secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ミリオンダラー・ベイビー

2009-04-12 17:52:42 | 映画(ま)
評価点:89点/2004年/アメリカ

監督・主演:クリント・イーストウッド

あまりの完成度に、唸りをあげてしまう。

長年ボクシングの止血を務めていたダン(イーストウッド)は、マネージャーの仕事を引退し、ボクシングジムを経営していた。
そこへ敏腕であることを知った31歳の女ボクサーのマギー(ヒラリー・スワンク)は、自分にボクシングのトレーナーとしてついてくれと懇願する。
女性には教えられないと言い張っていたダンだったが、ジムの事務をしているスクラップ(モーガン・フリーマン)のすすめによって、マギーを引き受けることにした。
マギーはダンの要求したトレーニングをこなし、ついに試合の舞台に立つのだが……。

クリント・イーストウッド監督作にして、アカデミー賞の作品、監督、助演男女優の四部門を制覇したという2004年度のオスカーを総なめにしてしまった作品である。
それまでスコセッシの「アビエイター」が話題をさらっていたこともあって、スコセッシとディカプリオの二人にしてみれば、この作品が主要部門を総なめにしたことは、「寝耳に水」といった思いだろう。

しかし、この作品がオスカーを取ったことはいかにもアカデミー賞らしいと言えば、そうだろう。
なぜなら、後にも述べるように、アカデミー賞の審査員たちが喜びそうなテーマでもあるし、また平凡なシナリオを、骨太な映画として昇華させた監督の功績は大きいからだ。
 
▼以下はネタバレあり▼

【「何」との戦いか】
映画や小説は不思議なもので、「人生を教えるための」映画や小説は魅力に欠けておもしろくない。
あまりにメッセージ性が強くなって、「うるさい」ものになってしまう。
CASSHERN」がいい例だ。
だが、時に人は、映画や小説に「人生を学ぶ」ことがある。
この映画は、まさにそんな映画だと言えるだろう。
これまで多くの映画から人生を学んだが、この映画も、そんな「恩師」のような良質の映画だ。

この映画はいろいろな角度から観ることが可能な映画だ。
それはイーストウッド監督作の「ミスティック・リバー」も同じ。
単純に見えるこの映画も、実は様々なプロットに満ちた作品なのである。

そこで、僕はいくつかのみかたを提出しながら、この映画のテーマについて触れてみたい。
だが、この映画のテーマは一つではない。
あくまでこういう〈みかた〉もできるという、別解のようなつもりで読んでいただきたい。

この映画は、「何か」と戦う映画である、と言える。
ボクシング映画であることもそうだが、主要な登場人物たちは、長年「何か」と戦ってきた。
その「何か」をどのように捉えるかで、映画としての見え方も違ってくるだろう。

まず、ダンの戦いの話をしよう。
ダンは23年前に友人であるスクラップの試合を止めなかったために、彼の片目を失明させてしまう。
以来、彼は毎日ミサに通い、贖罪を乞う。
「あのとき、なぜ俺は彼を止めなかったのだろう」
「止めていれば目を失うことはなかったのに」
だが、当然、それは報われることはない。
スクラップが許したところで、目が治るわけではない。
ダンの責任だけではないにしても、目を奪ってしまったという事実は、元に戻しようがないのだ。

ダンが戦っているのは、その過ちだけではない。
娘ケイティについても、届かない想いを抱いている。
毎週、ケイティにダンは手紙を書く。
だが、その手紙はいつも宛先不明で返信されてくる。
それでもダンは手紙を書き続ける。
毎日ミサに行っているのは、ただスクラップの目のためだけではない。
娘に対する贖罪でもあるのだ。
娘とどういうことがあったのか、劇中では具体的に示されない。
しかし、取り返しのつかない出来事が起こったということは、想像に難くない。

おそらく牧師はその事情はよく分かっているのだろう。
牧師は彼に諭し続ける。
「娘に手紙を書きなさい」

牧師は全ての事情をふまえた上で、それでも届かない手紙を出すようにダンに言う。
それは、届かないと分かっていても努力し続けることしかできない、ダンに対するせめてもの励ましのことばだったのだろう。

