Lepidolite(レピドライト)・・・まりあ◎シャクティというARTのこと。

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『変わりたい』ちゃん、『変わりたくない』ちゃん

2011-01-21 17:35:03 | ココロ・カラダ
今回は、前回の日記の続きになるでしょうか・・・・


ごく最近、はっきり認識するようになった私の
「とにかく、変わらなければ!」という人格。
出会いによって大きなカタルシスこそなかったものの
向き合ったことからさまざまな結び目が解けてきたようだ。
何か変わったな、と思う一番大きな点は、私の、人に対する目線。
ことに、何かを教えてくれる立場の人への・・・・・



「変わらなければならない」人格にとって、
何か大事なことを教えてくれる人は崇拝の対象といっていいくらい。
当然のことだ。常に「自分は間違っている」という前提に立っているのだから
「師」の言うことなら無条件に全面的に受け入れるところが、数年前の私にはあった。
彼ら彼女らから教えられたことは確かに大切なことで
(幸いにして良心的な方ばかりだったので)、
それは今も大切な知識として私の中で蓄えられているが
そんな盲目的な私の姿勢は
「変わらなければ!」と言っているヒトの下にいる、もうひとりのヒトにしてみれば
その存在を全く無視した行いだった。
もうひとりのヒトは、頑として変わることを拒否していて
変わりたくないのには実はそのヒトなりの理由があったのだが
「変わりたい」人があまりにも強かったために、声を上げることができなかった。
それが、あからさまに声を上げ出したのが例の高熱によるバーンアウトからだ。
高熱で、明らかに何かの重石が外れたのだろう
あの体験なくしては、何の気づきも得られなかったのではないかと思う。



以降。
私は、特に生き方にまつわる色々な事を熱心に説いてくれる人に対し
強い拒絶反応を起こすようになっていた。
『変わりたくない!』ちゃんの猛烈な抵抗だった。



しかし『変わりたい!』ちゃんも負けてはおらず
(なんせ生死がかかっているわけだから!)
変えよう、と、誰かに助けを求めることもあったが
結局、その人の強引に私を変えようとする言動に傷ついて終わった。
そういう体験を私にさせる、それほど『変わりたくない!』コの
叫び、痛みは大きかったのだ。
そんな中でも、セラピストさんの元へは通っていたわけだが
彼女は、誰の中にもいる『変わりたくない!』ちゃんの存在と
その重要性をわかっていたのだと思う。
クライアントに関係のありそうな物事について口にすることはあっても
「こうしたら?」とか「これがいいんじゃない?」というサジェスチョンを
それは見事なくらい一切口にすることなく
とことん自主性を重んじてくれた彼女に
私の中の『変わりたくない』ちゃんは全面的な信頼を寄せていたし
他のクライアント仲間も なによりそれが有り難かったよね、と
口にする。



自主性を重んじる・・・・・信頼する、ということ。
『変わりたくない』というチャイルド、そして
『変わらなければ』というチャイルドも、生まれてこのかた
「お前はダメだ」と言われることはあっても
信頼されるということが一切なかったのだ。
「あなたはそのままで完璧」と、言われたかった。知りたかったのに。



「生きているだけでカンペキ」
初めて、こんな言葉を聞いたのは6年ほど前
腰痛がきっかけで通い始めた整体院の先生からだった。
人には生きる力というのが誰の中にも備わっていて
本能を最重視するという、そんな発想は当時の私の中にはなかったし
まだ「変わりたい!」と切望していた頃の私にも
何かピンとくるものがあったので、以後そちらの整体法講座に通ったりして
学んでいた。
変わりたい、という気持ちと、先生に甘えたい、認められたい、という気持ち。
そんなものが複雑に交錯していたような気がする。
やはりメソッドの中にはどうしてもこうした方がいい、
こうすると変わっていく、という方向性は存在する。それは当然のことだ。
しかしそれすら、ある時期から私には耐えられなくなり
(完全に先方を悪者扱いしていた)
整体院に足を運ぶことはなくなってしまった。そして、
もう足を運ぶこともないかもしれないと思っていたのだけれど・・・・



再び「のりしろ」に立った・・・・
身体もキモチも固まってきていると感じる今、
再び かつて通ったあの場所に戻ろうとしている。
先日、あの整体院に久しぶりに電話をして、予約を入れた。
何が 私の中で変化したのだろう?



