まさおレポート

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バリ シュピース バーバラ・ハットン ピタマハ

2020年07月20日 17時53分04秒 | バリ島

 

 

バリのシュピース(1927  1941 32歳から46歳)

1930年代のバリのイメージは、穏やかで豊かな「文化博物館」であり、無垢でエロチックで胸を露出しサロンだけを着て日常生活をしている若いバリ女性が普通であった。

ドイツの医者グレゴール・クラウザーは、水浴するバリ女性の写真を撮り出版した。

1924年、スラバヤとシンガラジャの間に定期航路が開通した。最初の年は213人、1929年には1,428人に、1930年代には約3,000人に達した。バリが観光として注目されることになる。

ゲイでドイツの性科学者マグヌス・ヒルシュフェルド博士はバリ島の名声についてコメントした。第二次世界大戦以降、同性愛者やレズビアンの海外での芸術的クラスターは、非常に多くの本、写真、記事、映画として登場する。タンジールのポール・ボウルズが1930年代のバリのスピーズに匹敵する。

1925年シュピースはジョグジャカルタのクラトンで出会ったバリの王族チョコルド・グデ・ラカ・スカワティの招待を受けてバリを訪れ、無尽蔵の魅力を持った地で独りで素朴な人々の住む新しい故郷、素晴らしい人達と暮らし心安らかに絵を描くためにバリへ越す決意をする。

1925バリ島私はバリ島に1か月間滞在しています。 誰もが私のように短期間でバリに親しんでいることを真剣に疑っています。 私は計画したとおりにそれを行いました。道路や歩道がないため、それ以外の場合はほんのわずかしか行くことができない田舎を横切って歩いていることがよくありました。

そして最も重要なことは、私がバリの家で一晩だけ過ごしたことです。 それで私はブラフマン、農民、あらゆるタイプの職人、木彫り師、ワヤンの画家、銀細工師の生涯と営みについて学びました。

オランダ領東インドで働いていたドイツ人医師グレゴール・クラウゼの写真集「バリ:民族、風土、舞踊、祭り、寺院」を見たときからである。シュピースは、ある夜この本を抱え「興奮のあまり恍惚として」やって来て「僕はここへ行くぞ」と彼は何度も言いましたと妹デイジーは記す。

クラウゼ ここにいるのは、神々、動物、植物、そして人々のコミュニティです。

さらにさかのぼると1910年にはドレスデンでシュピースがギムナジウム教育を受けるため滞在した年にゴーギャン展が開催されている。モスクワではアンリ・ルソーの「異国風景」と出会い南国への“啓示”と受け止めていた。

1917年ベルリンに戻ると、Otto Dix、Paul Klee、Oscar Kokoschkaなどのサークルに参加する。無声映画ノスファラトゥで有名になっていた映画監督フリードリヒ・ムルナウと知り合うことになる。

ベルリンでウォルターは突然自分自身に戻った。
心地よい緑の丘が突然噴火する火山に変わったかのような彼のもつれた感情。 小さな嵐の信号と人々のマナー主義。ウォルターは、激怒し、嫉妬し、絶望的になった。

ドイツではこれ以上耐えられない!
だから魂のある人がいるところに行きます!

ドイツ、なんて恐ろしい国なのか、どんな恐ろしい人々が住んでいるのか、
彼らがどれほど乾燥して無感情であるか、私はそれをもう一分我慢できない!

スピーズはドレスデンとアムステルダムで絵画展を開催し1923年に28歳でジャワに向かった。家族は大戦とロシア革命でその富を失っていた。スピーズは貨物船に乗りこむために革命で書類を失ったロシアの三等航海士を装った。

