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marshallのブログ

ボランテァ

2011-05-31 12:57:57 | Weblog
墓参りと 震災後のお見舞いお礼かたがた 上京
東京・横浜は他国の出来事のように いつもの活気のある町に 
複雑な気持ちで被災者の自分は眺めた。
見舞い品を送ってくれた人には 北は北海道 南は 沖縄から 
30人あまりに 地元紙 河北新報社発行の津波地震の1週間のグラビア雑誌を発送。

大都会の一流紙ではみれない事細かな記事と写真にあらためて 
訪問先で 僕と共に
雑誌を広げ お互い涙を流す。

3月11日は勿論停電 
その後 10日間はろうそくの生活 
やっと電気がつき ここで初めて 津波の画面を目にする 驚きである。

地元ではテレビも見れず 全国より後回しに 津波の恐ろしさを画面で知る。

しかし、2ヶ月半たった今も やっぱり原発、集団避難の多いニュースの中で 
地滑りで おどおど生活している我が町内会 150世帯は 
傾いた家や 家が中心より中心に持ち上がる家 
庭から縁の下に大きな亀裂 
隣の家でやっと支えられている家 

青ビニールシートだらけの町内 
家の中なもっとひどい 
わが家は 壁が余震の度に崩れ落ち ちりが舞う 
毎日少しずつ 傾く 地滑りするわが家 
アルミの窓が閉まらなくなってくる

未だ、ガスもデズ 炊事や風呂に我慢を強居られている。

落ち着かず、がれきや整理もママならず 
ただただぼんやり 一点を見つめるやる気のない状態 

疲れが出たのだろの他人の言葉もむなしく 

檻の中の獣のごとく 家の周りをぐるぐる回るか ぼっけっとしている生活に 
都会の平和な人混みに 目を見張り ため息のみが出る。


気がつけば朝から腹に何も入れていない空腹に 目についたカレー店へ 
隣の席には 30代前半の仕事帰りのお嬢さん
携帯の写真を見せ合いながら まじめに深刻に話しに夢中。
聞き耳を立てるわけではないが
隣の席のことゆえ 
耳に入る 
聞こえてくる。

その会話に カレーの味も感じなく そそくさと店を出る用意。

        メモ用紙に 走り書き 

       「有り難う ありがとう 
        爺さんも被災地から上京 
        一番の楽しみは 観光ではなく 
        親戚のお風呂に1週間ぶりに入れてもらうことと
        明るい話題を頂戴に。 
        未だ 町内会はニュースにもならない地滑り地帯からきました。
        宮城に来て汗を流してくれたのですね。
        感謝します。」

とかいてお二人のテーブルに置いて帰ってきた。
彼女たちの会話は 津波の悲惨な町の
ボランデアの話題でした。


命運分けた停車位置

2011-05-24 06:10:25 | Weblog
その時 何が消えた列車(宮城・東松島)
◎命運分けた停車位置/高台の下り線、津波免れる

 震災の直前、JR仙石線野蒜駅(東松島市)を同じ時刻に発車した2本の列車があった。ともに4両編成の仙台行き上り普通列車と石巻行き下り快速列車。海沿いを走行中に地震に襲われ、3月12日の朝刊は「野蒜駅付近を走行していた列車と連絡が取れないとの情報がある」と伝えた。乗客の明暗が分かれた。

 3月11日午後2時46分。2本の列車は時刻表通り、野蒜駅からそれぞれの目的地へ出発した。窓の外は雪が舞っていた。
 仙台に向かう上り列車の乗客は、会社員や小学生ら約50人。駅を出てすぐ、携帯電話が一斉に鳴りだした。「宮城沖で地震発生」。緊急地震速報だった。ほぼ同時に車両が揺れ始めた。
 あちこちで悲鳴が上がった。石巻専修大3年菊谷尚志さん(20)は思わず手すりをつかんだ。「大人2人に揺さぶられているようだった」
 車両が緊急停止した場所は駅から約700メートル。近くには東松島市指定避難所の野蒜小があった。
 「乗客を野蒜小に避難させてください」。仙台のJRの指令担当者から無線指示を受けた乗務員の案内で、乗客は約300メートルの道のりを歩いた。誘導された体育館には、既に100人以上が避難していた。

