secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

バンコック・デンジャラス(V)

2009-10-04 15:35:12 | 映画(は)
評価点:36点/2008年/アメリカ

監督:オキサイド&ダニー・パン

なぜ殺し屋が引退しようとしていたのか、それは監督さえも分かっていない。

殺し屋のジョー(ニコラス・ケイジ)は引退を考えていた。
長くやればそれだけリスクが大きくなるからだ。
彼が最後の仕事に選んだのは、タイのバンコックで依頼された四件の殺人だった。
手頃な連絡役を捜し出し街で声をかけたジョーは、いつも通り殺人を繰り返すはずだった。
しかし、連絡役のコンに素性を知られ、殺人についての弟子として育てることになってしまう。
次第に心変わりしていくジョーだが……。

ニコラス・ケイジ主演の殺し屋のドラマ。
観に行こうとして、結局いけなかった作品だ。
殺し屋という非現実的な仕事人を演じたニコラス・ケイジだが、話としてはよくあるパターンだ。
おもしろいのは、舞台がタイのバンコクだということ。
LAなど英語圏の破滅的な都市ではなく、エキゾチックな都市を選んだことで、一縷の望みが生まれた。

ニコラス・ケイジ好き以外は誰も見向きもしないような、凡作だが、果たして結果は?
レンタルショップでも探すのが困難だと思われるが、是非観てください。
このあたりの作品が好きになれないようだと、ニコラス・ケイジマニアにはとうていなれない。

あ、目的が完全に変わってしまってるね……。

▼以下はネタバレあり▼

予想通りの凡作。
もう、どこを切っても金太郎が出てくる飴のように、どこを切っても凡作。
いつ頃企画されたものなのか、なぜこの企画が通ったのか、ちょっと疑問に思う。
ニコラス・ケイジでなければ映画にならない作品、というのに出続けるニコラス・ケイジは、やはりただ者ではない。

長く引きずると、どうしても体が動かなくなるし、リスクが増す。
有名になればなるほど、付け狙われる可能性が高くなる。
引き際が肝心だ。
だから、この仕事から手を引こう。

独白で語られるジョーの言葉は説得力があるが、物語としてはそれだけがやめる理由であるのはいかにも弱い。
当然、隠された彼の心情に踏み込まねばなるまい。
その前ではなく、その後でもない。
この仕事でやめようと決めた理由は、やはり言葉以外で説明されなければ、映画ではない。
観客が注目するべきは、もちろんこの一点にあるはずだ。
「レオン」のように、ラストで死んでしまうというのを読めたとしても。

この映画の失敗は、核となる物語がどれも中途半端であるということだ。
思わせぶりな伏線や設定は多いものの、結局そのどれもが物語の核、軸にはなり得なかった。
それが、この映画がきわめて凡作になってしまった原因だと思われる。

一つは先ほど説明した、なぜやめたがっているのか、という点だ。
人恋しくなった、というのではあまりにもその点が描けていない。
物語の早い段階で、薬剤師の盲目の女性に恋する。
だが、なぜ彼女だったのだろうか。
彼女の内面に踏み込むことなく別れてしまうために、同時に鏡としてジョーの内面も照らしてはくれない。
彼女に恋をした理由は、殺し屋ならどうせ孤独なのだろう、というようなステレオタイプ的な内面しか見いだせない。
それでは安易すぎるだろう。
たとえ孤独さに耐えられなかったとしても、それならそれでもっと丁寧に描くべきだった。
声の届かない彼女に、自分の孤独感を叫んでみるとか。
そのくらい悲しいジョーの姿を描かないと、クールでニヒルな表情しかしない殺し屋の内面など、観客は理解できない。

もちろん、弟子に関しても全く理解できない。
リスクが高くなることを承知で、彼を殺し屋に仕立て上げようとする。
だが、どこまでジョーが本気だったのか、観客は読み取れない。
殺し屋に本気でするなら、その時点で彼を連絡役から外すべきだった。
でないと、弱みを握られるのは必至だからだ。
そのあたりに、ジョーの仕事人ぶりが徹底されていないので、キャラクターがどんどんぶれる。
コンが物語の後に、果たして殺し屋になるだろうか。
おそらくなれまい。
なったところで、死ぬのは見えている。
なぜなら、一番大切な、リスクのためには人に関わるな、という点を教えきれなかったからだ。

ラストでジョーは麻薬を注文して、殺そうとするが、果たしてそれもどこまで本気だったのか、不透明だ。

どうしても気になるのが、殺されていく四体の死体だ。
彼らに共通点があれば、ジョーの内面を描くには十分だったかもしれない。
もちろん、それはトム・クルーズ主演の「コラテラル」にあったような連続性だ。
一つの大きな犯罪に結びつくように描かれていけば、それが反照するのは殺していくジョーの内面だ。
だが、残念ながら、全くそれも描かれない。

四人目の男が国民的な政治指導者であるということくらいしか、示されない。
結局この政治家を殺せずに逃げ出してしまうわけだが、国民的な支持を得ているということは、コンからの言葉しか根拠がない。
だから、なぜそれだけでプロの殺し屋であるジョーが殺せなかったのか、理解に苦しむ。
薬剤師にであったからなのか、コンにであったからなのか。
それにしても、全然分からないので、こちらははらはらするどころか、物語から取り残されてしまう。

そもそも、お金をもらうために人を殺している男が、相手の人生や為人を考えていたら殺せるはずもない。
殺し屋であるということのすごさは、その点にある。
具体的な人生を歩んでいる人間を、あっさりと確実に殺せるから雇い主は雇うのだ。
それなのに、自分の正義に照らし合わせているような男が、殺し屋になれるはずがない。
挙げ句にその雇い主を殺してしまうという、暴挙に出る。
これはもう、殺し屋ではなくて、スティーヴン・セガール(彼は固有名詞ではなく一つの象徴です)だ。
ラストはキリスト教圏の映画のお約束、殺されてしまう。
はじめから決まっているレールを乗せられているような、そんな印象だ。
どこにもジョーはいない。
決まったストーリーに乗せられて、決まった通りに演じさせられたような“やっつけ映画”だ。

バンコクという街を設定にしたことも、奏功しなかった。
アジアにある街の妖しさ、みたいなものを表現できれば、もっとジョーの内面をえぐれたはずだ。
香港に行ったから余計にそう思ったのかもしれない。

たぶん、この映画に携わった誰もがジョーの内面を考えないで撮ったのだろう。
そりゃ、駄作になるわな。

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