ジャワ人と彼らの信じられないほど先進的で素晴らしい文化、美しさは想像を超える。1927年夏スルタンの許しを得て宮廷楽長の職を退きジャワを去る。

バリ島北部は20 世紀初頭にオランダの影響下にあったが1906年に南部もププタンによりオランダの支配下にはいる。数百人のほとんど武装していない女性と子供を含 む一群が死を選び無抵抗のうちにオランダ兵によって殺害された。シュピースはこのことを念頭にバリ人の受け身の精神や緩慢な態度まで強度の集中力と超然とした魂の現れと表現した。(シュピースからこの話を聞いたヴィッキーバウムは小説バリ島物語でププタンを描く。)

島中を変わった儀式や音楽、物語を求めてバリの村々から山中、西部の荒野やサヌールのサンゴ礁にまで探検した。考古学者としてシュピースは特に巨石に興味がありブビテラの石、ヌサペニダのバトカンディンにある石作りの祭壇を発見している。

野生の虎と象のようなイノシシがチャンプアンでガチャガチャ音を立て、ガムランがその後ろを歩いています。

ビッキーバウムやコバルビウスのバリ作品に貢献するが、「何もせず、ただそこに存在する幸せを感じたい」との言葉そのままにシュピースは埋もれたかのように近年まで名が隠れていた。

コリン・マクフィーはシュピースのチャンプアンの家で資料集めをした。

1928年アメリカの映画作成に協力 監督アンドレ・ルーズベルトを支援 映画『グーナ・グーナ』ではバリ島を初めて西洋に広く紹介した。

ヴィッキー・バウムは『バリ島物語』でバロン舞踊劇の最終場面をオランダ人の視点で見たバリの人々の不合理な行動の象徴として描いた。つまりププタンの比喩として描写した。

サンヒャン・ドゥダリには男声合唱が伴奏に使われていた。既に 1925 年に初めてバリ島を訪れたとき、彼はサンヒャン・ドゥダリを観て魅了されている。

その男声合唱は聞き慣れていない耳には単なる不協和音のように聞こえるが、実はその構成とリズムはガムランの構成とリズムに基づいており多声の合唱がガムランの様々な楽器の音色のようにかみ合うからである。 

シュピースはサンヒャン・ドゥダリの演じ方に関して小さな変更を提案した。映画の撮影の際,男声合唱には円陣を組んで座らせ、中心にダマルケチャという枝つき燭台のような棒を立てて照明効果を上げ、二人の童女を踊らせた。

 1929年にシュピースに出会い、すぐに良い友達になりました。当時20歳でダンスを勉強していました。 彼はよく私の顔と体を描いたり描いたりしました。 私はきれいな顔、長い髪、そして美しい長い爪を持っていました。

ある日、シュピースはベドゥルに行き、サンヤン・トランス・ダンスに続いてケチャック・ダンスを見られました。 それは宗教的なダンスでした。

その時ベドゥルで流行があり、多くの人がおそらくコレラで亡くなりました。 そのため、彼らは村の周りでケチャックを踊り、「カックキャック」と呼びました。

シュピースは私に、20人の団体で観光客のためにケチャックを演じることを勧めました。 私たちはココナッツの殻の帽子をかぶって踊り、演奏会の後にグループは10ルピアを受け取りました。スピーズはお金を全員が同じ金額を受け取るように分けました。これはメンバーが腐敗するのを防ぐため非常に良いことでした。 舞踏家リンパック

File:COLLECTIE TROPENMUSEUM Walter Spies en Angelica Archipenko (alias Gela Forster) poseren voor de camera van Rudolf Bonnet TMnr 60048347.jpg

1930年にボネが撮ったAngelica Archipenkoとの親密な関係を示す写真は彼がバイセクシュアルなのかどうかは不明だがバーバラ・ハットンとの関係と合わせて女性に好かれる人柄を示している。

他のミードやチャップリンとの交流は残されているがアンコールワットまで自家用機で飛んだバーバラ・ハットンとの関係を示す資料は不思議に残されていない。

ミゲルはジョージガーシュウィンの「パリのアメリカ人」のイラストで受賞した賞金でバリへのハネムーン旅行に出かけた。1930年4月から6週間の航海でアメリカを出発した。