 午後3時50分ごろ。「津波が来たー! 2階に上がれー!」。入り口近くにいた菊谷さんは、男性の叫び声を聞いた。人が殺到した近くの階段を避け、ステージ奥の階段へ走った。そこも行列だった。順番を待つ間に水は足首まで達した。
 現実感がなかった。「映画みたいだ」と思った瞬間、近くの窓ガラスが次々に割れ、泥水が一気に流れ込んできた。後ろにいた女の子やお年寄りが声もなく流されたが、なすすべはなかった。必死で2階に上った。
 JR東日本仙台支社によると、少なくとも乗客1人が体育館で亡くなったとみられる。混乱の中、安否を確認できた人数は約20人。2カ月が過ぎた今も、体育館に避難した乗客数すら「不明」のままだ。
 津波は線路上の上り列車も押し流し、車内は1メートル以上浸水した。菊谷さんは「もし車内に残っていたら、死んでいただろう」と振り返る。

 下り列車は野蒜駅から約600メートル走って緊急停車した。幸運にもそこは十数メートルの高台だった。
 「とどまった方が安全だ」。地元に住む年配の男性客が、乗客を外へ誘導しようとした若い乗務員に助言した。乗客と乗務員約60人は、最も高い位置にある3両目で待機することになった。
 高台は津波の襲来を免れたが、濁流にのまれる建物や車が窓越しに見えた。「上り列車は無事だろうか」。石巻市の和泉徳子さん(51)は、野蒜駅ですれ違った列車の安否が気掛かりだった。
 乗客の男性たちが水に入り、流された家の屋根に乗って漂流していた70代ほどの男性を救出した。震えるお年寄りを座席に横たえ、体をさすって温めた。
 「暗くなる前に一口ずつどうぞ」。ある女性客が自分の弁当を周りに勧めた。それを機に和泉さんらほかの乗客も手持ちの総菜や菓子、水を取り出した。自然に分かち合いの輪が生まれた。
 1人だけ、心細そうな男の子がいた。大人がさりげなく見守り、励ました。夜、母親が水をかき分けて車両にやって来た。「みんな自分のことのようにホッとした」と和泉さん。その晩、男の子は母の腕で眠った。
 夜は長く、寒かった。乗客は詰めて座り、互いの体温で暖を取った。
 12日朝。乗客ら全員が車両を脱出、線路を歩いた後、トラックの荷台に揺られ、指定避難所の公民館へ向かった。
 「一人一人ができることをやった。みんなの力で乗り越えられた」。和泉さんは今、そう思っている。(藤田杏奴、野内貴史)

