久々に 裏の山まで散歩
2時間歩いた
東北工大の野球場を回り 野草園 ジム仲間の山のてっぺんの門を過ぎ 伊達綱村の廟を参拝
歌舞伎で有名な
伊達騒動 本人である
大地震で墓標が皆倒れていたが 今は整理されて 元の姿にたたずむ
墓石の倒れていた工事の爺様と目が合う
煙草を吹かして 一休みの所におじゃま
いい体格
年の頃は 60代前半
こっちは、腰痛を気にしゆっくりの散歩
世間話をして引き返す
だいすきな 追い羽根 は まだ芽吹く前
櫻もすこし堅い目をふくらませている
疲れがくると 場所を選ばず 腰掛ける
2時間はきつかった今朝。
★「伽羅」と書いて「めいぼく」と読む
伊達家のお家騒動を足利家に変えて人形浄瑠璃で上演し、
評判になったので歌舞伎でも上演した。
人形浄瑠璃(今の文楽)と歌舞伎では違っていたが、
現在上演するのは両方が交じっている。
(仙台の伊達家当主の座をめぐる後継者争いのこと。)
台藩3代藩主の伊達綱宗は遊び三昧であった為、
叔父にあたる伊達宗勝(兵部)がこれを注意したが
聞き入れられなかった。
宗勝は親族大名であった。
岡山藩主池田光政、柳川藩主立花忠茂、宮津藩主京極高国と相談の上、
老中・酒井忠清に綱宗と仙台藩家老に注意するよう提訴した。
これにもかかわらず綱宗の放蕩は止まず(吉原三浦屋の高尾大夫)、
遂に家臣と親族大名の連名で幕府に綱宗の隠居と、
嫡子の亀千代(後の伊達綱村)の家督相続を願い出た。
幕府より綱宗は21歳で強制隠居させられ、
4代藩主に僅か2歳の伊達綱村(仙台伊達家4代藩主。政宗のひまご)が就任した。
綱宗の不行跡による危機が「仙台藩最初の危機」とするならば、
この綱村のときの危機はまさに「仙台藩最大の危機」である。
万治三年(1660年)に三代綱宗が不行跡という理由で隠居させられ、21歳で隠居
側室の生んだ亀千代がわずか二歳であとを継いだ。
その後見となった伊達兵部が江戸家老の原田甲斐と手を結んで、藩政を握る。
それに対抗したのが伊達一門の安芸人たちだった。
事の真相は、藩政改革の積極派であった甲斐一派に対する保守派の抵抗、
というのが歴史上の解釈
ところが仙台藩での権力争いが激化し、兵部宗勝に対立する伊達安芸(伊達家の親戚のおじさん)が
江戸の幕府に訴え、大老・酒井雅楽頭忠清(姫路藩主)が裁定した。
その最中、兵部派の原田甲斐(政宗の孫)が伊達安芸を殺傷し、酒井家屋敷で自害した。
(この場所が東京・大手町の将門塚があるあたり)
幕府裁定の結果、伊達兵部派は九州、四国に流罪、藩主・伊達家は無罪となる。
(これらを伊達騒動という)
http://blogs.dion.ne.jp/amabegoro/archives/254870.html やまとこころより
若君 鶴千代を暗殺から守るのが乳人「政岡」という しっかりもの、
これに対して憎たらしいのが「八汐」。
敵が毒を盛るのを防ぐために、御殿の中で政岡がうちかけを
着たままご飯を炊く
「飯(まま)炊き場」が泣かせる。
敵が持って来た毒入り饅頭を若君に食べさせまいと、
政岡の子供の千松が食べて
八汐に殺されるのだが、政岡は我が子が目の前で
殺されるのを、お家のために腹の中では
泣きながら、表面は平静をよそおい、ぐっと我慢し、
敵が去ってから抱きしめて大泣きするところが、 見せ場。客席も涙・涙
実録では政岡は「浅岡」。
伽羅先代萩の伽羅(めいぼく)の由来は素晴らしいとか、
最高という意味ではなく
仙台候が伽羅で作った下駄をはいていたので、 伊達騒動・鶴千代・伊達綱村 廟
歌舞伎に出てくる殿様「足利頼兼」が伽羅の
下駄を履いて、遊里通いの姿をみせるところからきた。

ちなみに、先代萩の由来は、仙台のお大尽「萩大尽」という人がいて、それから生まれたと
いわれている