井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

日本の余白

2015年06月06日 | 日記

「○○は、韓国が発祥」と言うのが好きな韓国人が、MERSは韓国発祥とは言わない。

と、いささか不謹慎なジョークを言われているほど、韓国の発祥好きは有名で

イエス・キリストにすら韓服を着せ、乳出しチョゴリの聖母マリア像が韓国の

某教会の前に設置されている写真がある。

「剣道は韓国が発祥」と言いながら、その宣伝ポスターに「用心棒」の三船敏郎さんと、「座頭市」の勝新太郎さんを使う整合性の無さ。

茶道も韓国発祥なのだそうだ。

亜寒帯エリアの多い韓国で、茶道にふさわしい茶葉が生育出来るのか? 

とまともに突っ込む気にもなれないし、韓国茶道とやらが行われている室内に

トイレット・ペーパーが転がっていたり、湯が魔法瓶に入っていたりするのは

ご自由にどうぞ。

だが彼らが決定的に解らず、また模倣出来ないのは、

剣道、茶道、華道、柔道・・・・と、なぜ「道」が付いているのか、道という一語に

込められた精神性であろう。

韓国の自称茶道には、茶室がない。そのうち、作るかと思われるが。

しかし、日本の茶室を模して蹲(つくばい)や躙り口(にじりぐち)を

作ったとて、そこに込めた心を解さねば形だけのことであろう。

蹲は、神社の手水鉢の発想と軌を一にするものであろうかと

思われるが、心身の清め。それも、身を屈めて手をそそぐ。

なぜなら茶室が「結界」であるからだ。

そして、躙り口(にじりぐち)は身を屈め入ることで、高慢な心や浮世の身分を

そこで手放す。

躙口は高さが2尺2寸(約67cm)。正座で中に躙り寄る。

 

狭い茶室が、更に狭い躙り口の設置で広がりを持つ。

茶室を宇宙と観じる。枯山水に、実際にはない水の流れを見るように、

日本人は心の目でものを視る。

精緻に作りこまず余白を作ることで、広がりを持たせる。

鹿威し(ししおどし)は、静寂を際だたせるための音である。

静寂それ自体は静寂を表現しない。

音が鳴って、人は静寂を知る。

「閑さや岩にしみ入る蝉の声」という芭蕉の句もそうである。

蝉の声ありて、芭蕉は静けさの深さを知る。

「古池や蛙飛びこむ水の音」も静寂を詠んだ一句だと私は思う。

茶の湯の心得がないので、偉そうには言えぬが茶の湯釜で沸く湯音も、

様式の中にはいるのではないだろうか。魔法瓶の湯で茶道は成り立たぬ。

茶室は結界でもあるが、瞑想空間でもあるのではないか。

道は、また人間を超えたsomething greatへ至るための道でもある。

芸を極めることが、神仏の境地を知ることでもある。

韓国がまだ「ウリが発祥」と言っていない、数少ないものの中に

浮世絵がある。

西欧の画家たちに多大のインスピレーションを与えた浮世絵。

北斎のあの波など、写実でスタートした西欧の画家たちには、

驚きであったろう。

波大きく、富士山小さく、表現としての誇張を日本は古くから知っていた。

雨は斜めの線で描き、日本のコミックが世界のトップランクに位置づけされるのは、

伝統の素地があるからだ。

茶の湯も知らずにほざいたので、妙なことを口走った箇所があるかもしれない。

心得ある方からの、お叱りを待つ。


3 コメント

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Unknown (ちか)
2015-06-06 23:19:31
高校のころから20年以上お茶を習っていました。躙り口のそばには刀掛けがあって、そこに大小を置いていかないといけないんですよね。茶室の中ではみな平等というか…。
茶室の中の空間は何ともいえず好きでした。無駄な動作が全くなく、静かだけど音もあり、何も考えなくてもいいけれど相手を思って考えないといけないし。お茶室の中の雰囲気を決めるのは亭主と正客の会話次第ですし。それこそ一期一会の空間なんですよね。

釜鳴の音も好きなのですが、あれも不思議なことで鳴るときと鳴らないときがありました。お湯の温度、茶室の温度や湿度、炭の配置や燃え方、いろいろな条件の組合せなのでしょうが、鳴ると結構うれしかったりしました。
発見される日本 (風鈴)
2015-06-07 11:48:31
静寂それ自体は静寂を表現しない。

音が鳴って、人は静寂を知る。

↑この表現に日本文化の真髄が現れていると思います。すばらしいです!
茶釜の沸く音は「松風の音」と
習った気がします。

日本文化の普遍的な価値を長い間日本人自身がわかっていなかった(必要ではなかったから?)と思います。どちらかといえば「日本人だけがわかるもの」と解していたし、今もそういう思いは残っているような気がするのです。
韓国人のように「我が国の文化はすばらしい!みんな見て見て!」というのはどうもはしたない気がします。まあ、昨今そうも言ってられない風潮ですが。。
韓国は嘘をついてまで「ウリジナル」を売りだしていこうとする、対して日本文化はいつも「見つけられるもの」でした。
この「発見する」ということがキリスト教文化の中で育ち「エデンの園」を探し続けている西欧文明にとってはたまらない魅力になるのではないでしょうか?
松籟 (井沢満)
2015-06-07 15:34:32
ちかさん

刀掛けのことは知りませんでした。
凄いことですね。茶室では無防備・・・・。

釜鳴りという言葉も忘れていました。
韓国茶道の魔法瓶にはない風情です。


風鈴さん

松風・・・・そうでしたね。

あと、松を渡って来る風を松籟(しょうらい)というのを思い出しました。松を吹き渡る風が格別だったのでしょうか。