ミゲルは1924年以来バリでトーマスクックとアメリカンエキスプレスを管理してきたアンドレ・ルーズベルトによるウォルター・スピーズへの紹介状を持ってバリのスピーズのもとに訪れ9か月間滞在した 。ミゲルはバリの言語を学びバリ人の服を着、同じ食べ物を食べて過ごした。

ニューヨークに戻ってグッゲンハイム財団フェローシップを受け1933年に再びバリ島に戻り、1937年に出版されることになる「アイランド・オブ・バリ」を完成させた。彼がバリに3年後戻ったとき観光客の数に驚きバリ人女性がブラウスを着ていることにショックを受ける。夫婦は合計20か月間バリに滞在していた。

コバルビアスの有名なコメント「バリの誰もが芸術家のようだ」が彼の著書で繰り返されニューヨークタイムズ、アジアマガジン、シアターアーツマンスリー、ライフマガジンの記事にも取り上げらた。

1931年マクフィーとベロはバリで6か月過ごし1932年に再び戻ってきた。彼らは家を建てコリンはガムラン音楽を調査し撮影した。

さまざまな種類のガムランをすべて特徴別にカタログ化しようとしています。これがバリの音楽、この信じられないほどの多様性の素晴らしいところです。マクフィー

ニューヨークに戻ったコリン・マクフィーは1947年に出版された「バリ島の家」を書き生活を描いた。ついで358ページの音楽例と120枚の写真を含む600ページの作品を書き彼の死の直前に終了し1966年に死後に出版された。

戦後、バリの音楽をマクフィーは広めた。彼の作曲とバリの音楽に関する著作はフィリップ・グラスなど現代の巨匠に影響を与えガムラン音楽はモダニズムの作曲家の発想源となった。

ムルナウは彼が絵を送ると彼にお金を送った。1931年にムルナウはハリウッド郊外で自動車事故死するが彼は死後に10,000ドルを彼に残した。
(当時の1ドルは5000円前後の価値があり5000万円程度)
ウォルターは彼を「私を愛し、私が信頼できる世界で唯一の人」と述べた。

彼はハリウッド移住後に1928年タヒチにヨットで渡って遺作「タブー」を撮るが映画撮影に3年を要する。

F.W. Murnau (right) on location for Tabu: A Story of the South Seas (1931)

F.W. Murnau (right) on location for Tabu: A Story of the South Seas (1931)

撮影後ハリウッドに戻ったムルナウに不吉な予言が的中したかの如く不慮の死が見舞う。

チャーリー・チャップリンは、ムルナウを「ドイツがハリウッドに送った中で最高の男」と称賛した。

https://www.brentonfilm.com/articles/nosferatu-chronicles-from-the-vaults-volume-iii

手の指の長さはスピースの絵画に影響を与えている、いやバリでは既に指の長いチャノナランは存在していたので共感したと言うべきか。

当初スピースはバリ人とオランダの植民地当局の両方から大事にされた。彼はデンパサールのバリ博物館のキュレーターとなり、1931年のパリ植民地展示会でオランダ副総督のツアーに参加し、バリの展示「イースト・インディーズ・パビリオン」を手伝った。

1932 年に映画の撮影のためにバリ島にやって来たドイツの映画製作会社に協力。 カメラマン ハンス・シャイプ 監督はヴィクトル・フォン・プレッセンで「鬼の島」(Insel der Dämonen)を撮る。バリ島の善と悪との象徴的な戦いを描く。

その後の映画Goona-Goona(またはThe Kris)。学術書「バリのダンスとドラマ」への協力などで彼は常に他のプロジェクトを抱えて忙しかった。


1932年にバリを訪れたチャールズ・チャップリンは、「バリ行きを決めたのは(兄の)シドニーだった。1931年サイレントの『街の灯』が興行的な成功をおさめ、一年半に及ぶ世界旅行へと出立。たロンドンではチャーチルや劇作家のバーナード・ショー、ベルリンでは『街の灯』のプレミアに招聘したアインシュタインやマレーネ・ディートリヒと再会を果たす。

