ショパン: ワルツ集 第1~13番 サンソン・フランソワ
多くのピアノ練習者の例に漏れず、ショパンが大好きで10代は自力でレコードやカセットテープ(CDなんてない頃)をお小遣いで買っては聞き、楽譜を購入して自力でピアノを練習。「ショパン協会」というのにも所属して、最新の演奏を聞きに一人で出かけ・・・と20代には週に3日もなけなしの給料をはたいて演奏会に行っていた時代がありました。ショパンコンクールの入賞者の演奏は欠かさず聞きに行ったし、公開練習なんかも弾けなくっても聞きに行っていた。
色々な録音を聞いて一番気にったのがサンソンフランソワの演奏。なんともその音の粒立ちが素敵で・・・。
音大のピアノ科を志望して、東京へと毎週レッスンに通っていた中学高校時代もあったけれど、いざ受験ということで高校2年生の時に、頭のいい弟の受験と重なり、大きな音で練習するのは受験の妨げということで、親に取り敢えずは音大は無理だからと諦めさせられて、どこかほかの大学か短大に行って・・・ということになった。 英語科に進んだものの、やっぱりピアノが好きで短大の大教室にあったグランドピアノで毎朝練習。女子寮にあったピアノも良く独占してたら、友人もそれに刺激されてか、時間を分けて弾いていた。
卒業を前にして親から「”井の中の蛙”だから、取り敢えず就職して社会勉強を1年だけしなさい」と言われて就職。音楽が出来るところがいいなと、「リクルート」雑誌で職場合唱が有名だという銀行を選んで就職。すぐに合唱団に入って、時々、ピアノの先生がお休みの時には、伴奏をしたりしていた。合唱団は本当に有名でNHKなんかにも出演。N響+ハインツワルベルク指揮と共演なんてこともあったりして、その練習のためにN響の練習場のフルコンなんか弾く機会も・・・。合唱団の定期演奏会でも時々伴奏したり。今考えると下宿していて、ピアノがないのによくやったなぁと思う。若かったから周りの事や、自分の実力なんかもよくわかってなかったから出来たことだと思う。
就職したら、その年の暮に父親が突然クモ膜下出血で倒れてすぐに他界。もう、音大は無理だなということで、母がわずかな遺産の中から、短大しか行かなかったからと少し分けてくれたので、音楽専門学校に通った。そのあと、ヤマハのエレクトーン指導者養成コースというのにも自分の稼ぎで通って指導資格をとったり・・・。
合唱団に所属したお陰で歌にも目覚めた。コンクール優勝者のボイストレーナーが来てくださって、欠かさず練習に行った。”楽事”とかいう技術面の役員になって先生のお世話係や資料作りなんかもしたり。高校時代に先生が「あなたは声がいいから、ピアノ科よりも声楽科を志望したら」なんて言われたことを思い出した。どちらにしても音大はお金がかかるからもう無理だなと思った。エレクトーンの指導資格が取れたら実家に帰って教えようなんて考えていたけれど、結局、結婚相手が見つかったので、住んでいる社宅のママさんコーラスに入り、子どもを連れて毎週コーラスの練習したり、時々、パート練習の伴奏したりとなった。そのうちに引っ越しで東京へ。
結婚前に入学してすぐに休学していた某大学の通信教育の児童学科というのに通い始めた。ここで、音楽の科目をとってピアノを再開。結構いい成績と先生からもおほめを頂けた。この時、教育学を志望すれば一番良かったんだなって気が付いた。 教会オルガン奏者(奉仕)にもなった。加えて息子のバイオリンの発表会の伴奏を弾くことに…。これがきっかけで、また、ピアノのレッスンに通い始めた。独身時代からの貯金利息利率が高かったので、それでグランドピアノを買った。なんと30代~50代まで20年近くも通って細かい指導を受けることに。やっと、ピアノをどう弾く(聴く)かが分かった。リストやラフマニノフなんって曲もかなり弾けるようになって大喜び。 社宅時代の友人がピアノを弾く(聞く)会を毎年開くようになって参加。新しい曲にチャレンジして~と頑張っていたのに。 悲しいかな、小指の関節炎になって弾くと痛くなってきたので辞めることに。しばらくオルガン以外触らない時期も・・・。
ピアノを売ろうかなと思って聞いたら、150万円も出して買ったのに、わずか17万くらいにしかならないと聞いてガッカリ。息子が結婚して孫にでもあげれれば(期待して)ともう少し持っていることにした。
今年も恒例のピアノパーティ。ここしばらくは、習いたてのクラシックギター演奏と歌やピアノ弾き語りとかでごまかしてきた。 ピアノの演奏には全く自信がない。時間切れで選曲をショパンのワルツにした。「別れのワルツ」。中学2年生の時に先輩の卒業式の入場前のBGMで何か弾いてと言われて選んだ曲。その時は、恋愛の曲なんて知らずに選曲。今でも暗譜で弾けるから…指が覚えているのよね~。本番は来週だけどどうなるかしらん?