タイトルは「ぜんぜんしん」と読みます。
2009/11/30のブログに書いた「亀田鶯谷に関する講演」に関連して本稿書いてみました。
下総国岡田郡東蕗田村(現茨城県八千代町東蕗田)の農家に生まれ、江戸に出て亀田綾頼(注1)について漢籍を学び、漢学者となって亀田家を継いだ「鶯谷(おうこく)」という人物がいました。
この鶯谷が、鈴木保次郎と呼ばれた少年時代、農事の合間に村の鎮守の天満社の別当寺の僧龍賢から漢籍を読む手ほどきを受けておりました。
鶯谷は、後年までこの人を敬い、64歳のときにこの人の為に「善然神記」を書いております。(八千代町歴史民俗資料館企画展図録「亀田鶯谷と八千代地方の漢学」より一部引用。)
鶯谷は少年期に漢籍を教えてくれたお坊さんに感謝し、老年になっても敬っていたんですね。師弟関係が希薄になっている今の時代から見ると、感激ものです。
それにしても、この「僧龍賢」に「善然神」と名前を付け、石碑まで建ててしまったようで、人々から好かれていたんでしょうね。「善然神」の本当の意味は知りませんが、善き神、福与かな神を連想いたします。
(注1)儒学には、朱子学、陽明学、古学、折衷学などに分類されるが、このうちの折衷学の大家に、亀田鵬斎がいる。亀田家は鵬斎を初代に、二代目は実子綾頼が、三代目をこの鶯谷が継承した。
【編集】2010/1/16 (注1)を追記
2009/11/30のブログに書いた「亀田鶯谷に関する講演」に関連して本稿書いてみました。
下総国岡田郡東蕗田村(現茨城県八千代町東蕗田)の農家に生まれ、江戸に出て亀田綾頼(注1)について漢籍を学び、漢学者となって亀田家を継いだ「鶯谷(おうこく)」という人物がいました。
この鶯谷が、鈴木保次郎と呼ばれた少年時代、農事の合間に村の鎮守の天満社の別当寺の僧龍賢から漢籍を読む手ほどきを受けておりました。
鶯谷は、後年までこの人を敬い、64歳のときにこの人の為に「善然神記」を書いております。(八千代町歴史民俗資料館企画展図録「亀田鶯谷と八千代地方の漢学」より一部引用。)
鶯谷は少年期に漢籍を教えてくれたお坊さんに感謝し、老年になっても敬っていたんですね。師弟関係が希薄になっている今の時代から見ると、感激ものです。
それにしても、この「僧龍賢」に「善然神」と名前を付け、石碑まで建ててしまったようで、人々から好かれていたんでしょうね。「善然神」の本当の意味は知りませんが、善き神、福与かな神を連想いたします。
(注1)儒学には、朱子学、陽明学、古学、折衷学などに分類されるが、このうちの折衷学の大家に、亀田鵬斎がいる。亀田家は鵬斎を初代に、二代目は実子綾頼が、三代目をこの鶯谷が継承した。
【編集】2010/1/16 (注1)を追記