goo blog サービス終了のお知らせ 

ブログ

marshallのブログ

「最後に腹いっぱい餌を…」

2011-04-26 09:15:01 | Weblog
悲惨なのは人間ばかりではない
今日も心が沈むニュースですが 人間以外にも被害が忍び寄っています。
これだけ大事になっていることは 地元民 いや、国民に
隠す重大なことがあるのでは無かろうか
技術者は、皆 東京大学メンバーで固めている。
全国から応援に来ている原発スタッフを郡山で足止めしている?
ミスや隠し事がなければ このような重大なことをテレビで流れることはない
議員・電力の給料は すべて50パーセントカットでいい。
醜い足の引っ張り合いのこの時期の議員は 総辞職・全額報酬は無し。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「最後に腹いっぱい餌を…」殺処分に養豚農家悲嘆


 福島第1原発事故によって無人の地になった20キロ圏内で、餓死しそうになっている家畜の殺処分が24日決まった。家畜の世話をしようと、避難先から通っていた多くの住民も、22日に警戒区域になり立ち入りはできなくなった。南相馬市小高区飯崎で約48年間、養豚業を営む前田光雄さん(64)は「餌をあげることができないなら、安楽死もやむを得ないのかもしれない。ただせめて、腹いっぱい食わせてからにしてほしい」と声を振り絞った。

 豚約3000匹を飼育する前田さん。「前田美豚(びとん)」の名で知られ、福島県内のレストランなどで提供されているという。原発事故が起きたのは、種豚を増やし規模を拡大した直後。前田さんは3月12日、家族6人で福島市に避難した。
 豚を連れてくるわけにはいかなかった。だが、死なせるわけにもいかない。「豚が死ねば自分も死ぬことになる」。心配する家族を押し切って小高区に通い、豚の世話を続けた。
 しかし、避難区域から警戒区域になって立ち入りが全面禁止され、餌を与えることは不可能になった。最後に訪れたのは警戒区域指定の前日、21日だった。
 豚は空腹を訴え、騒いでいた。豚舎は掃除もできず不衛生な状態で、既に死んでいる豚もいたが、そのまま置いてくるしかなかったという。
 前田さんはともに生きてきた豚を思い、「死ぬか生きるかの境目にいる。もう餓死するだけ。とにかく餌をあげたい」と漏らす一方で、複雑な心境も語った。
 「家族も無事だったし、従業員の生活もかかっている。今は気持ちを切り替えないと。原発を恨んでも仕方ない」
(菊地奈保子)


2011年04月25日月曜日 河北新報

写真 ビニールハウスの骨組みと海水が引かない田園


雪の夜 たき火が命を救ってくれた 

2011-04-23 19:07:16 | Weblog
雪の夜 たき火が命を救ってくれた 
命の恩人捜しています

 宮城県南三陸町で津波にのみ込まれ、九死に一生を得た気仙沼市幸町の
会社社長加藤欣司さん(70)が、凍える自分のためにたき火を用意してくれた家族を捜している。
3月11日、雪。
あの夜、津波にぬれ、低体温症で大勢の命が失われた。
「たき火がなければ間違いなく凍死していた」。
自宅も会社も流され、再起を目指す加藤さんは「命の恩人に感謝の気持ちと再出発の決意を伝えたい」と言う。
 小型船舶用エンジンの販売・修理を手掛ける加藤さんの会社「カトーディーゼル」は、南三陸町の志津川湾に面していた。大津波警報の発令を聞いた加藤さんは、
車に重要書類を詰め込み、女性事務員(62)と2人で国道45号を北上した。
 目指したのは、会社から約1.2キロ離れた同町志津川天王山地区の空き地。
1960年のチリ地震津波でも浸水しなかった場所で、加藤さん独自の「指定避難場所」だったという。
 到着して間もなく、大津波が襲いかかってきた。近くにいた4、5人全員が波にのまれた。
 がれきが邪魔で水面に顔を出せない。
1度は死を覚悟したが、必死でがれきをかき分け、杉の枝をつかんだ。
ようやく脱出し、山の斜面を20メートルほど上ると、寒さと疲労で動けなくなった。
「溺死を免れたのに凍死するのか」。1日に2度、死を覚悟した。
 「津波から助かったのだから、生きましょう。火を起こしたから暖まって」。
加藤さんがうずくまっていると、男性の声が聞こえた。
木くずや泥が目に入り、視界はぼやけていたが、男性の他に女性が3人いるように見えた。祖母、夫婦、娘という家族構成だろうか。
男性は自分より年下のように思えた。
 たき火を用意してくれた家族はその場を立ち去り、加藤さんは暖を取りながら
一昼夜を山の中で過ごした。12日、自力で山を下り、自衛隊のヘリコプターで
仙台市内の病院に運ばれた。全身打撲に右手首の骨折、低温やけどの重傷で、
そのまま1週間入院した。
 幸い家族は無事で、得意先の船も大半が津波被害を免れた。
一緒に逃げた女性事務員は遺体で見つかり、丁寧に弔った。
 「70歳にして生かされた。気持ちを切り替え、とにかくやるしかない」。
体調が回復し、再起に向けたエネルギーが少しずつ戻ってきたが、「あの家族に
『ありがとう』と言わないと、本当の再出発はできない」とも感じている。
 加藤さんは21日、南三陸町最大の避難所、志津川ベイサイドアリーナの入り口に、一枚の紙を張った。雪の夜 たき火が命を救ってくれた 
命の恩人捜しています

