マリアヨハンナさんのブログ

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高齢者施設って(1)

2024年02月28日 | ブログ

実家の母が高齢者施設を転居

 2020年の10月に倒れて緊急搬送されて、心筋梗塞であったことからカテーテル手術をすぐに行わないと命にかかわるとのことで、東京の自宅から実家のある三島(静岡県)へのバスや公共交通機関で移動の最中に、救急隊や搬送先の病院の先生との電話でのやり取りをして、電話で手術をお願いしたりと突然のことでした。

前日までは、実家にいてどうも母の様子がおかしいなと思い何度も病院へ行こうと誘いましたが、頑固に大丈夫定期健診で問題ないと言われていると言い続けていたのが、やはり、翌日朝に起き上がれなくなり、手が痺れて動かないという。

本人からの電話で、その日に訪問する業者の応対をしようとしたが出られないと電話があり、慌てて業者の社長に救急搬送を依頼。ただし、家のドアが開かないので、壊してもらうしかないので、色々考えて最寄り警察署に電話で、ドアを壊してもらうのを立ち会ってもらいたいと依頼。警察官2人がすぐに駆けつけて下さり、業者と相談していたら、母が自分でやっと玄関を開けたところで、救急車が到着し搬送してもらえたらしい。警察の方が貴重品の荷物をまとめて救急隊に渡し、戸締りして送り出して下さったと。

本当に感謝。

それから数時間後には病院に到着カテーテル手術を終えた母が、結構元気にベッドで待っていた。「ごめんね」といって。

92歳の母にとっては病院の入院生活は50数年ぶりのこと。1週間ほどベッドで生活していたら、すっかり歩けなくなってしまった。足の筋肉が衰えてしまったのです。

その後に吐血。なんと末期の胃がんが見つかった。当初は出血が止まらず、輸血をすることで何とかもっていたが、数日したら、主治医から、輸血の停止を求められた。輸血用の血液は手術をするなどが無いとこのまま続けられないので、手術をするか止めるか決めて欲しいとのこと。母に聞いたら、「もう十分に生きたから、何もしなくても良い」とのこと。

 その後、私が長年、月経困難(過多出血)症であったことから、貧血の治療として鉄剤投与・点滴や注射に止血剤処方をして20年位暮らしてきたことを伝え、母にも鉄剤投与と一時的な止血剤をお願いした。そうしたら、とてもうまく出血が減ってきた。ただし、胃癌の進行は予想できないので、余命は早くて1週間~2か月、長くて半年と言われてしまった。

2か月ほどしたら、この先は短いだろうから、家族と過ごせる時を持った方が良いとのことで、退院を促された。しかし、コロナウイルス感染拡大の真っただ中、自宅に連れ帰って看病することは難しいので、考えた挙句、旧知のホスピスに入院することを考えた。

 この時気付いたのだが、医者というのは自分の専門のことは詳しいが、専門外のことはあまり良く知らないなあと。私が、貧血の治療をしていなかったら聞いてみることもなかったのだが、心臓の外科医としては優秀だったのかもしれないけれど、婦人科治療のことはご存じないのだなと思った。また、国立の大きい総合病院なので、急性期の病人以外にはあまりその後のケアを考えることもないのかなと思った。特に高齢者は。

 

 幸いホスピスでは、快く迎え入れて下さった。ケアは今思えば最高で、母にとっては天国にいるようだったと。これほど自分のことを大切に扱ってもらったことはないと。コロナで面会は制限されて、部屋に入れたのは最初のうちだけ、そのうち県外の家族は病院内に入れなくなった。病室は1階で中庭からがふぁす越しに、携帯電話で話すことが出来たので、毎週半分実家で過ごし毎日母を訪問。残りの半分は東京の自宅で須吾る日々であった。

社会全体が、コロナ禍であったことは幸いで、通常の活動がすべてストップしていたので、母のところに行くのは余裕であった。いつもしているボランティアも会議は書面開催だったり、教会のミサも参加出来なかったり。

たまに事務受付当番の時や葬儀があった時だけ、ご奉仕に行ってミサに与ることが出来た。

 ところで、母の病気は本当に良くなって、1年がたったころ、さすがに病院(ホスピス)にはこれ以上置いて置けませんと言われてしまったので、病気のことを考えて24時間看護師が常駐しているという高齢者施設に入居することにした。とてもきれいで新しい施設だったし、当初の施設長や相談員もてきぱきしてて良いなという印象だったが、どうも、職員さんと顔を合わせても挨拶もしないし、明るくない。私の方から大きな声で「こんにちは」、「いつもお世話になります」「ありがとうございます」と言い続けていたら、半年くらいしたら、殆どの職員が挨拶をする様になった。

