最近よくこの茂木健一郎なる人を雑誌等でみかけるようになった。僕は本を手に取るとまず著者のプロフをみる。
で、茂木さんとはどんな人物だろうか?
1962年生まれ。ソニーコンピューターサイエンス研究所シニアリサーチャー。東大文学部と理学部を卒業し同大学院で博士号を取得。
なるほど文理両道の方のようだ。
本書はいくつかのキーワードを軸にこの情報の洪水である現在をいかに生きるかという一種の処方箋のようなものを提示している。
それらキーワードの筆頭はやはり茂木の名前を一躍知らしめた「クオリア」という概念であろう。
クオリアとは何か。
茂木のHPを参照して以下引用してみる。
クオリアは、「赤い感じ」のように、私たちの感覚に伴う鮮明な質感を指します。クオリアは、脳を含めての物質の物理的記述と、私達の心が持つ様々な属性の間のギャップを象徴する概念です。クオリアが脳の中のニューロンの活動からどのように形成されてくるかということは、私たちの脳における情報処理を特徴付ける「統合された並列性」を解く上で重要な鍵になっています。クオリアの研究は、私たちの意識、主観的経験が物質的過程であるニューロンの活動からどのように生まれてくるかを明らかにする上で本質的であるとともに、C.P.Snowの言った「二つの文化」の間の溝を埋める可能性につながります。
僕の浅い理解では、つまり現象学におけるモノ自体とモノを認識する我々の主観の間にある隔たりを生理学的アプローチで実証しようとする試みなのであろうか?
興味深い記述があるので引いてみる。
宗教や思想の世界とむしろ親和性が高いとも言える私たちの素朴な「生活知」と、科学によって支えられる現在の公式的「世界知」の間のずれは、原理的にいえば次の事実を背景として生まれているといってよいでしょう。
すなわち、私たちが単なる物質的存在ではなく、意識を持ち、その中でさまざまな質感(クオリア)を感じる存在であるという事実です。
本書はいくつかのキーワードを軸に現代における脳の果たす役割と、情報の洪水の中でいかにいきるかという「生き方の処方箋」のようなことまで書かれている。
橋本治がある著書で次のようなことを述べていた。
20世紀はイデオロギーの時代で、あらゆる理論が流行り、そしてその流行すら理論になった。そして理論を突き詰めるあまり宗教などの超理論に行き着くというパラドックスに陥ってしまっている。と。
茂木も同じようなことを述べている。
現代ではよりどころとなる理論が無いから宗教や占いのような「お話」に処方箋を求めると。
この現象に対して、橋本は「わからない」という方法があると述べる。あらゆるものはわからないのだ。だから個別にそれにぶつかって解決して行こうという主張である。
茂木はまずこの社会の土台となっているものが「サイエンス」であるということを認識せよという。
私たちの生活はすべてその土台にはサイエンスがある。日常生活から社会生活、エンタテインメントにいたるまですべてである。
ゆえにそれをきちんと認識し、サイエンスに対する関心を高めること、究極には、そのベクトルは脳に向かうのだろう。
極めてあやふやな理解である。
もう少し彼の本を読んでその琴線に触れてみたい。
で、茂木さんとはどんな人物だろうか?
1962年生まれ。ソニーコンピューターサイエンス研究所シニアリサーチャー。東大文学部と理学部を卒業し同大学院で博士号を取得。
なるほど文理両道の方のようだ。
本書はいくつかのキーワードを軸にこの情報の洪水である現在をいかに生きるかという一種の処方箋のようなものを提示している。
それらキーワードの筆頭はやはり茂木の名前を一躍知らしめた「クオリア」という概念であろう。
クオリアとは何か。
茂木のHPを参照して以下引用してみる。
クオリアは、「赤い感じ」のように、私たちの感覚に伴う鮮明な質感を指します。クオリアは、脳を含めての物質の物理的記述と、私達の心が持つ様々な属性の間のギャップを象徴する概念です。クオリアが脳の中のニューロンの活動からどのように形成されてくるかということは、私たちの脳における情報処理を特徴付ける「統合された並列性」を解く上で重要な鍵になっています。クオリアの研究は、私たちの意識、主観的経験が物質的過程であるニューロンの活動からどのように生まれてくるかを明らかにする上で本質的であるとともに、C.P.Snowの言った「二つの文化」の間の溝を埋める可能性につながります。
僕の浅い理解では、つまり現象学におけるモノ自体とモノを認識する我々の主観の間にある隔たりを生理学的アプローチで実証しようとする試みなのであろうか?
興味深い記述があるので引いてみる。
宗教や思想の世界とむしろ親和性が高いとも言える私たちの素朴な「生活知」と、科学によって支えられる現在の公式的「世界知」の間のずれは、原理的にいえば次の事実を背景として生まれているといってよいでしょう。
すなわち、私たちが単なる物質的存在ではなく、意識を持ち、その中でさまざまな質感(クオリア)を感じる存在であるという事実です。
本書はいくつかのキーワードを軸に現代における脳の果たす役割と、情報の洪水の中でいかにいきるかという「生き方の処方箋」のようなことまで書かれている。
橋本治がある著書で次のようなことを述べていた。
20世紀はイデオロギーの時代で、あらゆる理論が流行り、そしてその流行すら理論になった。そして理論を突き詰めるあまり宗教などの超理論に行き着くというパラドックスに陥ってしまっている。と。
茂木も同じようなことを述べている。
現代ではよりどころとなる理論が無いから宗教や占いのような「お話」に処方箋を求めると。
この現象に対して、橋本は「わからない」という方法があると述べる。あらゆるものはわからないのだ。だから個別にそれにぶつかって解決して行こうという主張である。
茂木はまずこの社会の土台となっているものが「サイエンス」であるということを認識せよという。
私たちの生活はすべてその土台にはサイエンスがある。日常生活から社会生活、エンタテインメントにいたるまですべてである。
ゆえにそれをきちんと認識し、サイエンスに対する関心を高めること、究極には、そのベクトルは脳に向かうのだろう。
極めてあやふやな理解である。
もう少し彼の本を読んでその琴線に触れてみたい。