外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

オリーブ山のアパート

2011-03-08 19:09:28 | パレスチナ
家の近所に止まっていた、マシュマロマンつきのトラックの写真


以前に何度も書いたが、パレスチナ滞在中、私は東エルサレムのオリーブ山にあるアパートを借りて住んでいた。

このアパートを見つけたのは幸運な偶然であった。

エジプトからターバ国境を越えてイスラエル入りし、翌日バスでエルサレムにやってきて、旧市街の安ホテルに泊まって家探しを開始した。エルサレムに知り合いがいるわけでもないので自力で探すのである。旧市街を当てもなくうろうろしていたとき、シオン門の外に停まっていたタクシーの運転手に、「ヘイ彼女、ベツレヘムツアーに行かない?安くしとくよ!」と誘われたので、いま家探し中でそれどころじゃない~と断ると、彼は急に真顔になって、自分の所有するアパートが空いているからそこに住まないか、と持ちかけたのだ。さっそく値段交渉を開始し、妥当な価格に落ち着いたが、電話番号をもらってその場はいったん別れ、別の場所で家探しを続行した。結局そこより条件がいい物件が見つからなかったので翌日その運転手に電話して、彼のアパートを見に行くことにしたのである。

余談だが、私の経験によると、アラブ世界で(少なくともシリア・エジプト・パレスチナで)貸しアパートを見つけるのはさほど難しくない。私がいつもやっていたのは、住みたい地域に出向いていって、道端でおしゃべりしている暇そうなおじさんたちに情報をもらうことである。アラブの街は井戸端会議をしている暇そうなおじさんたちで満ちている。彼らに話しかけるとたいてい誰かが「ああうちの隣のアパートが空いてるから、持ち主に電話してやるよ」とか「わしの持ってるアパートが近くにあるから、なんなら今から見に来るか?」とか言ってくれるのだ。近所の不動産屋に連れて行ってくれることもあり、私はこの方法で、エルサレム旧市街キリスト教地区で不動産仲介業者(本業は床屋だが)のところにたどり着いたが、みせてもらったアパートは窓のない陰鬱な地下室だったので遠慮した。ラマッラーの不動産屋さんにも行ってみたが、高い物件しかないのであきらめた。アラブの不動産屋は、手数料が安いのはいいが(家賃の半月分ほど)、そもそも物件を1つか2つしか持ってないことが多いので、あまり期待できないのだ。

翌日の夕方連れて行かれたのは、旧市街近郊の山の上にある、立派な庭付き一戸建てであった。門の上のアーチには白いジャスミンの花が咲きこぼれ、庭にはオリーブの木やマラミーヤ(セージ)やミントの茂みが植わっている。二階のテラスには沢山の洗濯物がはためき、その下にはニワトリ小屋まである。
建物の一階部分が貸しアパートであった。二階部分には大家さん一家が住んでいるが、玄関が別々なので独立性は保たれている。
玄関を入ってすぐ、立派なソファーセットを配置したリビングがあり、その向こうにキッチンが続いている。右手奥にはバスルームと寝室。たくさんある窓のブラインドは電動式で巻き上り、窓ガラスにはマジックガラスが使ってあって、昼間は外から見えない仕掛けになっている。全体に広々とした間取りで、毛布やお皿など最低限のものも一通りそろっているし、なにより窓からの眺めがいいのですっかり気に入ってそこに住むことに決め、大家さんに手伝ってもらって翌日ホテルから引っ越した。

アラブ世界には家具つきの貸しアパートが多いので、身一つで引越しできる。やっかいな敷金・礼金・更新料もないので余計な出費もないし、私のような短期滞在の外国人にはありがたいことである。
ちなみにアラブ世界で契約書や領収書にお目にかかることはめったにないが、この家も例外ではなかった。すべては口約束である。契約書による細かい規定がないので、慣れてしまえばこちらのほうが気楽ともいえる。肝心なのは大家さんの人柄である。大家さんが正直でまともな人であれば、契約書などなくても心配いらないのだ。

大家さんのフセインさんは50歳くらいのフレンドリーで小柄で痩せた男性で、髪の毛があんまりなかった。タクシー運転手だけあって外国人の扱いに慣れていて、英語も結構しゃべれる。奥さんのイマーンさんは40代半ばのどっしり落ち着いた教養のある主婦で、週二回アル・アクサー寺院に通ってコーランの読み方を習っていた。アルジャジーラなどのドキュメンタリー番組を見るのが大好きというだけあって、好奇心旺盛で、日本のことを色々質問してくる。彼女はアラブ人には珍しく、きちんとしたフスハー(標準語)を話してくれるのでありがたかった。彼らには子供が3人いるが、一人娘は結婚してサウジアラビアに暮らしているので、現在この家に残っているのは息子2人だけ。パレスチナ人の家庭は普通子沢山で、子供が9人という家も珍しくないので、ここの家庭は例外的に子供が少ない都会派・中流家庭といえましょうか。上の息子イスラームくんは20歳前後の背の高い若者で、看護学校卒業後とりあえずガソリンスタンドで働いているが、将来のことに関して、しょっちゅうお母さんとどなりあいの口喧嘩をしていた。階下にもよく聞こえてくるので、私は「や~イスラーム、お母さんにそんな口の利き方しちゃダメ~。私ならこんな息子はいらない~」と人知れずコメントするのが常だった。その点、下の息子である中学生のウサイドくんは温和な顔をしたラブリーなよい子で、いつも親の言いつけをよくきいてせっせとお手伝いをしていた。ヨルダンに出発する前夜、大家さんちに挨拶に行ったとき、イマーンさんに「ウサイドくんを私にくれない?」と冗談で言ってみたら、「だめ、ウサイドはだめ、フセインならあげるから持って行きなさい」と断られてしまった。フセインならあげるって、旦那さんもらってもしょうがないんだけど・・・。

