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中世への憧れ

teacupから引っ越してきました。

善然神

2010-01-16 03:55:00 | 郷土史(茨城)
タイトルは「ぜんぜんしん」と読みます。

2009/11/30のブログに書いた「亀田鶯谷に関する講演」に関連して本稿書いてみました。

下総国岡田郡東蕗田村(現茨城県八千代町東蕗田)の農家に生まれ、江戸に出て亀田綾頼(注1)について漢籍を学び、漢学者となって亀田家を継いだ「鶯谷(おうこく)」という人物がいました。

この鶯谷が、鈴木保次郎と呼ばれた少年時代、農事の合間に村の鎮守の天満社の別当寺の僧龍賢から漢籍を読む手ほどきを受けておりました。

鶯谷は、後年までこの人を敬い、64歳のときにこの人の為に「善然神記」を書いております。(八千代町歴史民俗資料館企画展図録「亀田鶯谷と八千代地方の漢学」より一部引用。)

鶯谷は少年期に漢籍を教えてくれたお坊さんに感謝し、老年になっても敬っていたんですね。師弟関係が希薄になっている今の時代から見ると、感激ものです。

それにしても、この「僧龍賢」に「善然神」と名前を付け、石碑まで建ててしまったようで、人々から好かれていたんでしょうね。「善然神」の本当の意味は知りませんが、善き神、福与かな神を連想いたします。

(注1)儒学には、朱子学、陽明学、古学、折衷学などに分類されるが、このうちの折衷学の大家に、亀田鵬斎がいる。亀田家は鵬斎を初代に、二代目は実子綾頼が、三代目をこの鶯谷が継承した。

【編集】2010/1/16 (注1)を追記

多賀谷城址

2009-09-24 00:01:00 | 郷土史(茨城)
多賀谷氏は、元々結城氏の家臣であったが、戦功を重ね、常陸国下妻の地を領して、多賀谷城(下妻城)を築く。後に自立して戦国大名化する。後に分裂して、八千代町太田城に拠る系統と2系列となる。

太田城に拠る系統は結城氏に従ってこの地を去り、下妻に拠る系統は佐竹氏にしたがって出羽秋田に移る。

下妻城の城跡は、今は城址公園に石碑しかなく、城跡だったと想像させる痕跡は全くと言っていいほどない。
下妻市内に、かつての土塁跡として、下妻一高横の稲荷山、関東鉄道沿線なども残るが、それが城の痕跡であるとは、あまり知られていない。
他にも、堀跡と考えられる低地もあるが、次第に失われている。

関東戦国の平城ながら、広大な堀(湿地)を生かした巨大な城であったらしい。





【編集記録】
09/09/26
「下妻城は近世にも使われているが」と最初書いてしまったが、私は誤解していたようで、江戸時代の領主であった井上氏は、1万石の譜代大名で、下妻の地には陣屋はあったが、多賀谷城そのものを使っていたわけではないらしい。
多賀谷城の遺構の一部が井上氏の陣屋になっていたと考える。
下妻は、幕末に水戸の天狗党に襲われたことがある。

逆井城

2009-09-23 00:02:00 | 郷土史(茨城)
9/22 茨城から藤沢に帰ってきました。
あまり、実家の役に立たなかったなあと反省しつつ、墓参りしただけでも良かったか。

藤沢への帰りに、一度行ってみようかと思っていた「逆井城(さかさいじょう)」に立ち寄りました。一応関東戦国風に復元されているといえるでしょうか。
中世城郭もそれなりの考証の上に作ったり、他から移築してきているようです。

また、土塁とかにはあまり手をつけていないように思えます。

逆井城は、後北条氏の拠点で、飯沼を境に、佐竹・多賀谷・結城・山川氏と対峙したとあります。


逆井城




飯沼干拓地(遠くに見える林が対岸と思われます。江戸時代に干拓された大きな沼だったところです。手前は、干拓の時に作られた川 西仁連川です。)逆井城はこの飯沼に突き出た形をしていたと思われます。




折角復元されたのだから、どこかに「三つ鱗」がないかと探しておりましたら、トイレに一つ見つけました。何かと勘違いされないよう、人がいなくなってから撮影しました。



【この日購入した本】
・図説 茨城の城郭 (茨城城郭研究会 図書刊行会、2800円+税)

休日日記

2009-09-21 21:46:00 | 郷土史(茨城)
9/21の日記 
お彼岸を、故郷で過ごすということは、癒されますね。夜は秋の虫の声を聞いて読書しています。

私は実家に戻るといつも、米を貰って帰るのですが、今日はその貰って帰る米を精米しに、近所のコイン精米機に行って参りました。近所と言っても、1.5kmは離れており、車で行きました。すると中学の時の友人がやはり精米していまして、立ち話をいたしました。友人はメタボ体型の私に気が付かなかったようです。(笑)

どうも、実家に帰るとあれこれ母親の指図を受けるので、今日はそのまま脱走して、

古河歴史博物館へいきました。古河公方が目当てであったが、余り細かい展示ではありませんでした。蘭学者で家老の鷹見泉石の資料が多いようでした。そういえば、W子さんも、そんなこと書かれていたような気がします。

夕方ウォーキングは下妻市の多賀谷城趾まで往復1万歩超。



休日日記

2009-09-20 22:16:00 | 郷土史(茨城)
昨日茨城の実家に戻る。今日は、6時頃から動き始めて、家の掃除。朝食後墓地に行って、掃除をして、墓参りをした。江戸時代以前の先祖の墓と思われる圓福寺跡の墓地もしっかりとお参りする。
墓碑に書かれている文字が初めて読みとれた。南無阿弥陀仏らしい。年号は読みとれなかった。
午後は本を読んでいるうちに寝てしまう。