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『よし』・『ゆき』、我が家に住むペンギン?の「ペン太」の散策記です!

猫と鼠と ~2019.5.5(日)

2019-07-15 19:58:10 | 街・観光地編2019

 ゆきさんとの東京散策。
ゆきさんの希望で浅草スタートになりました。

 「浅草神社の端午の節句御朱印が欲しいけれど・・・」と言うゆきさんに付き合って浅草へ。
案の定毎度毎度の大行列。
限定御朱印は朝の9時には無くなったとの事。
この列は限定版ではないけれど、後日引き換えに来る『御朱印引換券』の列との事。
私にとっては予想通りの混雑で、これを見て漸くゆきさんも諦めがついた様子。
浅草神社を諦めて、他へ行こうと言う事に。

 私は「折角来たのに、素通りするのはなぁ~」と思っていたので、ゆきさんを誘って浅草寺にお参りする事に。

 仲見世通りを通って駅へ。
凄い人ごみで・・・。


 雷門前にて。
浅草に来たのは、私はつい先日と今回の2回のみ。
先日は見られなかったので、「此れが仲見世か!」、「此れが雷門か!!」と言う感じ。
人が少ないのは深夜や早朝だけなのかな?

 森下駅へ移動。
地下通路にはこんなオブジェが。
鯛、招き猫に、壁には松の絵。
外国人観光客への日本文化のアピールなのかな?

 猿江神社に来ました。
「地元住民の氏神様」と言う感じの規模の神社。
コンクリート造りの社殿で、「趣が無い」と言うのを、「関東大震災で焼失した後にコンクリートで再建された事お蔭で空襲での焼失を免れた『国内最古のコンクリート造りの社殿』」と銘打って価値有る物だと言っている。
そう言われると、「凄い物なのか」と感じてしまうのは、「人間の価値観何て所詮」と言う事何だろうな・・・。

 境内の神猿。
可愛くてつい撫で撫でしたくなる (⌒∇⌒)


 猿江神社の御朱印。
この付近が入江だった時代に源義家配下の鎧武者の遺体が流れ着き、遺体を葬った塚を祀った事が神社の由来。
猿藤太と言う名の武者で、「彼が流れ着いた入り江」→「猿江」と言うのが地名の名の由来と伝わる。

 御朱印その②

 御朱印その③ 改元御朱印。

 両国へ移動。
国技館の中の様ですが、此処は改札出口です。
右は白鵬、左は武蔵丸。
下には力士の手形が並んでいます。

 駅の出口には『力相撲』と言う題の石像が。
駅スタンプはほかの出口だったのかな?見付けられなかった・・・。

 街の通りの歩道にはこんな物も。
千代の富士の手形。 

 土台に歴代の横綱の手形、その上に銅像。
手形の左は若乃花、右は三重ノ海。
三重ノ海だから、若乃花は『若貴兄弟』の3代目若乃花ではなく、初代の若乃花だろうな。


 千葉街道の横断歩道にて。
向こう側のアーケードみたいなのが回向院(えこういん)の入口。


 回向院境内。

 関東大震災横死者の墓。
回向院は10万人以上が亡くなったと言われる江戸時代の『振袖火事』の後、身元不明の死者を葬り、供養するために建てられた寺。
様々な事柄で亡くなった人、動物を供養する寺になっています。

