ことばと学びと学校図書館etc.をめぐる足立正治の気まぐれなブログ

社会を正気に保つ学びとは? powered by masaharu's own brand of life style!

数学者が描く世界と知(森田真生氏の「風景が育む情緒と学問」を読んで)

2015年02月22日 | 知のアフォーダンス

 

 山の線や色合いや、衣服の色彩、鳥の鳴く声、寺から漂う線香の匂い…こうした「風景」の細部には、時を超えた思想や記憶が刻まれています。人間は頭の中で思考するだけでなく、考えや思いは、外に形となって現れます。身体から外に溢(あふ)れた心が、「風景」を作り出していくのではないでしょうか。-森田真生「風景が育む情緒と学問」京都新聞2015年2月13日、ソフィア)

 環境の一部としての身体、身体の延長としての環境、環境と身体の関わりの中で生起する思考や感情・・・そんな主客の区別が判然としない世界と知のイメージが短いフレーズの中に凝縮されている。この文章が二十歳代の若い数学者の筆になるものであることに驚くばかりだ。
 筆者の森田真生さんは特定の研究機関に属さない在野の研究者で、とくに「日本が生んだ最大の数学者」と呼ばれる岡潔(1901~78年)の研究で知られ、数学に疎遠な私でも、その文章をいくつか読んだことがある。というか、私の表層の記憶から消えていた岡潔を近年になって私の中によみがえらせてくれたのが、森田さんだった。

 私が岡潔のことを知ったのは五十年近く前のことで、それも数冊のエッセイと新聞や週刊誌の記事をいくつか読んだにすぎない。

春宵十話(1963年)
 随筆集/数学者が綴る人生1 (光文社文庫)
光文社
  紫の火花 (1964年)
 
朝日新聞社
  風蘭 (1964年) (講談社現代新書〈5〉)
 
講談社

『風蘭』(1964)の大部分は『情緒と創造』に採録されている。

情緒と創造(2002年)
 
講談社

昨年(2014年)は『春風夏雨』も復刻出版されている。

春風夏雨 (角川ソフィア文庫)
 
KADOKAWA/角川学芸出版

 当時の私は大学を卒業したばかりで、家の事情で大学院への進学をあきらめて高校教師になってはみたものの、研究者をめざす思いを断ち切れないまま教壇に立っていた。初任校は分校から独立したばかりの農業高校だった。生徒たちは、私の英語の授業では自信がなさそうだった。テキストを読ませても声はひ弱だし、動作もだらだらしていて、覇気が感じられなかった。同じ子どもたちが、いったん教室を出て農業や畜産の実習になると目を輝かせ、動作もきびきびとしていた。農業体験の発表会でも、しっかりとした声でハキハキと話した。彼らの大半は農家の子弟で、近代化と都市化を志向する農村社会にあって自然と分かちがたく結びついた暮らしを営む共同体のなかで育っていた。彼らが普通科の高校に行かずに農業高校を選んだのには、それなりの事情や思いがあったはずだが、私は彼らの胸の内にはまったく思いを馳せることなく、自分の指導力不足をなんとかしたいともがいていた。大学で学んだ言語学の研究をさらに深めて、言語習得の仕組みを解明し、外国語教育に生かしたい。時間があれば下宿にこもって本を読み、休日には学会や研究会にでかけていた。
 岡潔の本に出会ったのは、その頃だった。奈良で百姓をしながら研究生活を送っていた晩年の岡の素朴な生き方に触れて大きく心がゆらいだ。数学に関する業績の内容も意義もまったく理解できなかったが、岡のエッセイは西欧的合理主義の影響を受けた我が国のアカデミズムに批判的で、いのちの営みに根ざした生き方をとおして、知のありよう、教育と人間のありようを根源的に問うものだった。
 二年後に都市の進学校に転勤したが、その頃には、もう大学で研究生活を送りたいという願望はなくなっていた。たまたま声がかかった大学助手への誘いを断り、文部行政にしたがって昇進の道筋を辿る人生が見えはじめた公立高校の職も辞して、比較的自由な校風の私学で教員生活をつづけることを決めた。教職に就いて4年が過ぎていた。
 ごく最近まで岡潔のことはすっかり忘れていた。森田さんの文章を介して、ふたたび出会った岡のことばは、私の身体に刻まれた感覚をとおして、若い頃よりずっとリアルに理解できるようになっていた。想えば、あれから多少なりとも、合理的、分析的な思考と直感や情緒といった非論理的、感覚的思考との折り合いをつけて生きる道を求めてきたおかげかもしれない。
 あの頃、「週刊朝日」(1963年1月4日号)の巻頭グラビアに掲載された一枚の写真があった。路上でジャンプする老齢の岡と、つられて飛び上がろうとしている愛犬の姿が、なんともユーモラスだった。天真爛漫というか天衣無縫というか、無垢な心と鋭い洞察力をあわせもつ「世界的な数学者」岡潔の晩年を象徴する写真だ。それに引き替え、七十代半ばにして、いまだにせせこましい世界に閉じこもって些事を追い回している自分の姿に愕然とするばかりだ。

