他人の握ったおにぎりが食べられない(食べたくない)人の話をネットの何かで見た。
この「ネットの何かで見た」ってこと結構多いけど、必要もない情報をしょっちゅうネットから得ているわけだ。
それはともかくとして、わたしの母がやはり人の作ったおにぎりは食べたくないと言ったことがあり
母は、潔癖とか衛生観念とかからほど遠い人なのだけど。
他人の握ったおにぎりがダメな人は「生理的に嫌」だというひとが多い。
この「生理的に嫌」という言葉は便利である。
なぜ嫌かとか何の言い訳も考えずに、何かを蛇蝎のごとく嫌えるのだ。
蛇蝎のごとく嫌うと言うけれど、わたしは蛇も蠍も嫌いではない。
虫が嫌いだという人のほとんどは生理的に受け付けないと言うだろう。
何がと説明は出来ないが、気持ち悪いと。
だから、夜中にゴキブリが出てパトカー呼んでしまう人もいるわけだし。
しかし「生理的に嫌」は理由を放棄しているだけに、思い込みでどんどんひどくもなるし
克服できる可能性もある。
この前、風呂の掃除をしていたら何か黒いものが外から飛んできて胸に止まった。
一瞬驚いたが、「なんだゴキブリか」で終わり。
嫌いな人なら気絶という感じだが
わたしにしてみれば、正体がわかるものは怖くないのだ。
ナメクジも手づかみできるし。
しかし、こんなに虫が平気なわたしでも実は苦手な虫がいたのだ。
かまどうま。
トイレにいることが多いので別名「便所コウロギ」。
コウロギをもっと薄くしたような色に、バッタのような手足。
そしてなぜか予測不可能な跳躍をする。
子供の頃、この虫が嫌で嫌で仕方なかった。
とにかく気持ち悪かった。
何というか、虫なのにむちむちした感じが。
いや、むちむちしてるならアゲハの幼虫だって同じだ。
しかし、青虫はなんでもない。
なぜかかまどうまだけが苦手だったのだが。
大人になって気づいたら、平気になっていた。
逆の人は多い。
子供の頃は平気だったのに、大人になって虫が苦手になった人。
昔はて手づかみできたのに、虫から遠ざかっているうちにダメになってしまったパターン。
どういうわけか、いつの間にかかまどうまが平気になった。
よく見たら、普通の虫じゃないか。
話が長くなったが「あの人、生理的に嫌」などというが、そこにはちゃんと
見た目がとか服装がとか性格がとか理由があるはずなのだ。
で、おにぎりはと言えば「汚い気がする」というのが最大の理由だろう。
知人の男性に「母親の作った料理以外食べられない」という人がいて
30過ぎてそんなこと口に出せるってすごいなと思ったが、外食は平気なのである。
見ず知らずの人が見えないところで作った料理は平気で、
友達のお母さんとか、知ってる人の作った料理はダメってどういうことなんだろう。
外食を作った人が、トイレに行っても手を洗わない無精なアルバイトだったりするかもしれないのに。
まあ、そんなこと考え始めたら外のものは何も食べられなくなるけれど。
わたしは、猫の背中に落ちたシュークリームも食べちゃうような衛生観念の持ち主だから。
まあ、自分が正しいとか平均とかは全く思っていない。
ただ「本当に汚い」のと「汚い気がする」のは違う。
世の中、衛生的には何の問題もないのに、汚い気がするというイメージが先走っているような気がする。
コンビニのおにぎりなら平気という人は、製造過程でなにか混ざるとか
お店におにぎり並べた人がすごいくしゃみしたとかは考えないんだな。
他人の握ったおにぎりが汚いと思うくらいなら、それくらい神経質でも不思議じゃないのに。
決して責めているわけじゃないのだ。
ただ、それが正しいと思って口にして欲しくない。
衛生観念は人それぞれだ。
毎日掃除をしなければストレスがたまる人もいれば、毎日掃除をすることがストレスな人もいる。
掃除はするに越したことはないが、だからといってしない人のことを不潔だとか決めつけられないだろう。
病気にならない程度に清潔にしてればいいんじゃない?
適当な方が耐性が付くかもしれない。
と、思うようになったのはここ数年で昔は「こうじゃなければいけない」という基準があり
ハンカチを持ってこない同僚を白い目で見たりしていたが、今は好き好きじゃん?と思っている。
シーツも毎日替えなきゃとか頑張っていたが、替えなくてもどうってことないと気づいてからは適当になってしまった。
もしかして堕落か?
