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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

スタンド・バイ・ミー(V)

2009-05-10 11:05:56 | 映画(さ)
評価点:90点/1986年/アメリカ

原作:スティーヴン・キング
監督:ロブ・ライナー

あの線路はいまでも長く僕らの前に続いている……。

小さい田舎町に住む四人の十二歳の少年。
彼らは、町の若者が行方不明の青年の死体を発見したことを話していることを聞く。
「有名になってテレビに映るかもしれない」という単純な理由から、彼らは親にも黙って冒険に出かける。
四人は、いよいよ姿を現した現実という世界を体験していくことになる。

いまさら、ということばが似合う映画である。
僕が紹介するまでもなく、このサイトに訪れるほとんどの人が、すでに見たであろう、作品の一つである。
名作、ということばもよく似合う。

「実はまだ……」と言う人は、絶対にみるべきだ。
幼いころ、見たっきりという人も見てもいいだろう。
今ならよく分かる、という新たな感動に出会うことは間違いない。
色褪せない名作、というのは、まさにこの作品のためにある言葉なのだ。
 
▼以下はネタバレあり▼

本当に「いまさら」だが、この映画を見直してみよう。

この映画も、「行って帰ってくる」というパターンのストーリー軸を持っている。
「浦島太郎」や「天空の城ラピュタ」など、多くの冒険物語と同じ型のなかに位置づけてもなんら問題はないだろう。
ものすごく単純で使い古されたパターンの話である。

もうすぐ中学生になろうとしている12歳の少年四人が、行方不明になっている死体を探しに、旅をするという話である。
当然、帰ってくるときには、彼らは大きく成長する、という成長譚ということもできる。
「人口たった千数百人の町が僕たちの世界だった」という最初の語りにもあるように、いつも過ごしている町を出て、新たな世界を体験することによって、四人は成長するのである。
このストーリーはとても単純で、とてもわかりやすい。
だが、ただわかりやすい、ではこれほどの名作にはなり得なかっただろう。

成長、というと聞こえはいい。
誰もが成長したい、と本質的には思っているのだろう。
その成長というものには様々な形がある。
何も気づかないうちに、ということもある。
克服しなければならない何かが身に迫っていて、必要に迫られて、という場合もある。
単純に、夢を叶えるという自己実現のための成長もある。
だが、「スタンド・バイ・ミー」の成長は、その中でも最も厳しくつらいものだ。
すなわち、「押しつけれた成長」なのである。

誰もが時間を消化していく内に、なんらかの成長をしている、と見ることができる。
彼らも同じだ。
十二歳になり、彼らは中学生という目に見えた転換期を迎えている。
それは自分が望もうが望みまいが、必ず来るものだ。
もっと小学生でいたい。それは無理だ。
逆に、もっと早く大人になりたい。それも無理だ。

彼らは自分の思惑とは関係なく、自分や自分の周りに起こったことを、受け取らざるを得ない状態に追い込まれている。

語り手であるコーディは、兄が交通事故で死に、家族はバラバラな状況にあった。
兄のデニーは、アメフトの有名選手であり、父親からの期待も大きかった。
一方、「生き残ってしまった」弟コーディは、父が理想とする男とは全く正反対。
物語を書くことが好きな、なんとも気弱で華奢な少年。
同年代の悪として有名なクリスとつきあっていることで、父親からの心証はますます悪い。

その兄が死んでしまった。
尊敬すべき兄が死んでしまって、父親は豹変する。
「普通の人々」では兄の死によって母親が狂ってしまうが、こちらは父親である。
父親はほとんど弟のコーディに対して興味が持てない。
それは、自分でもどうしもようもないものなのだろう。
弟をどうしても愛せないのだ。
それだけ父親にとって兄は、理想的で完璧な息子だったのだ。

そんな家族にコーディに居場所はない。
親が期待していないことを痛感すれば痛感するほど、彼は親の期待とは全く逆方向に行ってしまう。
頭がよくても、だめなのだ。ストーリーを考え出せても、父親は納得してくれないのだ。