 海難供養塔。
6基の内3基は伊勢白子関係の碑。
➀『南無阿弥陀仏』
文化10(1813)菱垣廻船十組問屋が建立し、安政大地震で倒れ、安政3(1856)再建。
②『溺死47人墓』
明治2(1869)函館戦争の援軍として横浜から出港した肥後熊本藩の蒸気船が上総川津村(現在の千葉県勝浦市川津)沖で沈没し、260余人が亡くなり、その内、富岡文吉らが知っている47人を供養する為に建立。
③『南無阿弥陀仏』
勢州白子参州平坂溺死供養塔。文化11(1814)江戸大伝馬町太物問屋仲間が白子、平坂(現在の愛知県西尾市平坂町)二港に属する溺死者の為に建立で、名号は徳本の書。
台座部分には中村仏庵の撰書により、天明2(1782)の大黒屋光太夫の一件から文化11に至る海南小史が綴られています。
④『紀州大川徳福丸富蔵舟溺死人之墓』
安政4(1857)4/20に紀州大川浦(現在の和歌山県和歌山市大川)の富蔵船の乗務員7名が江戸から帰郷の途上、遠州相良沖(現在の静岡県牧之原市)で溺死した。
彼等を供養する為に江戸の樽廻船問屋井上重次郎と酒問屋、荒荷方の荷受人達が世話人になり建立。
⑤『勢州白子三州高濱船溺死一切精霊』
寛政元年(1789)三河平坂の施主が建立した帆掛船型の碑。
帆の正面には犠牲者7名の戒名と俗名が、帆の裏面には白子の大黒屋光太夫と高浜の弥兵衛船の死者が一切精霊としてあわせて供養されています。
⑥『勢州白子戎屋専吉船溺死者等供養塔』
文政8(1825)の伊豆神津島沖の溺死者の為に建立。後に天保、安政の遭難者名を追刻。

 この先に有るのがお目当ての場所。
手前右の灯篭の前に寝ているのは猫です。

 正面のガラスケースに入っているのが『猫塚』で、右は鼠小僧治郎吉の墓。
猫塚は、『猫の恩返し』と言う話が伝わっています。
幾つか話があり、大なり小なり異なる点も有るのですが、大体の話の流れは同じ物。
猫塚の横に設置されている看板に記載されている話だと、
 「猫を大変可愛がってた魚屋が、病気で商売が出来なくなり、生活が困窮してしまいます。すると猫が何処からともなく二両のお金を咥えて来、魚屋を助けます。
或る日、猫は姿を消し戻って来ません。或る商家で二両咥えて逃げようとしたところを見付かり、奉公人に殴り殺されたのです。それを知った魚屋は、商家の主人に事情を話したところ、主人も猫の恩に感銘を受け、魚屋と共にその遺体を回向院に葬りました。
江戸時代の幾つかの本に紹介されている話ですが、本によって人名や地名の設定が違っています。江戸っ子の間に広まった昔ばなしですが、実在した猫の墓として貴重な文化財の一つに挙げられます」

他の話だと、大酒飲みの天秤担ぎ(金さん)が、大晦日に博打で仕入れ用のお金3両を取られて迄飲んでしまい、正月2日の初商売の買い出しに行けなくなり、可愛がっていた猫(コマ)に向かってやけ酒を飲みながら「猫に小判何て事があるから、何処かへ行って3両の金を都合して来いやい」と言いながら眠ってしまった。
 良く朝目を覚ますと枕元に小判が3両置いてあり、朝湯の帰りに酒を買って来て飲み始め、コマに向かって「ありがとよ」何て言っていたが、酔いが回ると、「どうせ持ってくるなら三両何て言わねえで、もっと咥えて来いやい」何ていってしまった。
翌日、仕入れた物を大店に持っていくと、様子がおかしく、尋ねると、大晦日の日に3両の金が無くなり、元旦の夜中にも物音がするので見に行ったら、猫が用箪笥を一生懸命開けようとしていた。
さては昨日の3両もこの猫の仕業だなと、店の若い者が棒を持って追い詰め、殺したとの事。
猫の死骸を見せてもらうと、コマの哀れな姿で、泣き崩れる天秤担ぎから事情を聴いたこの店の主人がコマに感心して
「回向院に葬っておやり」と、5両の金を渡した。
コマの墓は鼠小僧の隣に建てられ、天秤担ぎは、以後酒も博打もやめて仕事に精を出し、やがて大きな店を構えた。
その店の事を誰言う事無く『猫金、猫金』と呼ぶようになり、店は明治迄続いた」
と言う物。



 鼠小僧の墓の前には前立が有り、「削るのは前立の方だけにして下さい」と言った注意書きが。
小石が置かれていて、削りかすをビニール袋に。




 回向院の御朱印


 馬頭観音の御朱印も。



















































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