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外国で一時的個人的無目的に暮らすということは

猫と酒とアルジャジーラな日々

2019年チュニジア・トルコ・イタリア旅行記(29)~イタリア南部バジリカータ州への旅・マテーラ到着編~

2020-10-13 16:08:50 | イタリア

 

今回はフィレンツェを出発してマテーラに移動した時の話。(前回の記事

 

朝シャワーを浴びて荷物をまとめ、友人に見送られてバスに乗り、フィレンツェSMN駅に出た。チケットは3日前に駅であらかじめ購入してあった。

 

フィレンツェからマテーラに直行する列車はないので、ナポリから50kmほど南に下ったサレルノまで列車で行って、そこから連絡バスでマテーラ入りする「Italobus」(イタロブス)というNTV社の列車+バスの連絡チケットを買った(参考)。イタロのホームページを見ると、このItalobusの運行は、技術的な理由で現在一時的に停止されているようだ。

 

フィレンツェSMN駅を10:37に出発する列車でサレルノに14:16着、ここでバスに乗り換えて14:35発、マテーラには17:35着の予定だった。約7時間の長旅だ。チケット代は87ユーロ(現在のレートで約1万800円)と高かったが、帰国までの日数が少なくて時間の余裕がなかった上、明るいうちにホテル探しがしたいということもあり、これを選んだのだ。もっと早くネットで購入したら割安だという話だったが、計画性のない人間なので、致し方ない。

 

NTV社の列車のブランド「Italo」(イタロ)のロゴはこれ。高速でかっ飛ばす野兎のせいで「i」の上の点が落っこちてる。

 

 

駅に着いて電光掲示板を見ると、サレルノ行きの列車は35分遅れで到着との表示が出ていた。不吉な・・・35分というのはその時点の概算であって、その後さらに遅れる可能性が大きかった。連絡切符なのに・・・列車が遅れてもバスは待っていてくれるのか。かつてイタリアの列車は遅れるのが当たり前だったが、近年は状況が大きく改善されて、あまり遅れなくなったというので、油断していたぜ・・・ホームの手前のセキュリティーゲート前にインフォメーションコーナーが出来ていたので、そこの係員のお姉さんに聞いてみたら、列車に乗ってから車掌に聞いてくれとのことだった。

 

列車が到着するホーム(binario)の番号がなかなか表示されないので、バールでカフェ・マッキアートを飲んで時間をつぶした。

 

 

ようやくホーム番号が表示され、列車が来たので乗り込む。結局、約1時間遅れで11時半頃に発車した。

 

 

この赤くてカッコイイお方が私を南に運んでくれるのね。待ちかねたわ・・・

 

 

検札に来た車掌さんに連絡バスのことを尋ねたら、列車が遅れた場合はサレルノで待機するから大丈夫だと言われた。しかし、ここはイタリアだ。不測の事態が起こる可能性は十分ありうる。ホントに待っていてくれるんだろうか・・・

 

 

窓の外には、牧歌的な風景が広がっていた。

 

 

サレルノに着いたのは15時前だった。駅前のバス乗り場にたどり着いてみたら、車掌さんの言った通り、バスは待っていてくれていた。まさか本当に待ってくれるなんて、オドロキだ。疑って悪かったわ・・・

 

 

サレルノ駅周辺の風景

 

 

マテーラ行きのバス。真新しくて綺麗だった。

 

 

バスの乗客のほとんどはイタリア人の国内旅行者のようだった。マテーラまでの3時間は大体寝て過ごしたが、時々目覚めて窓の外を眺めると、案外緑豊かな風景が広がっていて、少しがっかりした。早く世界の果てのような風景が見たい。

 

 

マテーラに到着したのは、18時頃だった。幸い、9月半ばでまだ日が長かったので、日没までは時間がある。これから重い荷物を引きずって宿探しをしなければならない。がんばろう・・・

 

 

(続く)

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2019年チュニジア・トルコ・イタリア旅行記(28)~イタリア南部バジリカータ州への旅・前書き~

