まりはな屋

地方都市で、清貧生活  

無責任

2019年05月31日 20時02分44秒 | 日々雑感
大きな事件を起こした容疑者について、必ず報道されることがいくつかある。

①挨拶もよくしてくれたし、こんな大それたことをするとは思わなかった。

これは(また挨拶か)と思うが、ひとつの情報ではある。

挨拶をよくしていても愛想が良くても犯罪者にはなるのだ。

わたしがいつも(いやだな)と思うのは

②おとなしく目立たない子だった。

③あまり活発な方ではなく、友達も少なかった。

という、同級生や担任教諭のコメントだ。

犯人が、20代くらいならまだ分かる。

40代だの50代にもなって小中学校のコメントは意味があるのだろうか。

「そういう子供」だったから事件を起こしたのだろうか。

「そういう子供」だったけど、事件を起こさずにいる人のほうが多いのに。

第一、同級生のコメントはあてになるのだろうか。

影が薄かっただの、目立たなかっただの言うのならば、本当は覚えていないのではないのだろうか。

わたしが小中学校の同級生で覚えているのは意地悪だった子、数人だけだ。

他の子は、ほとんど覚えていない。

犯人をかばう気はない。

むしろ無関係なのに、うっすら憎しみや憤りを覚えているくらいだ。

ただ適当で扇情的な報道は意味がないと思うのだ。

ネット上にも「容疑者宅にテレビとゲーム機があった」という報道に対して

「ならば冷蔵庫や電子レンジもあったという報道もすればよいのに」と揶揄する声がある。

もっともこの報道は携帯電話やパソコンを持たずにいた容疑者に対して

テレビやゲーム機は持っていた・・・という事実を述べたものかもしれないけれど。

家庭環境や生い立ち、犯行にいたるまでの生活が、少しでも関わりのあった人のコメントが

毎日これでもかと報道されるのだろう。

それこそが容疑者の目的だったのではないだろうか。

自分に無関心だった世間が自分のことを話したがり、知りたがる。

犯人をかばう気はない。

ないが、やりきれない。