少し前に
常にパニクっている「変わらなければ!」ちゃんとその苦悩を
はっきり意識するに至ったと書いた。
その存在はまだはっきりと自分の中にある。
昨日のベリーダンスのレッスンでも、
先生の身体可動域には到底及ばないのに
強引に身体を動かそうとする自分がいる(笑)。
でも、
よく言われるように
「変わらなくてもいいよ」とも「頑張らなくてもいいよ」とも
そのコに話しかけることはしていない。
ただ、存在を感じながら一緒に日々を送っている。
日々を送りながら、自分を信頼することを
「変わりたいちゃん」と一緒に、学んでいる気がする。



初めてセラピストさんのところを訪れた時、
針金のようなもので 自分をぐるぐる巻きにしている私がみえる、と
彼女が言っていた。
ぐるぐる巻きにして、制限を加えていたコのひとりが
おそらくは「変わらなければ!」ちゃんの一人。
ぐるぐる巻きを、少し 緩めてくれたのだろうか・・・・



予約を取り、電話を切った途端に「行きたくない」コが出現する。
でも、ぐるぐる巻きが緩んだ分
命が本来の動きを取り戻すために、本当に必要な場所へと 
抵抗を越えて私を導こうとしてくれているのだろうか・・・・



整体院に行くことを決めた。
でも、決して私を「変える」ことが目的ではないと、ぼんやり感じている。
別に、変わらなくてもいいじゃん。
焦りの中にあっても時々
「のりしろ」にいるのもいいか。今は地中に根を伸ばす時期なのかもしれない。
のりしろを抜けた時が楽しみじゃない?と思っている自分がいる。
整体院で何が起きるのかはわからない。
もしかすると、嫌っていたサジェスチョンに出会うかもしれない。
でも、どんな形であれ きっと今の自分に一番必要なことなのだろうと思う。



抵抗がある中でも、少しづつ
委ねる準備が出来つつある。
委ねる、というのはきっと
謙虚である ということでもあるんだな。
聞く耳を持たなかった私に、ようやく耳が出来てきたようだ。







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2 コメント

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聞く耳 (momo)
2011-01-22 07:41:23
おはようございます!!


人の話もさることながら、自分の中の声に耳を傾けることは、大事なことですよね~。
私も同じセラピストさんにチャイルドたちへの接し方を教えて頂けたことは一生の宝だなと思っています。 それから同じ価値観を共有できる仲間がいることはこの上ない幸せです。


インチャワークも予想外に素晴らしい収穫だったのですが、それ以上に身体を動かすダンスワークはドンピシャ自分を自由にさせてあげる強力なツールになりました。

がぶさんが久しぶりに整体に行きたいと思われたのも、身体が解放したい何かがあるからかもしれませんね(^-^)解放の間口を拡げたいと思ってかな~?って拝読してて思いました☆
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momoさん☆ (まりあがぶりえる)
2011-01-22 21:53:45
身体はですね・・・・
私的にはチャイルドちゃんの象徴と常々思っています。

でも、これまでの私の身体への扱い方があまりに
強引だったものですから、人様に対して
「触らないで!」オーラを発してたんですね。
身体の持主=私が無理強い姿勢だと
人様もそういうもんだと思い込んでしまうのは
当然です。
そんな時は、整体師がどんなにこちらを
案じてくれていても
身体が施術を受け付けないし
上述の整体師さんだったら、鋭いので
「今日は触っても無駄」とキッパリ言いますね。

だから・・・・「解放」というよりは
他者の助けを「有難く」受け取ることが出来るようになったというか
少しづつ、他者への信頼を取り戻しつつある
ということなんだと、
私は捉えています。(長い説明・・・(笑))
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