 

天上の歌―岡潔の生涯
(2003年)

 
新泉社

 森田真生さんの短い文章から岡が到達した思想の核心が次々と繰り出される。

数学は、自他対立した心ではなく、自他通い合う心でしなければならない・・・数学の中心にあるのは情緒である・・・「情緒」の基盤にあるのが「自他通い合う心」・・・全心身を挙げ、数学的対象と一つになって学ぶ・・・対象を自分から切り離して分析するのではなく、対象と心通わせ合って“習う”・・・
 そんな岡潔にとって数学は、命題の真偽を判定することである以上に、「わかった」という“心の喜び”を生み出すための行為だったのです。
(同上)

 「数学」を他の学問や思考対象に置き換えれば、人間の営みのすべてを語ることができるかもしれない。
 頭のなかで組み立てられた理論はわれわれの「情」の世界に受け入れられたときに、はじめて本当に理解される。

知識ばかりでは学問になりません。風景が情緒を育て、情緒がまた学問を育てていくのです。(同上)

 この森田さんのことばは、人間が学び育つ環境と知のありようを言い得ている。

 

コメント (4)    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 学校図書館で育む「本物の学... | トップ | 学校図書館自主講座「探究的... »
最新の画像もっと見る

4 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
【数そのモノ】 (Unknown)
2019-01-17 11:09:33
 ≪頭のなかで組み立てられた理論はわれわれの「情」の世界に受け入れられたときに、はじめて本当に理解される。≫ 

「春宵十話」に、
 ≪…数式は自分ではなくて、自分と対立する自然物になるということをみな知らないでいるらしい。≫ 
      とある。

 ≪頭のなかで組み立てられた理論≫として『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論 命題Ⅱ』は、≪理性の地金となっている智力のことである。それは、情緒の中心を通り、地軸を貫いている。≫と見通す≪自分と対立する自然物≫と生っていたのだ。
 前者の≪…≫は、岡潔の言う[無差別智]である。

 『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数論 命題Ⅱ』は、≪自分と対立する自然物≫で[自己組織化]の『離散的創発代数方程式』である。
 その[解]は、『自己無撞着の非摂動方程式の解(パラメータ)』で【数そのモノ】が[群]と生ることを呈示していたのだ。

 ≪頭のなかで組み立てられた理論≫は、[無差別智]であり、万人が共有できるものである。 
返信する
自然数 (絵本のまち有田川)
2020-01-11 05:20:39
 ≪…『離散的有理数の組み合わせによる多変数創発関数…≫は、[絵本]「もろはのつるぎ」で・・・
返信する
カオス ⇔ コスモス  (式神自然数)
2020-05-31 06:05:57
時間軸の数直線(『幻のマスキングテープ』)の原型の自然数の絵本あり。

有田川町電子書籍
[もろはのつるぎ」

御講評をお願い致します。
返信する
自然数のアイデンティティー (文化の日剣の舞に分化知る)
2021-11-04 14:39:01
文化の日πが烟りて素数煙
文化の日カオスコスモス〇□
文化の日πと1とはお友達
文化の日カオスコスモス裏表
文化の日カオスコスモス動と静
文化の日カオスコスモスπと1
文化の日1の魂数の核
文化の日カオス暴くとπに生る
文化の日コスモス秘めるカオスかな
返信する

コメントを投稿

知のアフォーダンス」カテゴリの最新記事