2020-10-07 08:22:28 | イタリア

 

コロニャに弄ばれているうちに、今年も気が付いたらもう10月。しかも、あっという間に1週間が過ぎ去ろうとしている。朝晩かなり寒くなって、ホットワインが美味しい季節になった。最近は、ラムに浸けた柿をラムごとワイン(赤でも白でもOK)に入れて作るホットワインがお気に入りだ。林檎ジュースで甘みを足して、シナモンスティックやクローブ(ホール)なども入れるのだが、クローブはつぼみ部分を上にして縦にぷかぷか浮くことが多く、茶柱感が強いので、毎回「あっ、ホットワインの茶柱が立った」と心の中でつぶやいてしまう。縁起が良さそう(?)

 

 

クローブ、立ってる子と寝てる子がいる。(今回の写真はスクショ分を除いて全てネットから拝借したもの)

 

こっちのクローブは、茶柱ではなくコロニャ感を出している。

 

 

気温の急激な変化のせいか、最近何をするのもしんどくて、毎日ご~ろごろごろごろして、ブログの更新をサボっていたのだが、いい加減に旅行記を書き終えなければ、さらに年をまたいでしまう・・・ということで再開。今回からはイタリア南部への旅について書く。

 

チュニジアからトルコ、トルコからイタリアに入ってフィレンツェで5泊した後、これまで訪れたことのなかった南部のバジリカータ州に向かい、マテーラ、アリアーノ、ポテンツァに1泊ずつしてから北上し、ローマのフィウミチーノ空港から帰国便に乗った。つまり、この南部への旅は今回の3か国をめぐる旅の最後の締めくくりと言える。

 

フィレンツェ、ポテンツァ、マテーラ、アリアーノの位置関係を見てもらおうと、慣れないスクショをやってみたが、よくわからない・・・アリアーノの上にポテンツァとマテーラがあることが分かるだろうか。

 

 

マテーラの洞窟住居はユネスコ世界遺産に登録されており、日本でもある程度知られている国際的な観光地だが、今回の私の本命の目的地は、観光地としては無名のアリアーノだった。ポテンツァはバジリカータ州の州都で、アリアーノからローマに戻る途中にあったから便宜上宿泊したに過ぎない。

 

アリアーノは小さな町で、ウィキペディアによると、人口は1000人足らず。宿泊施設は一応あるものの、鉄道は通っておらず、バスもあまり通らない僻地なので、ここに観光に行く外国人はあまりいない。私が敢えてこの町に行こうと思ったのは、ここがカルロ・レーヴィの流刑の地だったからだ。

 

カルロ・レーヴィはこの人。

 

 

カルロ・レーヴィ(1902~1975年)は、イタリアを代表する作家の1人で、画家でもある。反ファシズムの政治活動が原因で、ファシスト政権下の1935年から1936年にかけて、北部の都会トリノから南部の寒村アリアーノに流刑に処された。この時の様子を描いた彼の代表作「キリストはエボリで止まった」(Cristo si e' fermato a Eboli、邦訳あり)には、当時のこの地の農民たちが極貧の暮らしに耐え、マラリアの蔓延に苦しみながら、前キリスト教的な魔術や妖精などが日常のあちこちに顔を出す独特の世界に閉じこもって暮らす様子が描き出されている。ちなみに、エボリ(エーボリ)は、カンパーニア州の人口4万人弱の町で、当時のルカーニア地方(現在のバジリカータ州)への入り口とみなされていたようだ。タイトルの「キリストはエボリで止まった」は、「文明の恩恵はエボリで止まって、アリアーノにはたどり着かなかった。村の農民たちは『キリスト教徒』(=1人前の人間)とはみなされず、人間以下の扱いを受けて搾取に苦しみながら、太古の昔から綿々と受け継がれる独自の文化の中で生きている」という意味が込められていると思う。

 

 

慣れないスクショ第2弾。エボリとアリアーノの位置関係がわかる地図を出そうと思ったら、車で移動するためのルートが出てしまった・・・当時はこんな道路はなく、山道を行くしかなかったはず。

