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文科省は2006年度に全国十数カ所のモデル地域を選んで「学校図書館支援センター」を設置する「学校図書館機能強化プロジェクト」を実施する方針を固めた、という8月27日付時事通信の情報がネット上で流れている。世界日報社の教育ニュースに掲載された時事通信の記事を転載させていただいたうえで、この記事の問題点を考えたい。
「調べ学習」で本離れに歯止め=学校図書館を充実へ-文部科学省(『時事通信』2005/8/27)
文部科学省は27日、「調べ学習」を通じて子どもたちに本への親しみを持ってもらう「学校図書館機能強化プロジェクト」を2006年度に実施する方針を固めた。国語力低下の原因とされる子どもたちの本離れに歯止めを掛けるのが狙い。
各学校の図書館担当の教師(司書教諭)が子どもたちの読書指導に当たる役割を担っているが、自分の授業の準備で忙しく、図書の選定・収集で手いっぱいなのが実情。そこで全国十数カ所をモデル地域に選んで、市町村教委に学校からの相談に乗る「学校図書館支援センター」を設置する。センターには専門知識を持つ人材を配置して、(1)図書の選定・収集(2)他の学校図書館との連係-などに協力する。
加えて、学校には図書館の知識のある人を協力員として配置し、司書教諭とともに本を整理したり、子供たちに図書館の使い方を教えたりする。最近、インターネット検索に慣れている子供は多いが、自分で欲しい本を探し出して、ページをめくる習慣を身に付けさせることで考える力がはぐくまれると期待する。文科省は特に「総合的な学習の時間」(総合学習)で、図書館利用を促進していきたい考えだ。(時事)
事実関係の詳細が分からないとプロジェクトの是非は判断できないが、この記事には違和感がある。この記事を読んだ一般の人たちに学校図書館について誤解を与える可能性があるのではないかと懸念するのだが、事実の記述の仕方が不十分な上に情報源も明記されていないので、文科省の意図を確かめにくい。(文科省がどのように発表したのか、文書にせよ口頭にせよ、要約と引用を使い分けて伝えたほうが文科省の見解が分かりやすいのではないか。)
まず、「調べ学習」のねらいは、子どもたちの本離れを食い止めることではないだろう。子どもたちが疑問に思ったことや知りたいことを調べるために本を読むのであって、本を読ませるために調べ学習を行なうとしたら、それは子どもたちにとって本物の学びにはなりえない。「調べ学習」も子どもたちに図書館の使い方を教えること(いわゆる利用指導)も、これからの学校図書館にあっては、多様なメディアを活用する学び方の指導と情報(インフォメーション)リテラシーの育成に収斂されていくものである。進んだ学校図書館ばかりでなく、現在ほとんど活用されていない学校図書館であっても、目指すべき方向は変わらない。
「最近、インターネット検索に慣れている子供は多いが、自分で欲しい本を探し出して、ページをめくる習慣を身に付けさせることで考える力がはぐくまれると期待する」という記述もまた誤解を与えかねない。インターネット検索と自分でほしい本を探し出すこととは対立することではないし、考える力は、インターネットで検索し、自分でページをめくる習慣を身に付けることも含めて多様なメディアを活用した探求的な学びを通して育まれるものである。そのような学校図書館の利用は、特に「総合的な学習の時間」で促進すればいいというものではなくて、教科指導、学習活動、特別活動など、学校におけるすべての教育活動において学校図書館が活用されることが大切である。たとえ「総合的な学習の時間」がなくなっても、学校図書館は学校教育になくてはならない施設・設備なのである。
この記事は、また、司書教諭が自分の授業の準備で忙しく、その役割を十分に果せなくても、学校図書館支援センターを設置し、各学校に図書館の知識のある協力員(いわゆる学校司書)を配置すればそれでいいという印象さえ与えかねない。何よりも司書教諭のおかれている状況そのものを変えることが必要であり、学校司書についても、その資質と位置づけを明確にしないまま、ただ雇用機会を増やすだけでは、今日のわが国の学校図書館が抱える問題の根本的な解決にはならないということも付け加えておく必要があるだろう。
そのほかにも、国語力低下の原因は子どもたちの本離れか? 司書教諭の役割は読書指導にあたることか? といった問題も見えてくる。