 宮城県南三陸町で津波にのみ込まれ、九死に一生を得た気仙沼市幸町の
会社社長加藤欣司さん(70)が、凍える自分のためにたき火を用意してくれた家族を捜している。
3月11日、雪。
あの夜、津波にぬれ、低体温症で大勢の命が失われた。
「たき火がなければ間違いなく凍死していた」。
自宅も会社も流され、再起を目指す加藤さんは「命の恩人に感謝の気持ちと再出発の決意を伝えたい」と言う。
 小型船舶用エンジンの販売・修理を手掛ける加藤さんの会社「カトーディーゼル」は、南三陸町の志津川湾に面していた。大津波警報の発令を聞いた加藤さんは、
車に重要書類を詰め込み、女性事務員(62)と2人で国道45号を北上した。
 目指したのは、会社から約1.2キロ離れた同町志津川天王山地区の空き地。
1960年のチリ地震津波でも浸水しなかった場所で、加藤さん独自の「指定避難場所」だったという。
 到着して間もなく、大津波が襲いかかってきた。近くにいた4、5人全員が波にのまれた。
 がれきが邪魔で水面に顔を出せない。
1度は死を覚悟したが、必死でがれきをかき分け、杉の枝をつかんだ。
ようやく脱出し、山の斜面を20メートルほど上ると、寒さと疲労で動けなくなった。
「溺死を免れたのに凍死するのか」。1日に2度、死を覚悟した。
 「津波から助かったのだから、生きましょう。火を起こしたから暖まって」。
加藤さんがうずくまっていると、男性の声が聞こえた。
木くずや泥が目に入り、視界はぼやけていたが、男性の他に女性が3人いるように見えた。祖母、夫婦、娘という家族構成だろうか。
男性は自分より年下のように思えた。
 たき火を用意してくれた家族はその場を立ち去り、加藤さんは暖を取りながら
一昼夜を山の中で過ごした。12日、自力で山を下り、自衛隊のヘリコプターで
仙台市内の病院に運ばれた。全身打撲に右手首の骨折、低温やけどの重傷で、
そのまま1週間入院した。
 幸い家族は無事で、得意先の船も大半が津波被害を免れた。
一緒に逃げた女性事務員は遺体で見つかり、丁寧に弔った。
 「70歳にして生かされた。気持ちを切り替え、とにかくやるしかない」。
体調が回復し、再起に向けたエネルギーが少しずつ戻ってきたが、「あの家族に
『ありがとう』と言わないと、本当の再出発はできない」とも感じている。
 加藤さんは21日、南三陸町最大の避難所、志津川ベイサイドアリーナの入り口に、一枚の紙を張った。

 「命の恩人を捜しています」
(山崎敦)
河北新報2011年04月23日土曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110423t15021.htm



 「命の恩人を捜しています」
(山崎敦)
河北新報2011年04月23日土曜日
http://www.kahoku.co.jp/news/2011/04/20110423t15021.htm