「おむすびころりん」って、落としたおにぎりをおじいさんがどこまでも追っていくけれど
子供の頃は、えー、落ちたものは食べられないのに・・・と思ってた。
昔はきっと落としたおにぎりも食べたんだろうな。
土をほろって。
だってお米は貴重だ。
他人の握ったおにぎりは食べられないなんていうのは、飽食の幸せの象徴かな。
この「ネットの何かで見た」ってこと結構多いけど、必要もない情報をしょっちゅうネットから得ているわけだ。
それはともかくとして、わたしの母がやはり人の作ったおにぎりは食べたくないと言ったことがあり
母は、潔癖とか衛生観念とかからほど遠い人なのだけど。
他人の握ったおにぎりがダメな人は「生理的に嫌」だというひとが多い。
この「生理的に嫌」という言葉は便利である。
なぜ嫌かとか何の言い訳も考えずに、何かを蛇蝎のごとく嫌えるのだ。
蛇蝎のごとく嫌うと言うけれど、わたしは蛇も蠍も嫌いではない。
虫が嫌いだという人のほとんどは生理的に受け付けないと言うだろう。
何がと説明は出来ないが、気持ち悪いと。
だから、夜中にゴキブリが出てパトカー呼んでしまう人もいるわけだし。
しかし「生理的に嫌」は理由を放棄しているだけに、思い込みでどんどんひどくもなるし
克服できる可能性もある。
この前、風呂の掃除をしていたら何か黒いものが外から飛んできて胸に止まった。
一瞬驚いたが、「なんだゴキブリか」で終わり。
嫌いな人なら気絶という感じだが
わたしにしてみれば、正体がわかるものは怖くないのだ。
ナメクジも手づかみできるし。
しかし、こんなに虫が平気なわたしでも実は苦手な虫がいたのだ。
かまどうま。
トイレにいることが多いので別名「便所コウロギ」。
コウロギをもっと薄くしたような色に、バッタのような手足。
そしてなぜか予測不可能な跳躍をする。
子供の頃、この虫が嫌で嫌で仕方なかった。
とにかく気持ち悪かった。
何というか、虫なのにむちむちした感じが。
いや、むちむちしてるならアゲハの幼虫だって同じだ。
しかし、青虫はなんでもない。
なぜかかまどうまだけが苦手だったのだが。
大人になって気づいたら、平気になっていた。
逆の人は多い。
子供の頃は平気だったのに、大人になって虫が苦手になった人。
昔はて手づかみできたのに、虫から遠ざかっているうちにダメになってしまったパターン。
どういうわけか、いつの間にかかまどうまが平気になった。
よく見たら、普通の虫じゃないか。
話が長くなったが「あの人、生理的に嫌」などというが、そこにはちゃんと
見た目がとか服装がとか性格がとか理由があるはずなのだ。
で、おにぎりはと言えば「汚い気がする」というのが最大の理由だろう。
知人の男性に「母親の作った料理以外食べられない」という人がいて
30過ぎてそんなこと口に出せるってすごいなと思ったが、外食は平気なのである。
見ず知らずの人が見えないところで作った料理は平気で、
友達のお母さんとか、知ってる人の作った料理はダメってどういうことなんだろう。
外食を作った人が、トイレに行っても手を洗わない無精なアルバイトだったりするかもしれないのに。
まあ、そんなこと考え始めたら外のものは何も食べられなくなるけれど。
わたしは、猫の背中に落ちたシュークリームも食べちゃうような衛生観念の持ち主だから。
まあ、自分が正しいとか平均とかは全く思っていない。
ただ「本当に汚い」のと「汚い気がする」のは違う。
世の中、衛生的には何の問題もないのに、汚い気がするというイメージが先走っているような気がする。
コンビニのおにぎりなら平気という人は、製造過程でなにか混ざるとか
お店におにぎり並べた人がすごいくしゃみしたとかは考えないんだな。
他人の握ったおにぎりが汚いと思うくらいなら、それくらい神経質でも不思議じゃないのに。
決して責めているわけじゃないのだ。
ただ、それが正しいと思って口にして欲しくない。
衛生観念は人それぞれだ。
毎日掃除をしなければストレスがたまる人もいれば、毎日掃除をすることがストレスな人もいる。
掃除はするに越したことはないが、だからといってしない人のことを不潔だとか決めつけられないだろう。
病気にならない程度に清潔にしてればいいんじゃない?
適当な方が耐性が付くかもしれない。
と、思うようになったのはここ数年で昔は「こうじゃなければいけない」という基準があり
ハンカチを持ってこない同僚を白い目で見たりしていたが、今は好き好きじゃん?と思っている。
シーツも毎日替えなきゃとか頑張っていたが、替えなくてもどうってことないと気づいてからは適当になってしまった。
もしかして堕落か?
「おむすびころりん」って、落としたおにぎりをおじいさんがどこまでも追っていくけれど
子供の頃は、えー、落ちたものは食べられないのに・・・と思ってた。
昔はきっと落としたおにぎりも食べたんだろうな。
土をほろって。
だってお米は貴重だ。
他人の握ったおにぎりは食べられないなんていうのは、飽食の幸せの象徴かな。