悪友であるクリスも、また陰をもった少年である。
クリスは家族が不良一家であることも手伝って、何をやっても評価されない不幸な境遇にいる。

クリスはある日給食費を盗んでしまう。
それを先生に問いただされて、こっそり給食費を返しに行く。
しかし、翌日、停学の処分に変更はない。
先生はクリスが給食費を返しに来たことを内密にし、処分を決定してしまったのだ。
彼女のそのスカートは新しいものになっていた。
そこに因果関係があるのか、劇中ではわからない。
だが、重要なのは、クリスがそこに「因果関係を見いだしてしまった」という事実である。

クリスは周りからも悪い人間だと言われるほど、最悪な家庭環境に育っている。だが、やはりまだ12歳なのだ。
純真なところもある。
だが、彼のこころの希望や、光を見事に打ち砕くのが、権力を行使する大人達なのである。
彼にとってはまさに、「押しつけられた現実」なのである。

テディもまた、自身のアイデンティティに目覚め始めた少年だ。
父親はノルマンディ上陸作戦に参加した英雄。
だが、戦争あがりの兵士にありがちな、PDSDを発症している。
病院に入院しているが、その父親に対して、大きな尊敬の念を抱いているのが、テディである。
彼にとって、父親は全てだ。
彼の尊敬、尊厳、名誉、誇り、全ての具体的象徴物が、父親なのである。
だが、その父親は、父親として良い人物とは言えない。
息子を殴るような、そんな人物なのである。

バーンはその意味で、単なる「バカ」として描かれている。
だが、12歳の少年にはありがちな、「個性」としての無能さを超えるほどの「バカ」なのだ。
彼の人生は目に見えている。
ほかの者たちにどんどん追い抜かれて、そして周りに守られながら、周りにバカにされながら生きていくのである。
周りが見えていない分、彼は不幸であり、幸せだといえる。

かれら12歳は、まさに岐路に立たされている。
これから先、どのように生きていくか。
それを真剣に考えるよう「押しつけられる」のである。

年代においても、冒険して帰ってくるという物語的な位置づけも、中学生への過渡期であるという点においても、彼らは、大人になるように成長を押しつけられるのだ。

そんな四人が、死体を見つけに行く、という行動は偶然ではないだろう。
死体=死の発見は、反転すれば、生の発見であり、自己の発見、行き方そのものの発見という物語的な位相にあると言える。

様々な冒険を通して、彼らは現実に触れる。
クリスの給食費にしても、恐ろしいと噂の犬のおやじにしても、青年の死体にしても、出会う全てのものが、彼らに「現実」という今までの狭い町の外の世界を突きつける。
彼らは無理にそれを押しつけられ、受け取ることを強要されるのだ。
だが、これこそ、彼らがこれから住むことになる「現実」に他ならないのだ。
世界は希望に満ちあふれるどころか、どんどん希望はやせ細っていく。
この事実を知りたくなくとも知るようになる。
それがこの旅の意味であり、この旅が「スタンド・バイ・ミー」として、作家になった語り手の中にあり続ける「物語」である理由なのである。

この映画が、人々の心の中に在り続ける理由も同じだろう。
すなわち、登場人物四人が四人ともが、具体的に、そして切実に、人物設定されることによって、子ども → 大人という誰もが通る通過儀礼を描いているからなのだ。
陳腐な言い方をすれば、この冒険が彼らの原点となり、アイデンティティとなるほど、重要な一瞬であるからなのである。
もちろん、それをきっちりと、丁寧に、そしてさりげなく描くことによって可能にしているのだが。

見つかる死体は、あまりに生々しい。
映像的にリアルという意味ではない。
そこにどんな感動も見いだせないくらい「ナマ」なのである
彼らはそれを見て、期待に輝かせていた目を曇らせる。
それが彼らの期待していた未来であり、目標であり、夢そのものなのだ。

(2005/12/10執筆)

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