2022年のシーズン最後を飾るのは、首席指揮者高関健が指揮するグスタフ・マーラーの交響曲第9番二長調だ。これまで何回この曲の実演を聴いてきたことだろう。その度に心をえぐられるような思いがして、とりわけ終楽章では慟哭が込み上げてきて涙するのが常であった。それは、第一次世界大戦開戦前夜という作曲の時代背景や、長女との死別や、まもなく死を迎える作曲者の境遇等が入り混じり、「別れ」とか「死」とかに結びつき刷り込まれ重ねてきた自身の鑑賞歴が多分に影響していたのだと思う。しかし今回「涙」は一切なかった。しかし絶大な感動があった。それは一体何故だったのか。高関は今回演奏するに当たって、スコアと作曲者の自筆原稿等の補助資料を丹念に比較検討し、自分なりにあるべき姿を確定しそれに基づいて演奏すると、そして今回は数ある有名指揮者の音源を一切参照することはなかったとプレトークで語っていた。まさにこの実にマエストロらしい、客観的に作曲者に迫ろうとする学究的姿勢こそが、今回のこれまでにない感動に繋がったのではないかと考える。つまり先入観や手垢を一切綺麗に流し去ったところで作品に対峙するという本来的な原典主義がここにあったのだと思う。その結果、つまらぬ感傷や思い入れは排除され、作品本来の立派さだけが姿を現したのである。一点一角も疎かにしない丁寧な検討の結果、鳴るべきものが的確なバランスで鳴り、あるべきテンポで流れるところから格調高く崇高な音楽が姿を現した。それを評して「立派」以外に表す言葉を見つけることは難しい。それを見事に実現したシティ・フィルは、正に高関が7年間鍛え抜いた結果を、この日見事に披露したのである。そして私が今回この曲に見たのは「人の生」だった。それは、定めとしての「死」を肯定的に描いた人生だ。
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