 

 

本の表紙。ジャケ買いしたくなる? ならないか・・・

 

 

私はかつて通ったフィレンツェ大付属文化センターのイタリア語講座でこの本の一節、ふいごを使って上手にヤギの皮を剥ぐ老人「ヤギ殺し(ammazzacapre)」が登場するくだりを読んで感銘を受け、その後辞書を引き引き1冊全部を読み終えたのだが、最近また読み返しているのだ。但し、1人で読んでいるわけではない。

 

私はしばらく前から北海道に住む友達(元々は友達の友達)に週1回スカイプでイタリア語の文章読解を教えていて、そのテキストとしてこの本を使っているのだ。彼女はイタリア留学経験者で、文法も会話も一通りこなす上級者なので、文法の授業などはやらず、1冊の本を選んで彼女が少しずつ和訳し、私がそれを添削して解説するという方式を取っている。彼女とのレッスンを通じてこの本を改めて読み、その世界に入り込んでいるうちに、植物がほとんど生えない白い粘土質の谷に囲まれているという、世界の果てのようなアリアーノ(本の中では「ガリアーノ」に名前が変えられている)に行かなければいけない気がしてきたのだ。私は昔から荒涼とした風景に心惹かれる傾向があるのだが、それだけではなく、彼の地は自分の人生が通っている道の途上にある気がしたのだ。こういうことは、私には時々ある。

 

私がアリアーノに旅すると言うと、この友達も興味津々で関連情報を調べてくれた。また、フィレンツェで世話になった友人も、宿泊施設や交通機関等を色々検索して、親身になって協力してくれた。アリアーノにはマテーラからバスが出ていると思われたが、ネットでは確実な情報は見当たらなかったため、まずマテーラに行って1泊し、現地でアリアーノ行きのバスの有無を確かめ、それによって翌日以降の予定を決めることにした。

 

そういうわけで、チュニジアとトルコでの疲れをフィレンツェで癒した後、私は新たに未知の世界に旅立ったのだ。前書きがやたら長くなったので、フィレンツェからマテーラに移動した時の話はまた次回。ああ、なかなか終わらない・・・

 

 

(おまけ)

 

「Il Cristo si e' fermato a Eboli」を原作とした映画の予告編(音声イタリア語・英語字幕付き)

 

 

カルロ・レーヴィを紹介するイタリア国営テレビRAIUNOのニュース番組の録画(イタリア語・字幕なし)

 

 

カルロ・レーヴィが描いたとされる猫の絵。顔がコワい・・・

 

(続く)

 

 

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2019年チュニジア・トルコ・イタリア旅行記(27)~フィレンツェ5日目・最終日~

2020-09-21 08:00:10 | イタリア

 

フィレンツェ滞在5日目は、移動を翌日に控えた最終日だった。

 

この日は中国人の友達のお家でランチをご馳走になり、夜は滞在先の友人と外食して、最後の晩餐を楽しんだ。

 

ランチをご馳走してくれた友達は、チェントロ(中心部)から少し外れた地域に住んでいる。方向音痴なので少し迷ったが、通りがかりの親切なおじ様に道案内してもらったりして、なんとかたどり着いた。

 

この友達とは、かつて私がフィレンツェに住んでいた頃、最初に通ったイタリア語教室で知り合ったのだが、その後彼女はこの地で結婚して離婚し、衣料品店を1人で切り回し、中学生と小学生の娘2人を育てている。考えてみれば、彼女の人生がこんなに変化しているのに、その間私の人生はあんまり変わらなかったな・・・住む場所はガンガン変わったが。彼女はずいぶん年下だが、いつも母親のように私のことを心配してくれていて、ちゃんとご飯を食べているか(食べている)、夜眠っているか(昼眠ってる)、仕事はあるか(少しはある)などとよく質問される。

 

着いたら、彼女は食事を用意してくれていた。まず、娘さんたちがアパートを案内してくれる。子供部屋、寝室、バスルーム・・・初めて家に来る人に一通り案内して回るのは、イタリアではよくあることだが、中国でもそうなのかな?