毎日、足しげく通う家族は珍しいく、顔を合わせる回数も多く、顔見知りになったからかもしれない。

コロナで面会は禁止が続いていたが、お願いしていたリハビリなどがしっかりされていないようなので、夏あたりから、母を散歩に連れ出すことにした。外に連れて行くのは良いと言われたので。そのおかげか、歩くのがしっかりとした足取りになって早くなった。食事は全く美味しくないとのことで、母の好きなものを差し入れして、食事に頼らなくても栄養が摂れるように配慮した。トロトロの柔らかい食事ばかりには飽きていて、自宅に連れて行った時や差し入れには、コロッケやらお寿司屋らを食べていたが、結構、体調に異常はなかった。

頭もだんだんはっきりしてきて、痺れを忘れるリハビリに始めた編物もかなり大きな作品が作れるようになった。

毎日、日記も付けているので、何をしているのかを確認しながらの生活。自宅から持って行った花を生けたり、ちぎり絵をしたり、絵を描いたり。

何時までも、職員さんが人によって対応が違うことについて、不満を言っている。そのうち、ちょっとした行き違いで、言葉のやり取りがすれ違ったのか、副施設長の看護師がえらく興奮して、母は手に負えないと・・・。

よくわからないけれど、家族の私は、何があったのか実際に見てやり取りを聞いていたわけではないから、良くわからない。それで、「そちらは、高齢者の扱いのプロでいらっしゃるから何とかうまく対処できませんか?」といったら、更にヒートアップ。「施設長に言います!」と叫んで電話を切った。国語に施設長から電話があり、本人も家族も施設に対して信頼を置いていただけないので退居して下さいと・・・。はて?それほど絵のことを言ったのだろうか?

お医者様が、母から「お薬を6個もいっぺんにのめないので、半分ずつ時間を空けてのんでもいいですか?」といったら、「いいよ。いいよ」と言われたので安心して。他の話は耳に入っていなかったようだ。

その後に「多いのはかわいそうだから少し減らそうかな。」と言ってくださったらしく「鉄剤を1個減らそうね」と言ったらしいけれど。耳の遠い母には届いていなかった。」

それで、母がしっかり確認していないのに、私に「お医者様kら1個お薬を減らすことになりました」とだけ伝えられ。「母は、知っているんですか?」と聞いたら、「知っていますよ」というので、それなら大丈夫ねと、母にもう一度伝えたら、母は、「そんなことは聞いてないわ、誰がそんな勝手なことをしたの」と怒り出した。「2回に分けてのんでいいと言われただけよ」とも。

看護師さんには、正確に伝えて頂けますかと言っただけなのに・・・

なんで???

本当にどうだったのかが判らないから、施設長も職員を失いたくないだろうからと思い、直接訪問する病院に電話をしてみた。

担当の訪問看護師から、かなり詳しく状況を教えて頂くことが出来たが、やはり、本人への確認がいい加減になっていて、呆けている人だったら問題も起こらなかったのかもしれないけれど、本人がしっかりと意識があって考えてるので、納得させないとならない。それが、面倒くさかったんだなと思った。

どちらにしても、8割が認知症や寝たきりや車いすの方がいて、自立出来てるのは1割だけ。だから、どうしても手が回らないからと言われてしまった。

デーサービスもなく、月1回程度のイベントやレクリエーションがあるが、これは、母にとっては書道以外は何も興味弾くものはなくって、それも、声をかける時もあればかけない時もあるなど、一定でない。

 そいうわけで、急いで別の施設を探すことになってしまった。言われたその脚で、役所に行って困っているんですどこかお薦め在り真S年か?と単刀直入に聞いた。

そこで最初に勧められたサービス付き高齢者住宅に早速母を連れて見学に。毎週丁度歯科治療に通っていたので、その帰りにそれとなく連れて。

近くの3か所を見たが、何処も空きはなく、3か月以上はかかるとのこと。それで、連絡を待つことに。

母は、自宅で一人で暮らすから良いと言い始めた。とても、私はそこまで一人暮らしの母を支えられないわよと言っていたら、たまたま膝の半月板損傷や、坐骨神経痛を発症。母よりも歩けない状態になってしまったので、さすがの母も一人暮らしを諦めた。

そうこうするうち、幸い3か月たった昨年暮れのクリスマスの日に、最初に見た施設から空きが出来ましたと。

慌ただしく、契約をし、引っ越し準備をした。

このつづきは、また・・・


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