学校図書館が活用され子どもの読書活動を促進するための具体的な施策が展開されることに異論はない。しかし、この記事は、学校図書館に関するさまざまな既成概念を前提として書かれている。その一つひとつをつぶさに検討しながら、とりわけ「読書のための学校図書館」(注)というイメージや専門職員に関する考え方を抜本的に変えていかなければ、学校図書館の発展とそれにともなう学校教育の変革の原動力とはなりえない。そのためにも、メディアセンターとしての学校図書館の機能を、きちんと分かりやすく伝えていくことは、学校図書館に関わる者の責務であろう。
(注)蛇足ながら補足しておくと、私は学校図書館における読書活動の重要性を否定しているのではない。手段としての読書を目的化して学校図書館の機能を矮小化しないでおこうといっているのである。
「読む」という行為を、いったん本というメディアから切り離して考えてみてはどうだろう。「読む」対象は、文字・活字ばかりでなく、人の話、図やグラフ、絵画や写真、行為、場の雰囲気などさまざまである。「読む」という行為には、物語や知識・情報を通して世界の構造を知り、それをよりどころに自ら「物語り」、「新たな知識・情報を生成する」、すなわち世界を新たに意味づけていくという目的がある。そのために、本、肉声、映像、電子メディアなど、さまざまなメディアの特性を把握し、必要に応じて選択・活用する術を身につけておくことが必要なのである。そのプロセスで、当然のことながら、子どもたちは書籍の有用性と必要性を知ることになる。子どもたちの世界を広げ、思考を深めるために読書が重要であり、読書力の向上が求められることはいうまでもない。
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文科省は2006年度に全国十数カ所のモデル地域を選んで「学校図書館支援センター」を設置する「学校図書館機能強化プロジェクト」を実施する方針を固めた、という8月27日付時事通信の情報がネット上で流れている。世界日報社の教育ニュースに掲載された時事通信の記事を転載させていただいたうえで、この記事の問題点を考えたい。
「調べ学習」で本離れに歯止め=学校図書館を充実へ-文部科学省(『時事通信』2005/8/27)
文部科学省は27日、「調べ学習」を通じて子どもたちに本への親しみを持ってもらう「学校図書館機能強化プロジェクト」を2006年度に実施する方針を固めた。国語力低下の原因とされる子どもたちの本離れに歯止めを掛けるのが狙い。
各学校の図書館担当の教師(司書教諭)が子どもたちの読書指導に当たる役割を担っているが、自分の授業の準備で忙しく、図書の選定・収集で手いっぱいなのが実情。そこで全国十数カ所をモデル地域に選んで、市町村教委に学校からの相談に乗る「学校図書館支援センター」を設置する。センターには専門知識を持つ人材を配置して、(1)図書の選定・収集(2)他の学校図書館との連係-などに協力する。
加えて、学校には図書館の知識のある人を協力員として配置し、司書教諭とともに本を整理したり、子供たちに図書館の使い方を教えたりする。最近、インターネット検索に慣れている子供は多いが、自分で欲しい本を探し出して、ページをめくる習慣を身に付けさせることで考える力がはぐくまれると期待する。文科省は特に「総合的な学習の時間」(総合学習)で、図書館利用を促進していきたい考えだ。(時事)
事実関係の詳細が分からないとプロジェクトの是非は判断できないが、この記事には違和感がある。この記事を読んだ一般の人たちに学校図書館について誤解を与える可能性があるのではないかと懸念するのだが、事実の記述の仕方が不十分な上に情報源も明記されていないので、文科省の意図を確かめにくい。(文科省がどのように発表したのか、文書にせよ口頭にせよ、要約と引用を使い分けて伝えたほうが文科省の見解が分かりやすいのではないか。)
まず、「調べ学習」のねらいは、子どもたちの本離れを食い止めることではないだろう。子どもたちが疑問に思ったことや知りたいことを調べるために本を読むのであって、本を読ませるために調べ学習を行なうとしたら、それは子どもたちにとって本物の学びにはなりえない。「調べ学習」も子どもたちに図書館の使い方を教えること(いわゆる利用指導)も、これからの学校図書館にあっては、多様なメディアを活用する学び方の指導と情報(インフォメーション)リテラシーの育成に収斂されていくものである。進んだ学校図書館ばかりでなく、現在ほとんど活用されていない学校図書館であっても、目指すべき方向は変わらない。