この島はまだ文明の手が及んでおらず、島の美しいおんなたちは胸もあらわだというのだ。こんな話が僕の興味をかきたてた」と記している。

その後日本へ。神戸や東京を訪問するものの、訪日中にたまたま発生した五・一五事件で「日本に退廃文化を流した元凶」として巻き添えになりかけると言う事件も発生している。

この間の観光客数は、1920年代には年間1,200 - 3,000人ほどであったが、1930年代中盤には年間3万人に達したとする統計も見られる)

ビッキー・バウムやゾエーテがシュピースのもとに集まってくる。

私たちはいつもビッキー・バウムやベリル・ド・ゾーテと一緒に寺院で踊りを見たり、ゴングを聞いたりしていました。 彼はとても気持ちのいい人でした、他の人への同情や反感は非常に速かったです。

彼は家とアトリエ、そして2、3のバンガローを持っていました。 ヴィッキー・バウムはそこに2年間滞在しました。→アレクサンドル・タンスマン 1933年

ウォルターは私の友達だったの? 最も重要な友人の一人。 彼は私に仕事を手伝ってくれました。彼は私の人生に新しい方向を与えましたそして彼は誰の友達でもありませんでした。→ヴィッキー・バウム

バリの芸術を無償で指導し、シュピースが葉先に黄色い光を塗ると若い男が真似るのを眺め、よくない影響を与えないよう細心の注意を払い、優れた絵しか展示しない独自の絵をと指導し高みに引き上げ、自らはルーカス・クラナハ、ピーター・ブリューゲルそしてアンリ・ルソーの系譜を引く優れた絵を残した。バリには一点のみアルマ美術館にあり、数十のうち何点かはあるいは海のもくずとなったか行方がしれない。

ウォルター・シュピースは、チャンプアンにスタジオを備えた茅葺き屋根と竹の家を建てた。のちにこの家はスピーズがイセに去った後はドリーセンとリンドナーによって管理されることになる。

彼は小さめのグランドピアノ、ドイツの自転車および蝶の網をチャンプアンに持参した。熱心なコレクターである彼は蝶を捕まえ、それらを金箔の箱に入れ、ヨーロッパの美術館に送った。火事後に再建された彼の家は現在、1961年にウブドの王室によって建てられたチャンプアンホテルの敷地内にある。

「一人で旅行するとき最も遠くに旅行する」シュピース

ある日、私が絵を描いていた家にウォルター・シュピースがやって来て、彼の生徒になりたいかどうか尋ねました。 それが私がチャンプアンに来た由来です。

彼は私たちの絵画について話し、私たちにそれらをより良くするように勧めました。→画家のAnak Agung Gede Meregeg

グスティ・ニョマン・レンパッドは20世紀初頭から半ばのバリの視覚芸術の最も偉大な人物だが彼はスピーズからドローイング用の上質な紙をもらったと述べる。

スピーズはボネと共に150人のメンバーが新しいメディアやテクニックを試すバリ人アーティストの協会を設立した。彼は自分のためにウブドから少し離れた山の隠れ家イセの家を建て、部屋を貸し出したドイツの男爵に彼の家を残した。

ルドルフ・ボネ(1895-1978)は、アムステルダムの王立視覚芸術アカデミーで教育を受けた同性愛者のオランダ人アーティストで、彼は1929年にバリ島に到着した。

スピーズとボネは1936年後半にバリの芸術を守ることを目的としてピタマハ芸術家協会の設立を後援した。スピーズとボネのほかに地元の貴族、特に1970年代まで地元の芸術の支援者となるチョコルダ・ゲデ・アグン・スカワティが主力メンバとして参加した。

ピタマハはバリの水利組合sekaのように組織され機能した。欧米の批評眼のもとでバリのアーティスト作品の販売の場を提供し、高度な芸術的水準を維持できるようにしした。アーティストは絵画、彫刻、その他の作品を持ち込み、毎週の会議に出席して話し合い、作品はスピーズ、ボネト、チョコルダ・ゲデ・アグン・スカワティ、グスティ・ニョマン・レンパッドによって選ばれ国内外の展示会で販売された。