すでにどうしようもないのだ。
ダンを取り巻く問題は、娘にしろ失明した目にしろ、もう取り戻すことはできない。
どうがんばっても、どう努力しても、過去に起こってしまった過ちは、取り返すことはできない。
それでも、ダンは努力し続けるしかないのだ。
スクラップのそばにいてジムを経営するのも、手紙を出し続けるのも、それが彼にできる最低限の償いだからである。

この映画のもう一つ大きな戦いは、人種問題にある。
映画を観るとき、予備知識なしで観ても分かるように撮られていることが、最低限の監督としてのマナーである。
頭でひねって考えても、映画から読み取れない事柄を、観客に求めるのは無茶だし、マナー違反だ。
だが、映画は文化的、社会的約束事を前提にして撮られていくこともまた確かだ。
その国にどんな問題があるのか、どんなネタを笑いの種にするのか、など、最低限知っていなければ、
本当に映画を「観た」ことにはならない。

この映画にも、これを知っていなければ観たことにならない、という文化的、歴史的な背景がある。
それを難しく言えば、「コード」と言ったりする。
あるメッセージを受け取る時の、暗号のようなものである。
社会的、歴史的コードを知っていなければ、この映画を理解することは難しい。

それはアイリッシュという問題である。
イギリスという国の正式名称は、「グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国」という長ったらしい名前である。
これは、イギリスという国が日本のように(日本も厳密に言えばそうではないが)一枚岩、単一民族で構成されているわけではないことからきている。

話は変わるが、イギリスでサッカーのワールドカップに出場できる地域は、一つではない。
「イギリス」としてではなく、「イングランド」や「アイルランド」「北アイルランド」など複数の地域でFIFAに登録されている。
これは、地域によって、民族間の軋轢が大きいからだ。

この話に象徴されているとおり、イギリスは多くの民族間の問題を抱えた国になっている。
特に、アイルランドとイングランドとの対立は深く、今でも争いは絶えない。
ブラット・ピッドの「デビル」という映画では、その対立が根深いことを印象づける。
この歴史的背景を知らなければ、劇中の「モ・クシュラ」に込められた想いを理解することも、またできない。
あのガウンが緑色なのも、アイリッシュを象徴しているのである。

ここにきて、主人公のダンも、ボクサーのマギーも、二人ともアイリッシュであることが重要になってくる。
この二人がボクサーでのし上がっていくこと。
それは「人種差別」に打ち勝っていく姿そのものなのだ。
もっと言えば、アイルランド人としての誇りを、イギリス人やそのほかの白人たちに見せつける場が、ボクシングの戦いに重なるように撮られているのだ。

それゆえ、それがその支えが折れてしまったことは、重い意味がある。
単なる栄光だけではない、誇りそのものの戦いができなくなる。
それは、マギーにとって苦痛の日々でしかなかっただろう。

その戦いは、マギーだけのものではない。
当然ダンにとっても、それは民族としての誇りをかけた戦いである。
黒人やアイリッシュばかりをジムで面倒をみていたことからも、それはわかる。
ダンは、民族的マイノリティばかりを引き受け、そして戦う力を育てていたのである。
23年間は、友人への贖罪の日々でありながら、差別の対象となっていた人種への救済の日々でもあった。
もちろん、それは贖罪と全く無関係なものとしてではなく、互いに密接に関わっていたことなのだろう。

マギーにとって、民族としての誇りの戦いであったと同時に、女性としての戦いでもあった。
ダンは女性差別しているとは思えないが、やはりボクシングというスポーツは女性には冷たい。
ジムでのやりとりからも、女性差別があることを伺わせる。
アイリッシュとしての戦いでもあり、女性としての戦いでもあったのだ。

また、マギーにとって、トラックで暮らす家族との戦いでもあった。
それは対立を意味するのではなく、家族の絆を取り戻すという意味での戦いである。
兄が刑務所、母は違法で生活保護を受け取っている。
(この生活保護についてもアイルランド人という壁があったのだろう)
バラバラなこの家族を少しでも楽にしてあげたい。

「ボクシングが好きなの」とダンに言うマギーの目は、ただ好きだというだけではない重みがある。

このように整理すると、マギーは自分の出生そのものと戦っていたのだと言うことができるだろう。
人種として、フィッツジェラルド家の娘として、女として。
アイデンティティという言葉は使い古されつつあるが、そのアイデンティティの根幹である出生を克服するための戦いだったといえるのだ。