 

上の子はしっかり者でハキハキ喋り、下の子はおっとりしていてはにかみ屋さん。上の子の将来の夢はピアニストで、下の子のはデザイナーになりたいそうだ。子供は夢があっていいわね・・・

 

 

台所では、友達が手打ちうどんを作ってくれていた。

 

 

中国人には麺や餃子、肉まんなどを生地から気軽に手作りする人が多い。そういえば、ヨルダンで仲良くしていた台湾人の友達は、手作りの餃子をご馳走してくれた。私はいつも食べるだけの役だ。蕎麦を打ったり、寿司を握ったりできれば良かったのだが・・・

 

 

 

 

スープは前日に用意してくれたという。オリーブオイルで炒めた牛肉、人参、玉ねぎ、いんげんが入っていて、塩と酒だけのシンプルな味付けだが、味わい深かった。手打ちうどんも、モチモチしていて美味しい。

 

 

 

 

彼女は基本的に酒を飲まないのだが、私のためにビールとワインを用意してくれていた。みんな私に酒を飲ませてくれる。

 

子供たちは先に食べ終わって、子供部屋に引き上げていった。私たちは食後のカフェ(エスプレッソ)を飲みながら、さらにお喋りする。お店でコーヒー豆を買って挽いてもらったそうで、香り高く、しっかり濃かった。彼女は喋りながら常に手を動かして、皿を洗ったり、台を拭いたりしている。働き者なのだ。

 

別れ際、友達は色々お土産を持たせてくれた。翌日の移動の際に電車の中でお腹が空いたときのために用意したというサラミやチーズなどだ。量が多くてずっしり重いし、そもそも私はあまり食べないのだが、ありがたく受け取っておいた。なんだか、ものすごく「もてなされた」という感じがした。他の友達も皆優しくて、フィレンツェでは柔らかい羽根布団にくるまれて昼寝しているような気分だった。

 

腹ごなしを兼ねて少し歩き、アルノ川でゆりかもめを見かけたのでパンくずを投げてみたが、無視された・・・

 

 

 

 

少し歩いたらすぐ疲れたので、トラムに乗ろうとしたが、小銭がなくて券売機でチケットが買えなかったので、近くのバールでプロセッコ(ヴェネト州の発泡ワイン)を飲んでお金を崩した。そこのバリスタは、非常に感じのいいイタリア人男性で、かつて日本人女性と結婚して3か月東京などで暮らした経験があると言っていた。その後どうなったのかは聞かなかったが、彼がフィレンツェで働いていることを思えば、結婚生活はうまくいかなかったのだと推察される。「よかったら、今度一緒にアペリティーヴォ(食前酒)でも飲みに行きましょう」と誘ってくれたので、翌日出発なのだと説明したら、「そうか。じゃあ、良い旅を!」と爽やかな笑顔で見送ってくれた。彼は日本でモテただろうな。

 

トラムとバスを乗り継いで帰り、少し昼寝した。昼間から友達と会って、酒を飲んで昼寝するのって、幸せなことである。

 

目覚めてから、スーツケースに荷物を詰めてみた。スペースは問題ないが、本やエスプレッソの粉、その他の土産類を買いこんだせいで、確実に重くなっている。これをマテーラまで運んだら、ぎっくり腰にならないだろうか・・・

 

夕方また出かけて、友人と待ち合わせているポンテヴェッキオの近くの店「le volpi e l'uva」(=キツネと葡萄)に徒歩で向かった。ここはエノテカ(ワイン屋)で、ワインを買うだけではなく、店内や店の前のテーブル席でワインとワインに合う料理を楽しむことができる。

 

お店のホームページ。なんと日本語版がある。

http://www.levolpieluva.jp/

 

 

川沿いを歩いていたら、大きな鳥を発見。サギ系?

