嬉々是好日 L`Atelier de Megummy since2000

行く先々でMIX犬疑惑を掛けられているビーグルならぬ、ぴーくる姉妹との徒然や、常が旅の途中な日々を綴っている備忘録

美味しく、押頂くっちゅぅ~コト

2008-07-14 | megummy's
暑くなってきましたねぇ!
素麺の美味しい季節です♪

私、つけるの面倒だから、いっつもぶっかけ系で、薬味は青ネギと茗荷が絶対はずせないアイテムです(笑)香味野菜は大好きなので、皆が苦手とかってよく言うパクチーや八角なんかも好きです!

ちなみに茗荷を食べ過ぎると馬鹿になるんだっけか???

私、銀杏も大好きなんだけど、庭に銀杏の大木がある知り合いの話によると、銀杏って食べすぎちゃいけないのだそぉ~な…。なんか、気管器系によろしくないって言ってたのを思い出しました。気付け薬の代わりとして昔は使われてたらしく、なので、大量摂取はいけないのだそうです(笑)

そんなこんなの最近のゴハンは。
母がダイエットを始めたっていうのもあるんだけれど、手作りかつシンプルになりました。あんまり手をかけず、ゴテゴテせず、素材を生かしたって言い方がぴったりな、そんなものを食しております(笑)

で。ちょっと、作るってことに時間を当ててます!
私、一応は調理師免許を持っているので、作れないことはないのね。ただ、昔から料理って作るよりか食べることの方が好きだったのです。が、最近は、自分が食べるものを作るってことが楽しいなぁ~なんて思ってます♪

私は昔から、痩せの大食いって言われてて(笑)小さい頃から痩せていたので、食べることを強要されてたのですよ。なにかと言うと「食べなさい」と。で、結構、食べることにかけては強迫観念みたいなのもあって、無意識に「食べないと」なんて思ってたのですが…。

最近、自分の適性体重ってのは、きっとこれくらいなんだなぁ~と思ったので、頂ける量を美味しく食べるコトと。命を押頂くって感じの、それこそ、「頂く」って行為は、とても大切なコトなんだなぁ~って感じてます!

そしたらね、食への依存っていうか、とにかく食べるってよりも、今、必要とするものを頂きますに変わってきて。やたらめったら、満腹になることがなくなりました、コレ、不思議です(笑)

最近、思うことはね。
私は、きっと、自分自身を知るために、この分野を選択したのだろうなぁってコトで。人間って1人では成長できないし、精神的に自立するってことは他者との関わりの中から生まれる自己の覚知の繰り返しで、自分自身が成熟するってことなんだよね。

自分を知らないと、結局のところ、他人も知ることが出来なかったり、自分の問題なのか、他人の問題なのかの境目が見えなかったりと…。そこで関わりすぎだったり、逆に距離を取りすぎて、他者の痛みに気付かないって人も居たりと色々だけれども。

まずは、自分をよく知る、その為の振り返りの作業を大切にしてます!

というのも…。
禍転じてじゃぁないけれどさ。自分自身の感情やら、取ってる行動のおかしさみたいなものを感じている自分が居てね。それは、漠然としたものだったんだけれども、単純にコレはおかしいなって感じたのですよ。それこそ、自分を疑いながら信じることの矛盾の中で、そのおかしさは何だろうか?って思ってね。

日本って共依存の文化やら、依存の中で秩序を維持してきたじゃない。いわゆる、機能不全家族というヤツなんだけれども、その機能不全って何だろう?自分への影響って何だろう?って1つ1つ探って行くと、いっぱい出てくるのね。その都度に、「そっか、そんな思いを感じてた自分、痛かったねぇ」とか「もぉ、大丈夫だよ」とかって心の中で自分を抱きしめてます!(笑)

大人になって親を見ている自分と、自分の幼い頃に見ていた親っていうのは、全く別モノでね。親の思いや、子どもに対する愛情は感じているからこそ、今、両親との距離を取りながら一緒に居れるわけだし、そこに、やっぱり感謝はするのだけれども…。

