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中世への憧れ

teacupから引っ越してきました。

北相木村(きたあいきむら)[覚書]

2013-05-25 06:13:00 | 先史時代
もともと、ここの「北相木村考古博物館」の学芸員が、藤森栄一(長野県の民間の考古学者)の孫「藤森英二」さんであることを知って、興味を持った。

調べてみると、北相木村というのは、人口が800人余りしかなく、それで博物館を持っているというのは凄いことだ。しかも、1565年村ができてから、440年以上がたち、市町村合併を伴わないという。


北相木村考古博物館には、栃原岩陰遺跡(とちばらいわかげいせき)の遺物が陳列されているそうである。この遺跡は、縄文草創期、早期の遺跡で、縄文人の骨が見つかったことでも知られる。

小海線「小海駅」下車、バスで20分とか

本町田遺跡公園

2013-03-31 05:47:00 | 先史時代
開園時間:9時~16時半(月曜休園日)

来訪日:2012年03月26日(火)
「忠生遺跡」の展示を見るついでに見た。

町田市立博物館に隣接するように「本町田遺跡公園」が整備・復元されている。ガイダンスルームがあって、解説資料とか結構な枚数置いてある。復元住宅は、縄文時代1基と弥生時代1基。

「竪穴式住居」って、縄文も弥生も外観は余り変わらないようで、どっちがどっちか分からない。内部の構造を観ると色々違いはあるようで、詳しい人は直ぐ分るようである。

このガイダンスルームの解説資料によると本町田遺跡は不思議な特徴がある。

(1)規模が小さく、倉庫とかがない。(恐らくこの遺跡を支えた別の大きな集団があった可能性があるとか)
 横浜市の、大塚・歳勝土遺跡など鶴見川沿岸の弥生時代の大集落と関連している可能性があるとか。

(2)「縄文時代の竪穴式住居」と「弥生時代の竪穴式住居」が同じ場所にある。
  しかも、弥生時代の住居は縄文時代の住居跡を避けて建っており、
  弥生人が意識的にそうしていると考えられること。

(3)なにも無い空間があること。広場のような場所だったのが意図的に空間を設けたらしい。

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ちょっとした思い出

私が、町田市立博物館に初めて行ったのは、7年前の2006年。「お札(神社仏閣の)」の展示をしたフランク・ベルナール展である。その時は、自家用車で行ったのであるが、この「本町田遺跡」については、その時気が付いた。

大分痛みが来ていて、その後整備再建されたようである。

「忠生遺跡の図録」を買ったり、「本町田遺跡のシール」とか、いただいた。そんな私を観て、この日、平日で見学者も余りいなかったせいかもしれないが、受付の方が、本町田遺跡のパンフを出してきて下さった。

既に博物館から出て、本町田遺跡公園の方に歩いて行っている私を追いかけてきて、わざわざ下さったのである。有り難いことである。







↓縄文時代の住居再現




↓弥生時代の住居再現


忠生(ただお)遺跡展

2013-03-30 22:40:00 | 先史時代
展示名:忠生遺跡 -町田市内最大遺跡の発掘と成果-  
場 所:町田市立博物館
会 期:3月16日~5月19日
入館料:100円(高校生以上)
図 録:1100円 (私は購入していない)
音声ガイド:なし
私が見学した日:2013年03月26日(火)

感想:
土器を見る限りは、長野県の「尖石」や「井戸尻」考古学館の展示物と比べると、見劣りしてしまう。ポスターの表に写真が乗った深鉢型土器(町田市指定有形文化財)は数少ない造形の美を持った遺物では無いかと思う。

【追記 2013/04/06】ーーーー
後から思い至ったが、縄文時代の初期と終末期は、土器の装飾性が無く、最盛期が驚くほど
装飾性に富んでいるらしい。どうして、こういうブームが起きたのか不思議でならないが。

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しかし、巨大な石棒やら、縄文住居発掘模型など、しっかり展示されており、比較的魅力的であると思う。

ちょっと不満を言えば、他の遺跡との関わりあいやどんなことが分かってきているのか今一つ上手く解説されていなかったことである。


貝の考古学  [講演 覚書]

2012-04-30 23:38:00 | 先史時代
日時:2012年04月29日(日)14:00~15:30
場所:横浜市歴史博物館
参加費:600円(「貝アクセサリー教室」の小冊子付き)
講演者:忍澤成視氏(市原市教育委員会 埋蔵文化財調査センター)

折角、面白いお話をお聞きしたのに、レビューしておかないと忘れてしまいそうで、メモ書き程度にレビューしておきます。

1.はじめに
元々は骨格器の専門家で、その方面の名著がある。最近では貝を使った古代の装身具の研究を行っている。考古学は過去の人々の富や社会の在り方を追求する学問で、忍澤さんの場合、装身具の材料となった貝について研究して先史時代の習俗を明らかにしようというもの。
従来の考古学は考古遺物を中心に調べていて、生きた貝の研究をしていない。

