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中世への憧れ

teacupから引っ越してきました。

特別展 百舌鳥・古市古墳群出現前夜

2013-07-02 15:38:00 | 日本史(古代)


展示名:特別展 百舌鳥・古市古墳群出現前夜
場 所:近つ飛鳥博物館
会 期:4月27日~6月30日
入館料:600円(大人一般)
図 録:1200円
音声ガイド:あり(無料)常設・特別展両方の解説が入っている。
私が見学した日:2013年06月25日(木)

感想:
常設展と特別展「百舌鳥・古市古墳群出現前夜」を見る。常設展示は模型・レプリカが多いものの、本物の出土物もかなりあり、前方後円墳の模型は大きさから言って圧巻。箱もので大阪府の予算を食ったものとして、やり玉に挙げられた博物館だが、なかなか良いんじゃないかなあ。

音声ガイドも貸し出してくれて、素人向けと詳しい人向けで、数字を変えてあり、詳しい人向けをちゃんと聞いていると、時間がいくらあっても足りないくらい。

古墳の数の多さや、大王の権力の大きさを感じ取ることができる。なかなか素晴らしい。


特別展の方は、大きな古墳が造られる以前に、既に多数の古墳が造られているのが分かり、河内地方にも、大きな権力の中枢があったように思える。



特別展 出雲

2012-11-04 06:19:00 | 日本史(古代)


展示名:特別展 出雲  
場 所:東京国立博物館
会 期:2012年10月10日(水)~11月25日(日)
入館料:中国王朝の至宝と共用券 1500円(大人一般)
    出雲展のみ 800円

図 録:1500円 (私は購入していない)
音声ガイド:300円
私が見学した日:2012年11月02日(金)

感想:
「特別展 中国王朝の至宝」を見てから、「出雲」を見ると、文明という点で遜色してしまう。出雲大社が作られたと思われる弥生時代、中国は既に三国時代で、高度に発達していたのであるから。

しかし、高さのある古代の出雲大社の社(出雲大社境内遺跡)や、「荒神谷遺跡出土の銅剣」(358本発見されたあれ)の、「加茂岩倉遺跡の銅鐸」(1か所から39個が見つかった。)が見れて、そういう意味では感激する。

1章 出雲大社の歴史と宝物
2章 島根の至宝



朝日新聞に「聖徳太子はいなかった。」説

2012-04-03 01:40:00 | 日本史(古代)
先日大阪に行った折、四天王寺に行きたかったのですが、妻子の興味を考えて行きませんでした。少し縁があるのでしょうか、今日の朝日新聞の記事に「本当にいたの? 聖徳太子」という記事が載っていました。

私は、この説の存在は知っていたのですが、単に、「聖徳太子とは呼ばれておらず、厩戸皇子と呼ばれていた。」のであって、聖徳太子の業績は正しいと解釈していました。

新聞に載ったのは、中部大学教授大山誠一先生の著作「〈聖徳太子〉の誕生」(1999年 吉川弘文館)で唱えられた説で、その業績の殆どが構成の捏造であるという説。なかなかショッキングでした。


593年 皇太子・摂政の地位   :後世の創作  
593年 四天王寺建立      :本来は無関係
600年 遣隋使派遣       :推古天皇の業績
603年 冠位十二階       :推古天皇の業績
604年 十七条憲法の制定    :後世の創作
607年 斑鳩寺(法隆寺)の建立 :厩戸王が建立
615年 三経義疏(さんぎょうぎしょ):別人の著作

という説だとか。殆ど全否定ですね。

その他
大阪府太子町に聖徳太子の墓と言われる古墳がある。内部の様子は、大阪府立近つ飛鳥博物館(大阪府河南町)に復元されているとか。

青墓古墳

2011-10-29 06:11:00 | 日本史(古代)
ずっと引き続き

10/5のブログから書き始めてなかなか終わらない下諏訪の写真シリーズ。
漸く、今日で一段落。まだ「上諏訪」ものもありますが、次に回します。

青墓古墳は、下諏訪宿近くの街中にあり、周りを家で囲まれていまして、遠景が望めないのですが、古墳であるというのはすぐ分かります。
解説には、諏訪地方唯一の前方後円墳とありますね。




↓写真中央の木の根元に見えてる石が、どうも石室のようです。


平安大震災(7)

2011-07-01 05:07:00 | 日本史(古代)

読売新聞の文化面の、「平安大震災」という連載 5/21、5/29、6/5、6/11、6/21、6/23のブログに引き続き。

2011年06月29日の読売新聞朝刊の記事より以下引用ーーーーーーーーーーーーーー

869年の貞観地震に続いて、関東地震、火山の噴火・・・・。仁和3年(887年)7月にはついに、平安京(京都市)を大地震が襲った。都だけでなく、日本全国を示す「五畿内七道」が大きく揺れたと、正史「三代実録」は記す。
 時の光孝(こうこう)天皇は宮殿から退避して、外の庭をご在所とした。倉庫や家屋が倒壊して多数が圧死し、役人の中にはショックで死んだ者もいた。各地に津波が押し寄せ、特に大阪湾北岸が最大の被災地になった。
 三代実録は収まらない余震の中、1か月後に光孝天皇が急逝した記事で終わる。次の正史「新国史」の編纂も試みられたが完成せず、国家による国史編纂事業はこれをもって終止符を打った。日本は摂関期を経て、武士が台頭する新しい時代へと動いていく。
 かつて仁和地震は南海地震であり、「五畿内七道」の表現は誇張だと考えられていたが、石橋克彦・神戸大学名誉教授(史料地震学)は1999年、「東南海・東海地震も連動した巨大地震だった」とする説をあげた。
 史書「日本紀略(にほんきりゃく)」などには、仁和地震の翌年5月、長野県の6つの郡が土石流と洪水で押し流されたとあった。近年巻き込まれた樹木の年輪年代測定などによって、仁和地震で山が崩れ自然のダム湖ができ、翌年の梅雨でこのダムが決壊した可能性が高いことが判明した。仁和地震は全国各地を襲った巨大地震だったことが、ほぼ裏付けられたわけだ。
 南海・東南海・東海の一連の地震は約100年の間隔で発生しており、間近では1946年と44年に南海と東南海地震が起きている。
石橋名誉教授は「日本列島で、現在と同じように地震が起きるようになった最近50万年のうち、地震の記録が残っているのは、せいぜい1400年に過ぎない。当然、未知の地震や津波があると考えるべきだ。」と指摘。近世以降は大津波がない西日本の日本海側などの検証の必要性を訴える。
歴史の教訓をどれだけ減災に行かせるか、震災後の私たちが負う課題は大きい。
(文化部 岡本公樹)

引用終わりーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

【私の感想】
南海・東南海・東海の一連の地震は約100年の間隔で発生しており、それに備えるのは当然だ。準備を怠るわけにはいかない。近世以降は大津波がない西日本の日本海側は、今や原発が多数あるわけで、歴史の検証の意味合いは大きい。