 

 

鴨たちもいた。

 

 

7時半に待ち合わせだったのだが、店を「il Gatto e la Volpe」(=猫とキツネ)と勘違いして道を間違え、少し遅れた。この2店はいつも混同してしまうのだ。なんとか無事に「キツネと葡萄」の方にたどり着き、友人と会うことができたものの、店は満席で、なかなかテーブルが開かなかった。繁盛しているのだ。

 

 

 

 

ようやく屋外の席が空いて座ることができ、ワインと料理を注文する。料理の選択は友人まかせ。ワインは種類が多くてよくわからないので、お店の人に聞きつつ適当に選んだ。

 

フラッシュを焚いたら、不気味な写真になった・・・隣に座った大きな犬がかわいかった。

イタリアでは、犬を連れてメルカート(市場)で買い物したり、テラス席で外食したりする人をよく見かける。

 

 

友人が選んでくれた料理は、フィレンツェ産のサラミや、ラルド(豚の背脂、おそらくコロンナータ産)などの盛り合わせと、トリュフ風味のサルシッチャとチーズのクロストーネ(パンに具をのせた「クロスティーニ」の大きめのやつ)。どれも美味しい。繁盛するわけだ。

 

この店は閉店が9時と早かったので、2軒目にスタイリッシュなバーに行って、お洒落だがアルコール度の低そうなカクテルを1杯ずつ飲んだ。間接照明の薄暗い空間で、白衣を着たマニアックそうなお兄さんが奇妙な名前のカクテルをシャカシャカ作ってくれるのだ。友人はシックでエレガントな装いなので問題ないが、私は完全に場違いだったはず。

 

 

 

 

家に帰ってから、友人は自室に引き上げ、私はさらにワインを飲んで、ハムの残りを消費しつつ、日記を書くなどした。翌日は南部バジリカータ州のマテーラまで長距離移動するから、がんばらなければ・・・

 

(続き)

 

 

 

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2019年チュニジア・トルコ・イタリア旅行記(26)~フィレンツェ4日目~

2020-09-12 15:36:59 | イタリア

 

 

フィレンツェ滞在4日目は、かつてお世話になった女性のお宅を訪問し、付近のリストランテで昼食をご馳走になった。

 

この知人にはフィレンツェに住んでいた時期、彼女が経営している会社でたまにバイトさせてもらったり、当時の自宅で一時期掃除の仕事をさせてもらったりしたのだ。バイトをやめてフィレンツェを離れた後も、この街を訪れる度にご挨拶に伺っているのだが、毎回どこかのお店や自宅でご飯を食べさせてくれる。私の顔を見ると、「あ、何か美味しいものを食べさせなきゃ」と思うのだろうか。ありがたいことである。

 

知人が現在住んでいるのは、チェントロ(歴史的中心地区)のドゥオーモ広場に面する建物の中にあるマンションで、窓からドアップでドゥオーモ(サンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂)が拝めるという、ちょっとありえないようなロケーションの豪邸だ。フィレンツェのシンボルであるドゥオーモのすぐ隣で、観光地のど真ん中っていう。初めて行ったわけではないが、久しぶりだし、せっかくの機会なので、窓やロッジア(開廊)からの風景を撮影させてもらった。旦那さんは仕事でパリにいるということで、この時は不在だった。

 

 

窓からドゥオーモの側面とジョットの鐘楼が見える

 

 

緑豊かなロッジア。屋根があって、建物の正面の側が開いている。ここで夕暮れ時にアペリティーヴォ(食前酒)を飲みたい。

 

 

テラコッタのプランターをミニライオンが支えていた。かわいい。

 

 

ネットを張った開口部から、ドゥオーモがアップで迫る。

 

 

拡大してみると、こんな牛の像も見えると教えてもらった。

 

 

地元の中学生のグループがある日このお宅にやってきてチャイムを鳴らし、課外授業のため、ぜひお宅からドゥオーモを観察させてほしいと頼んだことがあったらしい。知人が承諾すると、子供たちがぞろぞろと中に入ってきて、ドゥオーモの観察を始めたという。イタリアの学校にも社会見学はあるのだ。