ピタマハは質の高い絵画や彫刻のトレードマークとなり、有能なメンバーの保証人となって大きく貢献した。1937年までバリ博物館はピタマハの作品の展示と販売の主要な場所だった。

ナマコ、トンボ、クモをテントにこもって色があせぬ間のスケッチに没頭し、惜しげもなく生物学者に送っている。無欲で所有権を示すサインをしていないものも多い。

1932年チャップリンと共にバリ島にやってきたノエル・カワードはバリホテルのコメント用紙に短い詩を書きのこした。

今朝チャーリーに言ったように
バリには音楽が多く
場所としては魅力的で、ダンスもいたるところにある。
バリ人は子宮から墓までクリエイティブで
過剰なほど芸術的な努力を続ける。

著名な米国の画家ミゲル・コバルビアスはスピーズについて述べる。彼はすこぶるつきの楽天的な人柄で、バリの生活のあらゆる事柄に精通しており、バリにやってきた考古学者、人類学者、音楽家、芸術家にとって興味のある情報を提供してきた。バリの音楽を録音しバリの芸術のあらゆるパターンを収集してオランダの科学雑誌に寄稿し、キュレーターとしてバリ博物館を作成した。

夫のローズ・コバルビアスも次のように述べている。
スピーズはバリのすべての村と村の人々、寺院の祭りの日オダラン、バリ人舞踏家、ガムラン奏者、木彫りや影絵ワヤンのアーティストの名前を知っていた。

クレメンソー、コール・ポーター、レオポルド・ストコウスキー、マウントバッテン卿、H.G ウェルズ、チャーリー・チャップリン、ノエル・カワード達が彼のもとを訪れる。

なかでもウールワースの遺産を受け継いだ大富豪バーバラ・ハットンは彼に恋したと言われている。それも狂ったようにと。(当初は同性愛者であることに気づかなかったのかもしれない。)
ジャワをはじめカンボジアのアンコールワット、タイのバッコック、ベトナムのサイゴンをプライベート機でスピースと訪れている。バーバラ・ハットンは彼のいくつかの絵を購入した。スピースは自宅の隣に彼女のバンガローとプールを建てた。しかし実らぬ恋を悟ったのかハットンはペルシヤへと向かいその後ケーリー・グラントと3度目の結婚をする。スピースが設けたプールは現在は蓮の池になっている。

ベリル・デェ・ゾエーテがバリ島の舞踊について 1938 年に発表した「Dance and Drama in Bali」  シュピースの積極的な支援を受けた 。1934 年に初めてバリ島を訪れたときにシュピースとの研究を計画した。そして論文に掲載された全ての写真を撮った。

私たちは1936年から38年の間に一緒に多くのことをしました。誰もがウォルタースピースのもとに来ました。 彼はすべてを知っていた人でした。 絵画だけでなく、文化、音楽についても。 彼は本当に素晴らしい仲間だった。→ベリル・デェ・ヅーテ

バイセクシュアルの人類学者で性科学者マーガレット・ミードと3人目の夫で人類学者グレゴリー・ベイトソンが1936年に到着した。彼らは2年間滞在し1939年には短い訪問をした。

彼らは広範なフィールドワークを行いベイトソンは25,000枚の写真と22,000フィートの映画フィルムを撮り1,200点以上の絵画と1,000点以上の彫刻を蒐集した。彼らは1942年に写真集「バリのキャラクター」を発表した。

スピーズは厳密で詳細な観察と写真をバリ研究のデータとしてベイトソンとミードに提供し、研究の方向に指針を与えた。

 

https://www.abc.net.au/radionational/programs/archived/hindsight/german-artist-walter-spies/3582638 

http://jean-claude-kuner.de/wp-content/uploads/2013/10/SPIES-ABC.pdf

Wayan Limbak, Pencipta Tari Kecak

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