【どうしようもないものへの戦いと挫折】
このように、二人の戦いの様子をとらえると、この映画のテーマ性が見えてくる。
すなわち、この映画のテーマは、「どうにもならないものとの戦い」である。
ダンは、もう過ぎ去ってしまった過ちに対して、贖罪の祈りと努力を続けていた。
しかし、それはどれだけ努力しても、絶対に取り戻せないものである。

マギーも同じだ。
人種にしても、家族にしても、性別にしても、克服することができない自身の根幹に対して戦いを挑む。
物語終盤までは、アイルランド人としての誇りを顕示することができたが、家族の絆は元に戻らなかった。
どうにもならない事への挑戦。
この映画がこれほどまでに単純なシナリオでありながら、観客を引きつけるのは、そのためである。

だが、物語はそれだけでは終わらない。
「青い熊」に不意打ちされてしまったマギーは半身不随になってしまう。
首から下の神経が麻痺して、歩くことはおろか、自分で呼吸することもできなくなってしまう。

ダンから言えば、過ちを繰り返してしまったということだ。
マギーから言えば、挑戦する権利さえ剥奪されたということだ。
だからダンは、必死にマギーに自律の道を探す。
だからマギーは、ダンに頼むのだ。
「殺してくれ」と。

クリント・イーストウッドが監督賞を取った理由はここにあると思った。
監督として、一番重たい台詞を役者としてのイーストウッドに言わせた。
これほど重い台詞はない。
この台詞を言わせたイーストウッドは、やはりすばらしい監督と言わざるを得まい。

それでは、なぜそれほどまでにこの台詞が重いのだろうか。

あの牧師の台詞に象徴されている。
「それだけは絶対にいけない。それをしてしまうと、あなたは自分自身を見失うだろう」

つまり、ダンにとって、絶対にかなわない祈りを捧げること。
絶対に許されない罪を背負い、贖罪し続けること。
それだけがダンの生きる理由であり、生きている資格を保証するものだった。
大きな罪を背負ったダンにとって、生きるとは贖罪そのものと同等のものなのだ。

だが、マギーは告げる。
「私を殺してくれ。それだけが私の望みだ」

それはつまり、ダンに贖罪の日々さえ奪ってしまうということだ。
無駄だと分かっている努力さえ、しないでくれと言っているのだ。
牧師の言うとおり、それは今までダンを支えてきた唯一の柱を奪うことに他ならない。

単なる安楽死の問題や、宗教上の禁忌という理由だけではなく、ダン自身に密接な関係があるため、非常に重い台詞になっているのだ。

呼吸器のスイッチを切り、注射を打ったあと、ダンはジムに姿を現さない。
もうダンの贖罪の日々は終わってしまったのだ。
彼はその後どうやって生きていくのだろうか。
それは誰にも分からない。

ただ、友人であるスクラップは、彼の後を継ぎ、ダンの娘ケイティに手紙を書く。
彼もまた、友人であるダンを追いつめてしまったことを悔いているのだろう。
黒人の有望ボクサーを他のマネージャーに紹介するのも、これ以上の罪を、ダンに背負わせないという思いがあってのことだろう。
(劇中には描かれていないが、明らかにマギーと同じように紹介していたはずだ)
だから、スクラップは手紙を書くのである。
ダンをここまで追い込んだのは、自分であろうと、静かに背負っていたのである。

非常に重い映画であり、そして悲しい映画だ。
だが、これほどまでに「徹底」を貫いたイーストウッドはやはりオスカーを得るに価する仕事ができる人物だ。
役者としての彼の業績は、もう語る必要もないが、そのキャリアはすべて監督業として成功するためだったのかもしれない。
そう思わせるほど、この映画には厳しさがあふれている。
オスカーをとった助演二人も、非常に素晴らしい。

この映画は、非常に重たく、気軽に見に行けるようなものではない。
だが、それはこの映画に込められた監督の並々ならぬ思いがあるからだろう。
それに応えるには、観客側としてもそれなりの「覚悟」が必要だ。

(2005/6/18執筆)

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