彼らと全然顔を合わせない日もあったが、イマーンさんに冬用の暖かいパジャマをもらったり、ウサイドくんがご飯を運んでくれたりと、なにかと親切にしてもらった。それに加えて、家に引きこもって勉強したり、新聞を読んだりしているとき、ふと目を上げると、野良猫が窓辺にいてこっちを眺めていたり、庭をせわしなく駆け回るニワトリの足音が聞こえたりするので、あまり淋しい思いをしないのだった。イスラームの犠牲祭のときには、フセインさんがヤギを買ってきて庭にヤギ小屋をつくった。私がパレスチナを離れるときは、メスのヤギが2匹飼われていたが、2匹ともが妊娠中で、もうすぐ子供が生まれるのだとフセインさんが嬉しそうに言っていた。

オリーブ山には、由緒ある有名なキリスト教会が幾つかあって、重要な観光スポットのひとつとして数えられているが、基本的にはディープに庶民的なアラブ・ムスリム地区である。道を歩くと子供たちが「ニイハオ!」「チャイナ?チャイナ?」「ハッロー、ワッツユアネイム?」としきりに話しかけてくるし、ちゃんとした歩道がないので歩きにくいし、道端はごみだらけで、ごみ捨て場周辺は猫のたまり場と化しているという、いかにもアラブらしい地域で、私の好みにぴったりだったが、他の外国人の姿はあまり見かけなかった。一般に外国人が好んで住む地域ではないのかもしれない。

街の中心へは、小型のアラブバスかセルビス(乗り合いバス)で15分くらいである。アラブバスはパレスチナ人の経営によるもので、停留所はなく(当然時刻表もない)、好きなところで手を挙げて乗り込み、お金を払って席に着く。チケットをくれる運転手もいれば、そうでない運転手もいる。車内には宗教関係の啓蒙ポスターやイスラエルへの抵抗運動キャンペーン・ステッカーなどがべたべた貼ってあり、乗客は乗降の際、運転手に「こんにちは」、「お疲れ様」などと一声かけていくという、非常に人間味あふれた乗り物である。日が暮れてから家に帰るとき、このバスの窓から夜景をみるのが私のささやかな楽しみであった。

ヨルダンへの出発も近づいたある日、大家さんの家にお邪魔しておしゃべりしているとき、イスラエル政府による東エルサレムの家屋破壊の話題になり、この家は大丈夫ですよね、と私が何気なしに言ったら、イマーンさんが「なにいってるの。この家だって建築許可がないからいつ壊されてもおかしくないのよ。この辺の家は全部そうよ。イスラエルがパレスチナ人の家には建築許可をくれないから」と顔をしかめた。この辺の家はどれもお金持ちの別荘みたいな立派は建物なので、不法建築だとは思い当たらなかったが、よく考えたら東エルサレムのパレスチナ人の家のほとんどは無許可なので、当然と言えば当然である。フセインさんが脇から説明してくれたところによると、10年前にこの家を建てるときに許可を申請したがどうしても降りず、しょうがないので許可なしで建てたら、市当局から取り壊しを通知されたうえ、かなりの額の罰金を払わされたそうである。その後10年間、毎月きちんと固定資産税を払い込んでいるが、いつ壊されるかわからない状態なのだそうだ。いまのところは大丈夫そうだが、将来いつ入植地計画が持ち上がらないとも限らない。ちなみに家を壊される場合、取り壊し費用は壊される側のパレスチナ人が払わなければならない。自分の家が壊されるのに、その費用まで払わされるんですよ、あなた。この費用が結構馬鹿にならないので、取り壊しを予告された家の人たちが費用節約のため、自分で壊すケースも時折見られる。自分の手で自分の家を壊す人たちの気持ちを考えると、気分が暗くなりますね。

東エルサレムのパレスチナ人は家屋破壊や追いたてと隣りあわせで生きている。フセインさんの妹はシェイフ・ジャッラーハ地区に住んでいたが、イスラエル人に家をのっとられてしまったので、今は別の場所にアパートを借りて住んでいるそうだ。イマーンさんの実家は、シルワン地区に土地を持っていたが、そこにユダヤ教にゆかりのある公園をつくる計画が持ち上がったため、イスラエル政府に差し押さえられてしまった。もちろん無償・強制差し押さえである。


出発の朝、フセインさんが山の下まで自分のタクシーで送ってくれ、ヨルダン行きのセルビス乗り場でお別れした。いつでももどってきていいからね、と少し少し淋しそうに言い残して、フセインさんは去っていった。
それからもずっと、オリーブ山のあのアパートのことはいつも気にかかっている。みんな元気にしているだろうか。子ヤギたちは無事に生まれただろうか。フセインさんの仕事は順調だろうか。イスラーム君がお母さんを困らせていないだろうか。次にパレスチナを訪れるのはいつになるか分からないが、それまであの家は存在し続けているだろうか。

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1 コメント

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Unknown (Junji)
2011-03-15 03:59:36
いまちょうど東エルサレムの丘の上にあるホテルで岩のドームを眺めながらこのコメントをうっていますが、オリーブの丘の上に住まれたことがあるんですね!まだ滞在2日目ですが、人懐っこさやゴミの散乱ぶりはまさにという感じです笑 でも眺めも最高ですし、人情もあるし、いいところですね。。
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