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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

棒たおし!(V)

2009-04-13 21:59:17 | 映画(は)
評価点:68点/2003年/日本

監督:前田哲

青春がテーマである。

毎年その高校では工業科と普通科が体育祭で争うことになっていた。
中でも棒たおしは非常に危険であり、今年の体育祭からは中止になったと発表がある。
それに反対したのが、勇。
勇は、ひょんなことから普通科の次雄が棒登りが得意であることを知り、彼に棒たおしにでようと、誘う。
乗り気ではなかった次雄だが、工業科のあまりの汚い手口に腹を立て、二人が中心になって10年ぶりに工業科に勝とう、と普通科の男子生徒をまとめはじめた。
しかし、工業科の卑劣な男子生徒たちは、勇にけがをさせる。

タイトルをみて、見ようと思う人は皆無であろう。
キャストをみて、見ようと思う人は少ないだろう。
なぜ今回そんな「危険な映画」を見たかというのはおいておいて、この映画はタイトルとキャストだけでは計り知れないことは確かだ。

僕も、まさかこの作品が、こんなにいい点数がつくとは思ってもみなかった。
だが、この映画は単なるスポ根映画ではないし、まして脆弱なアイドル映画でもない。
だまされたと思って、見てみてはどうか。
 
▼以下はネタバレあり▼

タイトルから得られる印象は、スポ根映画のB級映画だろう。
キャストをみて予想できるのは、アイドルを売りにした、ファン以外誰もおもしろくない映画だろう。
そう、まさに「MOON CHILD」のような映画である。
だが、この映画はそれらの枠を大きくはみ出す作品になっている。
B級映画であることは免れないにしても、まったくメッセージ性のない映画かと
いわれると、そうでもない。
青春とはこんなものだ、という切なさと妙なパワーに満ちた作品だ。

全く期待していなかったにもかかわらず、結構な良作である。
目から鱗、とはこのことか。

まず、LeadとFLAMEについてだが、この二つのグループを僕はほとんど知らない。
存在は知っていたし、歌も二、三曲聴いたことがあるが、誰が誰か、全く区別もつかない。
思い入れが全くないので、「あの○○が演技している!」という感動はない。
よって、はっきり言ってしまおう。
高校生役の役者全員、非常に拙い演技であった。
それは予想していたし、歌手でありアイドルである彼らが、演技力が抜群であることの方が怖い。
それは仕方がないことだろう。
むしろ、演技が下手であることを知っていながらこんな映画を作らせた、事務所側にそれは責任があるといえる。

それはおいておいて、それを差し引いても全体の完成度は低くない。

まず、全体の脚本である。
端的なのが、ラスト20分くらいに起こる出来事である。
普通の下手な監督や脚本家なら、この手の映画は必ず主人公たちが勝つ。
僕も恥ずかしながら、絶対に次雄たちが勝つだろうと予想していた。
少なくとも、アメリカ映画なら間違いなく勝たせただろう。
(そういう思考になってしまうこと自体が僕がアメリカ映画に侵されている証拠なのだが)
だが、この映画は、主人公たちの普通科は工業科に負けてしまう。
この結論だけでも、この映画が単なるスポ根ドラマを想定して作っている訳ではないことがわかるだろう。

スポ根ドラマは、どれだけの苦悩があったとしても、絶対に勝つ。
これによってラストに大きなカタルシス(=浄化作用)をもたらすのだ。
いわば、スポ根ドラマの核といってもいい。
それなのに、この映画ではそのカタルシスを自ら放棄する。
これによって、スポ根ドラマから脱却しているのである。

それだけではない。
この映画のラスト20分ほどは、絶望に近い出来事ばかりが示される。
まず、心臓病を患っていた勇が、体育祭の数ヶ月後に死んでしまったことが、主人公の回想からわかる。
そのシーンはなく、あっさりと死んでしまうのだ。
さらに、幼なじみだった女の子も、東京に行ってしまい結局主人公は彼女を引き留めることができない。
つまり、友情も愛情も、成就しないのだ。
さらに相手に勝つという夢も打ち砕かれてしまう。

要するにこの映画にいわゆる「成功」は全くない。
すべてうまくいかないのだ。

けれども、この映画を見終わった後の感想は、そこまで悲観するものではない。
切なさが乾いた風のようにあっさりと通り過ぎる感じだ。
あるいは雨上がりのさわやかな風だろうか。
いずれにしても、それほど暗くなる映画ではない。
それが、この映画のうまさであり、
青春を正しく理解している監督であることを伺わせるのだ。

逆に言えば、何もかも手に入れてしまえば、このさわやかさや切なさは、全くなかっただろうということだ。

「青春とは無駄である」という前田監督の哲学が聞こえてきそうである。

結局、棒たおしでも勝てなかったし、それによって病気の友人も救われることもなかった。
恋人も事の真相を告げずに去っていってしまう。
だが、この結末は、だからこそ青春が輝いているのではないか、というメッセージに聞こえる。
何かのために努力することは確かにすばらしいが、それだけだと非常に利己的になってしまう。
純粋に、勝つためだけの努力ほど、無味乾燥なものはない。
勝たなかったことで、成就しなかったことで、死んでしまったことで、「何のためでもない努力のすばらしさ」を描いているのではないだろうか。

それは大人になってはできないことだ。
やはり何かのために生きること、働くことを強いられる。
それができるのは青春時代だけである。

棒たおしで勝とうと努力することによって、自分自身の位置を手に入れる。
だが、勝ってしまうとその努力は「為だけ」の努力になってしまい、「勝つこと」が美であり正になってしまう。
負けることで、努力そのものを美であり、正にしたかったのではないだろうか。

だが、やはり手放しでほめるほどの出来ではない。
負けることで「努力」の意味、結果がわかっていたとしても頑張る意味を、描くことに成功した。
それは再三登場人物たちが自身に問いかける、「人は死ぬとわかっていてなぜ生きるのか」という問いへの答えでもある。

ところが、負けることを描いてしまったために、「棒たおし」という競技が希薄になってしまった。
つまり棒たおしである必然性が消し飛んでしまったのだ。
それなら、サッカーでも、リレーでも、障害物競走でも良かったのではないか。
いたずらに変な競技にして、やせた体を晒さなくても良かったのではないか。
という、非常にシンプルな疑問に答えられなくなってしまう。

映画や小説などストーリーがある作品についていえることだが、題材と主題とのかねあい、必然性ははずせないものとなる。
この映画が非常に良くできたB級映画であるのも、その部分にあるだろう。

それに加えて、様々な要素をてんこ盛りにしてしまったきらいがある。
短い作品なのに、いろいろなことが起こりすぎる。
友人の病気、教師と生徒の不倫、いじめ、幼なじみとの恋、父親との反発、離婚の危機……あらゆるものを、一つの作品に組み込んだため、全体としての統一感が希薄になって、テーマもぼやけてしまった。
そして何より、「それはあり得ん」と思うことが増えてしまった。
ただでさえ、棒たおしというあり得ない競技が題材になっているのに、つっこみどころ満載の映画になってしまっている。
それによって笑いが生まれていたのなら、マイナスとも言い切れないが。

いずれにしても、良くできた映画だと思う。
こういうわけのわからない良作があるから、B級映画はやめられないのである。
と、どこかの誰かさんが言っていたとか言わなかったとか。

(2005/7/3執筆)

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