらDVDで鑑賞することになった。
確かにおもしろい。
是非、レンタルしてほしい。

(注)…映画をこよなく愛す四人で結成された会。
僕がお世話になっている美容室の三人と僕が構成メンバー。

▼以下はネタバレあり▼

この映画は時代背景を理解しているだろう、アメリカ人にとって重たい映画であると思われる。
世界大戦後の1950年代を舞台にしていることは、この映画にとって重要な舞台設定である。
また、大都市の郊外の一等地に住んでいることも、重要だろう。

アメリカは真の自由に突き進もうとしている時代だった。
世界大戦で勝ったことで世界のイニシアティブをソ連と二分し、経済的にも成長を遂げようとする時代。
人々は自分の可能性に大いに胸をふくらませ、アメリカンドリームを夢見ていた。
そんな時代のなか、フランク・エイプリル夫妻も、また自分たちの可能性を捨てきれない二人だった。

二人の子どもに恵まれ、郊外に住み、ノックスという会社企業に勤め、典型的なサラリーマン生活。
世間で言えば、幸せを手に入れた典型的な家族。
だが、そこには普通や平凡、一般といった形容詞を冠する。
ごく当たり前に存在する、どこにでもいるアメリカ人家族、である。

エイプリルの心内には、自分たちの可能性に、まだ「特別な何か」があるのではないかと信じて疑わない。
彼女は絶望している。
幸せな家庭という枠の中で、彼女は徹底的に絶望を感じている。
普通であるとか、典型であるとか、平凡であるというのは、彼女にとっては我慢ならない。
女優でしかも、野望を抱いているはずの夫をもつ理想の自分。
その理想と現実とのギャップを埋めることができない。
そのような悩みを持つ理由は、この時代設定にある。
自由とは、選択の自由である。
つまり、生き方を選べるということなのだ。
生き方を選べるということは、途方もない「自分探し」の旅に出ることを意味する。
それまでの時代であれば、人は決められた生きたしか選択の余地はなかった。
だが、本当の意味での選択の時湯が生まれたこの時代だからこそ、エイプリルはその穴にはまり込んでしまったのだ。

また、場所も巧みだ。
ベッドタウンとも言える郊外と大都市との間隙に立たされている二人は、仕事と家庭という〈場〉を、文字通り分かつ。
仕事と家庭を往還できる夫には互いに逃げられない場でありながら、どちらへも逃げられる。
妻は違う。
妻は、退屈で平凡な家庭生活を送る郊外のレボリューショナリー・ロードしか〈場〉がない。
毎日夫を送ったと、夫が帰ってくるまで、彼女は毎日突きつけられる。
現実の退屈さ、平凡さ、自分のちっぽけさ、日常のむなしさという現実を。
夫は仕事に逃げる余地がある。
家庭に逃げる余地がある。
そして、どちらも逃げ切れなくなれば、会社の若い女子社員と不倫もできる。

妻は違うのだ。

狭い世界でしか生きられないことに我慢ならない彼女はパリに移住するという壮大な夢を提案する。
それが荒唐無稽であることは誰もが直感するところだが、それでも彼女にはそれしかない。
彼女は、現在を、現実を生きることができない。
過去か未来か、別の場所でしかもはや生きられない。
過去にフランクが語ったという絵空事を、信じて生きるしかない。
そこに彼女の悲しみがある。

一度夢見てしまったことを、放棄せざるを得なくなることほど残酷なことはない。
妊娠し、昇格が決まったとたん、夫は現実を見つめ始める。
子どもが三人になり、容赦なく現実を突きつけられる。

妻は、むしろ理想が消えてしまうことで、すべての希望を失ってしまう。
幸せになったから子どもがもう一人生まれるはずなのに、理想を追うことで、逆に現実に引き戻されてしまう。
狂った数学者は告げる。
「俺にはうれしいことなどなにもない。だが、その子どもでなくてよかった!」

この数学者の設定も巧い。
「精神病」という言葉が認知され、一気に病気としての守備範囲が広まった大戦後以降、社会システムに適応できない人間が「精神病」というブラックボックスに放り込まれていった。
そこには、いわゆる原義的な意味での精神病ではない人間も大勢いたはずである。
あの数学者は果たして「病気」だったのだろうか。

日常の退屈な生活の中で、個性を見いだすこともできずに歯車のようにシステムに組み込まれていく。
歯車の中に組み込まれることが正常であるとすれば、エイプリルは異常(=病気)だったのかもしれない。
数学者の鋭い言葉に、二人の関係は決定的に引き裂かれてしまう。

エイプリルの決断は、最も残酷でありながら、必然的だ。
危険を冒しながらも子どもを殺すということは、二人の愛を殺すと言うことだ。
エイプリルはフランクの求める女性になろうと決心する。
だからこそ、その直前に笑って「愛情のある」朝食を用意する。
満足する夫を見つめながら、これが普通の、平凡の、当たり前の、一般の人間が求めるべき幸せなのだと納得しようと試みる。
フランクが「要らない」といった子どもを殺すことで、夫に寄り添おうとする。
それが「真実」であると無理にでも納得しようとしたのだ。

エイプリルがそのために死んでしまうのも、必然的だ。
なぜなら、数学者の鋭い言葉によって引き裂かれた二人の関係は、やはり「決定的だった」からだ。
無理に自分を納得させようとしても、それはエイプリルでなくなることを意味する。
子どもを殺して夫の思う型にはまることは、彼女でなくなることと同義だ。
彼女は絶望の中死んでいく。
夫には最後まで理解できなかったに違いない。
彼は「平凡」を愛すことができる「普通の」男だったから。

では、彼女の性向は特殊だったのだろうか。
僕はそうは思わない。
隣人の夫婦は、パリに行くという話を聞いたとき、焦りを隠せない。
少なくとも妻は、エイプリルの絶望感を痛いほど知っているからだ。
だから、新しく引っ越してきた若夫婦にしきりに死んだエイプリルの話を聞かせる。
彼女はそうすることで、自分の生き方は正しいのだ、むなしくないのだと納得したいのだ。
そうしなければ、彼女もまた、深い虚無感に襲われるだろう。
少なくとも彼女は気づいている。
「平凡であることは新しい白いシャツについた汚れのように決定的である」(村上春樹)ということを。

僕は主婦ではない。
だが、日常に飲み込まれていく恐ろしさは、共感できるような気がする。
それは身勝手でわがままで、世間知らずで、子供じみているのかもしれない。
だが、この自由すぎる世界の中で、誰がいったい自分を自分だと認定し続けられるというのだろうか。
それが現実であり、大人になることだと言われるかもしれない。
だとすると、なんと希望のない世界であることか。

彼女は境界線に立たされていた。
束縛から自由へという近代。
大都市と郊外という場所。
女優と主婦という年齢。
だが、その境界線に立たされているのは、スクリーンの手前にいる観客の一人も含まれているのかもしれない。

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