ライフライン

2011-04-21 09:55:09 | Weblog
寒い一日でした
こんなコメントを見て胸を熱くしました

☆屋上に避難していた人たちの叫び声を聞いた。

『食べ物がなーーい』。

向かいのホテルの屋上の避難者の声。

こっちのビルから菓子をいっぱい詰めたスーパーの買い物かごに ひもを通しロープに結んで綱渡りで届ける。

「マイヤ」は市中心に16店を展開する地元スーパー。

津波で6店が店ごと流された。

従業員7人が亡くなり、約20人の行方がいまも分からない。

『こういう時こそ、地元スーパーとして、住民の力になりたい』

すべてを失った経営者がカップラーメン50円で販売を始めた。

スーパーマーケットだから。地域の最大のライフラインだから。 と経営者の言葉。

お客さんから声がかけられる。

「社長、ありがとう」

米谷さんが家を失い、家族を亡くした。お客さんが着て下さいと下着をプレゼントしてくれる。

米谷さんは述懐する。

「お客さんの表情が変わってきました」

どう、変わったのか。

「お客さんが優しくなった」

これこそ、ライフラインを守りきったマイヤに対する地域からの評価である。



一部取材陣の振る舞いが被災者の反感を買っている。

2011-04-18 20:01:24 | Weblog
記者「何が必要?」で
被災者「休息必要なのにあなたが邪魔してる」

宮城・東松島市の避難所近くで、航空自衛隊松島基地の隊員が炊き出しを行なっていた。

「すいませーん、こちらに並んでください!」

 声を張り上げていたのは、隊員ではなく、東京からやってきた民放キー局のカメラクルーだった。

並ぶ必要もないのにわざわざ一列に集めて、「画作り」をしていたのだ。
 

震災から1か月が過ぎ、被災地は一刻も早く日常生活を取り戻そうと動き始めている。
そんな中、一部取材陣の振る舞いが被災者の反感を買っている。
 津波で壊滅的な被害を受けた仙台市若林区の避難所となっている中学校の校門には、

3月末頃に〈報道関係の方は立ち入りご遠慮下さい〉という貼り紙が出された。
 管理する区の職員がいう。

「食事をしたり、布団に横になったりしているところに、突然、カメラやマイクを向けられることが
避難者の精神的な負担になるという声があり、取材を一切お断わりしました」
 この避難所では、校門付近に停められた中継車が邪魔になって救援物資の運び込みに支障をきたしたり、
場所を選ばずに行なわれていたインタビューで狭い通路が塞がれたりしたために、
被災者たちのストレスが高まっていたのだという。
 若林区の別の避難所で被災者代表を務めていた男性が憤る。


「メディアは“かわいそうな被災者”を取材したいんでしょう。
地震と津波の記憶はなるべく忘れたいのに、あの時のことを思い出させるように根掘り葉掘り聞く。
小さな子供にまで、津波に流されて亡くなった身内の話をさせようとするんです。

その後に、『今、必要なものは何ですか』と聞くので、

私が『休息が必要なのに、あなたに邪魔されている』と答えると、

記者はバツの悪そうな顔をして、もう取材に来なくなりました」
※週刊ポスト2011年4月22日号

「復興の妨げ自粛を」

2011-04-08 08:07:03 | Weblog
警察検問「復興の妨げ自粛を」

 東日本大震災の被災地に「見物人」とみられる人と車が入り込み、
緊急車両の通行や行方不明者の捜索活動に支障が出ている。
マナー違反の行為も目立ち、自治体や警察は良識ある行動を求めている。
 津波で沿岸部が壊滅的被害を受けた宮城県亘理町。
町災害対策本部の関係者は「3月末から町民以外と思われる人が増えている」と
明かす。路上駐車して壊れた堤防などの風景や捜索、がれき撤去活動の様子を
撮影する姿が目立つという。
 車の擦れ違いの妨げになり、町は6日に一部地区で通行制限を開始した。
自宅に向かう町民には通行許可証を発行している。
町は「通行制限の人員を配置する余裕は本来ない。
興味本位で見に来るのは遠慮してほしい」と話す。
 津波被害が甚大な仙台市若林区荒浜に続く県道でも警察の検問が始まった。
県道はがれきの撤去作業が進んで海岸線まで開通し、一般車が増加した。
住民の車、緊急車両以外で進入する人は身分証の提示を求められることがある。
 「見物人」の中にはごみを捨てて帰ったり、遺体の写真を撮ろうとしたりする人も。
県警は「被災地では今もライフラインの復旧作業や捜索活動、救援物資の搬入が
続いている。
一刻も早い復興のため、不要不急の車の乗り入れは自粛してほしい」と呼び掛けている。

河北新報
2011年04月08日金曜日