考古遺物としての白くなっていて、大して美しいものではないが、生きた貝と比べることで本来はピカピカと美しいものであることが分かる。

①現生貝類の標本
②生息状況
③打ち上げ貝(死んで海岸に打ち上げられたもの)のデータ
④製作使用実験
⑤現生貝調査データと考古調査の照合

といった広い範囲での研究を行う。
そのようなことから、貝製品の素材は「死骸」利用であった。(生きた貝の利用では無い。)死んだ貝のデータは皆知らない。(どこにどのくらいの量が打ち上げられるか。)


2.幻の貝オオツタノハ
長野県の縄文遺跡からも、愛媛県の縄文遺跡からも同じ貝が出てきており、同じ時期に全国的に同じ貝への執着が起きたように思える。

昭和3年、船橋市古作貝塚で、貝輪を入れた2個の蓋つき土器が見つかった。(恐らく内部で紐で吊り下げて置かれたもので、保存状態は非常に良い。)

装身具として利用されるのは、「さるぼう」「べんけい貝」「つたのは」といったもの。貝輪は殆どが女性用。(殆ど2枚貝が使われ、巻貝は偶にアカニシが使われる程度。)

「オオツタノハ」という貝は、笠貝の一種で北緯30度位が生息域である。市原市西原貝塚では、1000年分の資料の中で15個しか見つかっておらず、稀少で価値の高い貝であったと考えられる。(いわばブランド品:土でそっくりに作ったものすら発見されている。)

オオツタノハの生息域は、南九州の大隅諸島、トカラ列島、伊豆諸島南部の鳥島と考えられていたが、オオツタノハ製貝輪の分布は東日本に偏っており、伊豆七島で生息していないのは不自然であった。

居ず良い島下高洞で多量のオオツタノハ(殆どは残骸)が見つかる。

このことから、伊豆七島のどこかで採取され、大島を経由して東日本に運ばれた可能性が出てきた。

三宅島ココマ遺跡が1934年見つかり、2007年学術調査された。その結果、この遺跡が貝を捕獲に来た人が波待ち・潮待ちしたものであると推定された。

そして、生態調査の結果、八丈島、三宅島、御蔵島でオオツタノハの生息が確認され、この地域からもたらされたものであろうことが実証された。

また、出土する会にオコシのような道具で傷を付けた痕跡があり、オオツタノハは生き貝で利用したことが分かった。

この日、始めて公開するというグラフは、オオツタノハは縄文時代は、個体が大きかったが、盛んに採集されたためか、弥生時代には小粒になったと考えられる。

3.エピローグ
西の貝の道との関係
今後も実践考古学を続けてゆく。
オオツタノハは美味しく食べられ、南九州の諸島では料理を出しているところもあるとか。

参考資料としては、忍澤さんの著作
①房総の縄文大貝塚・西広貝塚 1500円+税 新泉社
②貝の考古学 7350円 同成社





海にこぎだせ弥生人

2012-04-30 12:48:00 | 先史時代


場所:横浜市歴史博物館
会期:4月7日(土)~5月27日(日)
入館料:一般300円/高校・大学生200円/小中学生100円
    常設展共通券:一般500円/高校・大学生300円/小中学生100円
音声ガイド:なし
図録:700円?(予算がなく、購入しなかった。)
アクセス情報:横浜地下鉄ブルーライン センター北。

 弥生時代は本格的にコメ作りが始まった時代です。しかし当時の人たちは陸だけで暮らしていたわけではなく、海でも積極的に活動していました。
 この展示会では、横浜市内の貝塚から出土した資料や隣接する三浦半島の洞窟から出土した資料、さらに全国各地の骨格製の漁具南島産の貝輪など、漁で使われた道具や海を越えて運ばれた品物を展示し、海の上で、また海を越えて活動した弥生人の姿に迫ります。

内容
プロローグ
Ⅰ 弥生人と貝塚
 (1)丘の上の遺跡
 (2)海辺の遺跡
Ⅱ東と西の海
 (1)日本海交易の拠点
 (2)東西弥生文化の境界
 (3)外洋漁撈文化の伝承
Ⅲ海を越えた交流
 (1)漁具に見る交流
 (2)卜骨の広がり
 (3)南島からの貝の道
Ⅳ弥生人の姿
エピローグ

感想:
さまざまな骨格器を使った漁労の道具(釣り針、アワビオコシ、銛頭)を見ることができて、農耕中心のイメージの強い弥生文化で、漁労も、材質は異なるものの、現代の道具と形状等が同じもので行われていることに感心する。貝輪の話は、この日丁度講演があって、そのおかげで、理解が広がった。