私は親の所有物ではないっていうのは、かなり小さな頃から感じていて。それは、当然の反発として、独立心を促したわけですが。私の場合は両親の子じゃない、家の子だって思ってたんだよねぇ(笑)

だからこそ、私の興味は「家」であったり「家族」であったり、「ムラ」やら「地域」なんだけれど、それって日本独自の共同体であって、そこには必ず掟やら仕来りやら、それを守る厳格さがあるじゃない。日本人の8割は共依存の傾向にあるって言われる由来は、ココにあると私は思っています。で、我が家の家族のルーツは間違いなく、この「家」にあるのね。

そして、私は、この辺りを社会学からリサーチしていましたが…。心理学じゃないってコトがポイントで。自分の心理は知りたくないって当時、思ったの。知っても受け止められないって、えらく拒絶してて。だからこそ、自分の内面に触れずに居たのだろうと今になって思います。

日本でいう虐待と、欧米なんかのabuseって使われる意味合いが違うんだよね。日本は基本的に虐待を肯定的に認めてた文化があるのですよ。叩くことは躾の一環とかさ、間引きも日本の風習というか因習だし。ただ、それは当たり前にどこの家でも行われていたからこそ、親になった時、それを当たり前に繰り返す。でも、行きすぎやりすぎを止める家長が居て、親も家長が決めたその家の掟に従って生きてきたという文化が崩れたのは、やっぱり第二次世界大戦からでしょうねぇ…。

戦争が起きた国が本当に本来の姿に還るのに、100年かかるって説に、私は非常に納得しているのだけれども。戦争を生き抜く為に、養育どころじゃなかったり親を亡くしてしまった子どもやら、皆が生きることで精一杯だった時代に、敗戦でしょ…。そして、今の施策の大元を作っているのはGHQだからこその、1度、日本独自の生活習慣やら文化は崩れているんだよね。

そんな中で、明治の人間に育てられた子どもが親になって、でも、家は存在しなくなって、家族っていう小さな単位での生活で、子どもの逃げ場ってないよね。

昔から虐待ってあったけれども、それが家族って見えない中で行われていたからこそ外には漏れなかっただけで、虐待を受けた子どもが親になった今だからこそ、これだけ虐待の被害がクローズアップされるコトに、もっと危機感を感じないといけないって、私はそこに怖さを感じるこの頃です。

そんな中で、私も大人になって。今、見事に親の期待を裏切る子どもになっているからこそ、ある意味、一緒に居られると思ってて、失敗を繰り返す娘に呆れつつ、それでも、最後の時には、絶対に自分を守ってくれる唯一の存在だと感じられていることに感謝です…。

ただただ、今、こうして。ある意味、客観的に観れるのは全て自分が観ようとして養ってきたことの積み重ねによるものだと実感しているので。からこその、今の気付きを大切にするって思ってます!

私ね、現在進行形な仕事を始めて12年が経つのですよ。その関わりを振り返った時に、まず感じるのが無力感だったのね。何も出来ない自分だからこそ、まだまだ伸びなきゃならんと。それが原動力でもあったけれど、それで自分を苦しめていたことの重大さに気付きました(笑)

本来が、人が人を変えるなんて出来ないことなんですよ。自分の期待通りに動かそうって、それ、そのものが共依存だからね(笑)人との関わりの中で、自分がどう変っていくか、それが大切なことなのにも関わらず、出来ないからこそ出来るようにしようとしていた自分の関わりが、結局の所は無力感やら罪悪感に変わっていたのだけれども。

罪悪感を感じるって、すっごい無責任なコトだなぁ~って思いました。

そして、そんなコトを。感じる必要のないことを感じてた自分、「辛かったねぇ」、で。「よく頑張ったねぇ」「偉かったねぇ」なんてナデナデしてます(笑)

これまでの自分が居なかったら、今の自分は居ないので。今までは絶対に否定しません!それよりか、全部の自分を受け止めて、要らない感情は全て手放したいと…。

そんな感じで。
丁寧に丁寧に、自分という人間と関わって。自分に愛情をかけて生きます♪

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