 

 

ちなみに、反対側のバルコニーからは、周りの住宅が見える。どこも豪邸ぞろいだ。

 

 

 

お宅を見学させたもらった後は、マンションのそばの、やはりドゥオーモ広場にあるリストランテ・ピッツェリーアで昼食をとった。

 

 

「ラ・ボッテーガ・ディ・ドナテッロ」(ドナテッロの工房)という店だ。

 

 

観光客も地元客もいる。

 

 

まず、アンティパスト(前菜)に生ハムメロンを取ってシェアした。生ハムもメロンも美しくてテンションが上がる。

 

 

 

プリモ(1皿目)は、私はラヴィオリにした。知人はピッツァ・マルゲリータ。

 

バジリコさんは奥ゆかしく隠れておられる。

 

 

どれも美味しかったことは、言うまでもない。2人ともプリモで満腹してしまって、セコンド(2皿目のメイン)まで行きつけなかった。もっと胃が大きければ・・・まあ、結局私は酒があればいいんだが。ワインも美味しかった。飲みすぎた。

 

隣のテーブルの観光客の女性2人連れがフィレンツェ名物のビステッカ・アッラ・フィオレンティーナを食べていたので、写真を撮らせてもらった。

 

「写真?どうぞどうぞ!この角度のほうが撮りやすいかしら?」と言って、お皿の向きを変えてくれたりして親切だった。彼女たちも、ビステッカを前にして観光気分が盛り上がっているようだった。そりゃそうだろう。

 

 

食事中、足元をすずめたちがウロウロしていたので、知人と2人してパンくずを投げまくったら、お店の人に怒られた・・・

 

ブランコに乗りつつ(?)上で待機している子もいた。

 

 

 

また遊びに行きたいが、コロニャのせいでどうなるかわからない。コロニャめ・・・

 

 

(続く)

 

 

 

 

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2019年チュニジア・トルコ・イタリア旅行記(25)~フィレンツェ3日目~

2020-09-08 16:16:23 | イタリア

 

 

フィレンツェ滞在3日目は、友達と会ってランチしたり、カッシーネ公園を散歩したりして過ごした。

 

 

朝、仕事に出かける友人と一緒に家を出て、老舗のバールでカプチーノを飲んだ。バリスタのおじ様と常連客の女性の会話が、テンポが速くて小気味いい。これぞイタリアのバール、という感じだ。でもなかなか耳がついていかない・・・

 

 

美しいカプチーノ。友人におごってもらった。朝食にフルーツも出してもらったし、甘えっぱなしだ。

 

 

ここのバリスタのおじ様は私がフィレンツェの後に旅する予定の南部バジリカータ州の出身だから、現地情報をもらえるかもしれないということで、友人がわざわざ連れてきてくれたのだが、彼は特に地元の観光情報には詳しくないようだった。まあ、そんなものだろう。

 

仕事に行く友人と別れて、いったん家に戻ってパソコンで作業し、午後の早い時間にまた出かけて、ウクライナ人の友達と会った。彼女とはフィレンツェに滞在していた当時、移民用のイタリア語の無料講習会(EUだかトスカーナ州だかが資金提供)で出会ったので、もう15年くらいの付き合いになる。彼女はその後フィレンツェの男性と結婚して、こちらで根を下ろして生活している。

 

レプッブリカ広場のフェルトリネッリ書店で待ち合わせた。彼女は私よりもけっこう年上なのだが、久しぶりに会ってみたら、以前より痩せて、若返った印象だった。元気そうに見えたが、本人によると体調が悪くて、肉もパスタも断っているらしい。毎日何を食べるかが悩みの種だとのこと。