http://www.kahoku.co.jp/spe/spe_sys1072/20110521_01.htm  河北新報より

震災後の無気力状態

2011-05-20 19:37:10 | Weblog
2ヶ月半たった今 体がかったるく 眠い ぼんやり 無気力

地震後の後始末がたくさんある

どれから手を付けていいのやら ぼんやり眺める一日

この季節になると、草も茂る

だるくて何も手つかず

未だ、ガスも出ない 風呂も入れない

そんなとき まだ あったこともないメールのやりとりの人が3度目のメールが飛び込んできた

健気にも関東からボランテアで来仙

ご苦労様

メールの中に逢って欲しいと言うニアンスに取れる内容

自宅が全損 地滑り要注意 避難勧告が出ているわが家には

人と会う心の余裕はない

家族との会話も自然と 荒れた言葉

こんな時、そっとしておいてくれるのが一番ありがたい

その旨をメールでだしたら 受け取った返事が ご立腹の様子

いやはや 

おかげで 寂しい一日を過ごしてしまった。

地震直後にも こんな 気持ちを味わった

「地震大丈夫でしたか 家族は無事ですか」

ありがたい見舞い電話であるが 

こっちの事情もわからず長電話

水汲みに老体にはきつい

時間で水汲みをしなければ ストックが無くなる 限られている時間に水の配給

近所といってもバケツやポりタンクで両手にぶら下げ

20分歩いて運ぶことはきつい 場所によっては 30分以上かかる

こんな事情は先方様には通じない

一度や二度ではない 往復5/6回水汲みに

凍える手に重たいポリタンク2本は体にくい込む 

そんなときの電話はありがたいが 自分の息を吸うことすらできない体で感謝の言葉は出てこない

被害のひどい友人宅や親戚にはこの時期になっても 怖くて電話すらできない

ふるえがくる 安否が心配だが 今でも電話ができない

通常の体に戻るのはいつのことやら

メールや電話でたくさんの人に迷惑かけてしまったようだ。


ごめんなさい。心よりお詫びします。


中国人実習生を企業が守った

2011-05-17 17:13:48 | Weblog
中国人実習生を企業が守った 
避難誘導し犠牲の社員も
 東日本大震災が発生した際、宮城県女川町の水産加工会社で働いていた
中国人実習生162人全員を、受け入れ企業が守った。
津波が到達するまでのわずかな時間で実習生を避難させ、社員が犠牲になった企業もある。
中国では、研修生を救って犠牲になった行動が感動を呼んでいる。

 津波で壊滅状態となった女川港周辺には、多くの受け入れ企業が本社や倉庫、
研修生の寮を持つ。その一つ、佐藤水産は3月11日の地震後、
実習生20人を会社に近い高台の神社に誘導した。
 専務の佐藤充さん(55)は避難させた後に高台を降り、津波にのみ込まれて亡くなった。
中国では実習生の証言が報道され、研修生を守った充さんがたたえられている。
 充さんの兄で社長の佐藤仁さん(61)は「弟は日本人として当たり前のことをしただけ」と言う。
同社では他の社員2人も行方不明となった。
 ワイケイ水産には、実習生と通訳計30人の中国人が港近くの工場などにいた。
地震直後、社員を避難させ、残った幹部や事務員ら5人が実習生の誘導に当たった。
 津波到達までの約30分間で、マイクロバスや自家用車を使い、近くの高台や町立病院などに避難。
実習生と誘導した社員は無事だったが、同社では他の社員6人が死亡、行方不明になった。
 社長の木村喜昭さん(51)は「日本語が分からない実習生が多く心配だった。

誘導した社員は自分や家族のことよりも、実習生を助けることを優先した」と振り返る。
 実習生受け入れ窓口の女川魚市場買受人協同組合によると、震災時に町内にいた
中国人実習生162人は全員が無事だった。受け入れ企業19社のうち複数で社長ら幹部が犠牲になった。
 同組合参事の遠藤貢さん(51)は「実習生の避難を優先し、最後まで残った人が
犠牲になったのではないか。中国へ必ず無事に返したい、という意識はどの企業も強い」と語る。
 組合によると、震災後に多くの実習生の出身地である大連市の職員らが町を訪れ、
受け入れ企業関係者らに謝意を示し、見舞金を贈った。
 中国の温家宝首相は東京で21、22の両日に開かれる日中韓首脳会談の際、
被災地に赴く意向を示しており、訪問地に女川町が含まれる可能性もある。
(肘井大祐、浅井哲朗)


http://www.kahoku.co.jp/news/2011/05/20110517t13012.htm
河北新報  2011年05月17日火曜日

tunami 大地震 2ヶ月

2011-05-13 19:53:41 | Weblog
大地震より2ヶ月が過ぎました
ガスはまだ出ませんが 御陰様で生活は落ち着き始めました

庭に一斉に山野草 中でも牡丹が花を付けました。

牡丹は 思い出多い花

大病退院時 茶の湯ML友人よりお見舞いの鉢 今は庭
10年たって今年も5個の花を付けてくれました。

カタクリは過ぎましたが お茶事で鶴岡へ
何と、カタクリの花が食料(野菜)として売られてました。

その亭主も いまは、塩竃・多賀城の坂病院へ震災支援
会議室に雑魚寝で汗を流している茶の湯ML友人 病院院長。

血圧・糖尿病の薬を中断した人、寝てばかりで体が動かなくなった人、
ストレスでアルコールに走る人、癌で腹水がたまっている人、
統合失調症で同居の避難者を精神的に追いつめる人、
鼾やペットで喧嘩が絶えない人たち・・・
彼ら自身の表現を使えば”ホームレスに毛が生えた生活”の中で団体生活・・・、
健康ばかりでなく自尊心や希望まで奪っているようでした。


多賀城の避難所では、沢山の避難者の方と、茶箱を開いて、抹茶を楽しみました。
雑魚寝の会議室でも、支援者の心を癒すよう茶をたてました。
今更ながら、茶の湯の力に感じ入っています。


とメール報告が届きました 

本当にご苦労様。

この時期に癒やしは 茶花ですね。そして、僕にとっては 友と抹茶です。