「最近、インターネット検索に慣れている子供は多いが、自分で欲しい本を探し出して、ページをめくる習慣を身に付けさせることで考える力がはぐくまれると期待する」という記述もまた誤解を与えかねない。インターネット検索と自分でほしい本を探し出すこととは対立することではないし、考える力は、インターネットで検索し、自分でページをめくる習慣を身に付けることも含めて多様なメディアを活用した探求的な学びを通して育まれるものである。そのような学校図書館の利用は、特に「総合的な学習の時間」で促進すればいいというものではなくて、教科指導、学習活動、特別活動など、学校におけるすべての教育活動において学校図書館が活用されることが大切である。たとえ「総合的な学習の時間」がなくなっても、学校図書館は学校教育になくてはならない施設・設備なのである。
この記事は、また、司書教諭が自分の授業の準備で忙しく、その役割を十分に果せなくても、学校図書館支援センターを設置し、各学校に図書館の知識のある協力員(いわゆる学校司書)を配置すればそれでいいという印象さえ与えかねない。何よりも司書教諭のおかれている状況そのものを変えることが必要であり、学校司書についても、その資質と位置づけを明確にしないまま、ただ雇用機会を増やすだけでは、今日のわが国の学校図書館が抱える問題の根本的な解決にはならないということも付け加えておく必要があるだろう。
そのほかにも、国語力低下の原因は子どもたちの本離れか? 司書教諭の役割は読書指導にあたることか? といった問題も見えてくる。
学校図書館が活用され子どもの読書活動を促進するための具体的な施策が展開されることに異論はない。しかし、この記事は、学校図書館に関するさまざまな既成概念を前提として書かれている。その一つひとつをつぶさに検討しながら、とりわけ「読書のための学校図書館」(注)というイメージや専門職員に関する考え方を抜本的に変えていかなければ、学校図書館の発展とそれにともなう学校教育の変革の原動力とはなりえない。そのためにも、メディアセンターとしての学校図書館の機能を、きちんと分かりやすく伝えていくことは、学校図書館に関わる者の責務であろう。
(注)蛇足ながら補足しておくと、私は学校図書館における読書活動の重要性を否定しているのではない。手段としての読書を目的化して学校図書館の機能を矮小化しないでおこうといっているのである。
「読む」という行為を、いったん本というメディアから切り離して考えてみてはどうだろう。「読む」対象は、文字・活字ばかりでなく、人の話、図やグラフ、絵画や写真、行為、場の雰囲気などさまざまである。「読む」という行為には、物語や知識・情報を通して世界の構造を知り、それをよりどころに自ら「物語り」、「新たな知識・情報を生成する」、すなわち世界を新たに意味づけていくという目的がある。そのために、本、肉声、映像、電子メディアなど、さまざまなメディアの特性を把握し、必要に応じて選択・活用する術を身につけておくことが必要なのである。そのプロセスで、当然のことながら、子どもたちは書籍の有用性と必要性を知ることになる。子どもたちの世界を広げ、思考を深めるために読書が重要であり、読書力の向上が求められることはいうまでもない。
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それぐらい、今は本を読み、知識を蓄え、考える材料にする必要があると気がついています。
そんな私も、小さいころは本を読む子ではありませんでした。江戸川乱歩とかは読んでましたが・・・このころは、図書館はガリ勉のいくところという偏見がありましたね。
でも、特に中学、高校になると、部活や勉強でほとんど読んでいなかったです。このころには、図書館は自習をする場所(本やよまずに空間を利用するところ)という認識でした。
たぶん、親も本を読む人ではなかったので、そういう習慣がなかったのもあると思います。つまり、家庭の事情によるところも大きかったと今では思っています。
ならば、やはり学校で本を読むことに意味を見出してやるべきで、その動機付けの部分を考えてもらいたいと思います。
それと、学校の図書館、公共図書館が連携して、分散する図書が同じような手続きで借りられるようにすれば、有限な資産の有効活用がはかれると思います。
なんなら、親も巻き込んで図書館に足を運ばせる、という方法もあります。
つまらない意見ですみませんでした。