彼女が行ったことがないというので、前日も行ったメルカート・チェントラーレ(中央市場)付近のピザ・フォカッチャ屋さん「BONDI」でランチをとることにした。何にしようか2人で迷っていたら、地元の常連客らしき女性が、「フォカッチャサンドはフィレンツェの名物で、ここのケースに並んでいる具もフィレンツェらしいものばかりなのよ」と教えてくれた。それで、この日は初めてフォカッチャサンドを食べてみることにして(いつもはサルシッチャのピザ一択)、イチジクと生ハムを挟んだフォカッチャを選んだ。飲み物はキャンティーをグラスで頼んだ。3ユーロ。友人は「INZIMINO」(インジミーノ)のサンドを頼んだ。インジミーノは、ほうれん草かビエトラ(フダンソウ)とイカなどのトマト風味の炒め煮で、リグーリア料理ともトスカーナ料理とも言われる。ちなみに、ZIMINO(ジミーノ)は「濃厚なソース」という意味で、アラビア語の「太っている」という意味の形容詞「サミーン」(سمين)が語源だとイタリア語のレシピに書いてあったが、ホントかな?

 

 

甘いイチジクと塩辛い生ハムのフォカッチャサンド。イチジク、掘り出して別に食べたかった。

 

 

インジミーノのサンドイッチ。ネットから拝借した写真。友人が食べたものの写真は撮り損ねた。

 

 

「BONDI」のピザやフォカッチャの写真が見られるサイト。見てたら、また食べたくなってきた。

https://madtrip.co/gallery/67/10-panini-da-provare-a-firenze

 

イタリア各州の郷土料理を日本語で紹介するサイト

http://lacucinaregionale.com/regioni/toscana/menu

 

 

彼女のお姑さんに対する愚痴などを聞きながら、美味しく食べた。何人であろうと、国際結婚は色々大変なようだ。(他人事)

 

 

食後は、暑い中を20分くらい歩いてカッシーネ公園まで行き、さらに広い公園の中を延々と歩いた。途中で行き倒れるかと思ったが、湿度が低いので、木陰は涼しくて助かった。

 

カッシーネ公園

 

 

公園の中を通っている広い道路の脇の草地には、ところどころに少人数の黒人男性のグループが座っていた。イスラム式のお祈りをしている人もいたので、セネガル人かもしれない。公園の脇を流れているアルノ川ではユリカモメを見かけたが、パンを持っていなかったので餌付けできなかった。私としたことが、不覚・・・ヌートリアは見かけなかった。最近、ヌートリアはあまりいないらしい。

 

 

ヌートリアはこういうやつ。(ネットから拝借した写真)

 

 

夕方になり、買い物に行くという友達と別れてバスでチェントロに戻り、中国人の友達が経営している衣料品店に顔を出して、ひとしきりおしゃべりしてから帰った。フィレンツェにいる私の友達は、日本人と外国人が大半なのだ(そもそも数が少ないが)。イタリア人の友達もいることはいるが、今回は滞在日数が短くて会えなかった。

 

ドゥオーモの前を通ったら、観光客の列があった。

 

 

ネプチューンの噴水がなんだか涼し気にみえた。暑い日だったのだ。

 

 

サンタマリア・ヌオーヴァ病院。かつて酔っ払って意識を失って、救急車で運び込まれたところだ。その節はお世話になりました・・・

 

 サンタ・クローチェ教会。この教会前の広場も、私にとっては鳩スポット。

 

 

スーパー「コナド」で安い切り落としのハムやチーズなどを買って帰り、簡単な夕食を取った。家の主の友人も途中から合流し、一緒にワインを飲みながらお喋りした。

 

適当な夕食だが、こういうのもけっこう好き。

 

 

この日はあまり写真を撮らなかった。フィレンツェはかつて5年暮らした街であり、友人宅に滞在して色々助けられ、外でも昔からの友達に会ってお喋りして過ごしているので、あまり「旅」という感じがせず、写真を撮りたいという気も起らない。ここは私にとって、旅と日常の間くらいの空間、私を優しく受け入れてくれる人達がいる懐かしい古巣。1人で行動する時のような旅の深さはないが、ここでゆっくり休憩して、この後の南部への旅のために体力と気力を養っておこうと思う。

 

(終わり)

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