井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

朝鮮伝統の声闘に屈してはならない

2020年03月15日 | 歴史・政治

 朝鮮半島には、声闘(ソント)とという朝鮮人の古くからの伝統があり、現在でも彼らのお家芸である

声闘を平たく説明するなら。声の大きさで相手の言論を封じること。
人と議論をするとき、議論の内容は関係なく、ただ大声で早口で居丈高に話し、 相手が何も言い返せなくなれば勝ち、という思考形態であり、そこには道理も真実もない。。 古来朝鮮において、法律は意味がなかったことから生まれたかと思われる。現代でも法が機能していないのが韓国、北朝鮮である

相手が論理的に反論しても、聞こえないか 聞こえないふりをして大きな声で意味不明な反論を威圧的に繰り返す。そして相手を加害者に仕立て上げ自分を被害者にする。自分に非があっても決して認めず、大声で反論を繰り返して相手が、疲れ呆れて黙り込んだら勝利宣言をする。

 さいたま市に数をたのんで押しかけた朝鮮学校の人たちを見て「声闘」の存在を思い出した。
 終戦直後から日本で繰り返され続けて来た構図である。

 お人好しで過剰に相手を忖度する日本人は、ひとたまりもなかった。

嘘も執拗に大声で主張し続ければ、国際社会も騙されるのだ。

元は中国起源の「聲討」だが、朝鮮半島のほうが有名になった。

ケント・ギルバート氏の指摘するごとく 嘘を恥じない国民性も中国の属国として過酷な李氏朝鮮圧政下で生き抜くために半ば後天的に培われた国民性であるのかもしれない。

 

朝鮮半島の「声闘」に対するに日本は「無闘」を半ば伝統的に、やられて来た。基盤に敗戦以降のGHQによる朝鮮人利用の日本毀損があった。GHQによる日本弱体化政策の一つに「日本人は朝鮮を批判してはならない」という項目があった。日本が朝鮮を弾圧搾取したと思わせ被害者(朝鮮)と加害者(日本)に仕立て、アメリカの過去の黒人搾取や虐殺から世界の目をそらさせ意図も込めて、施政上も日本悪玉朝鮮被害者説が便利だったのだ。かくして贖罪意識を刷り込まれた日本人は「民族差別」「過去の歴史」を押し寄せた集団から持ち出されると黙ってうなだれるように仕込まれた。放送局の在日採用枠もこの流れの中にあった。その枠で入社した人たちがいずれしかるべき地位へと昇進、その局のある部分を牛耳るようになる。今のテレビの体質のある部分はそこからも来ているかと思われる。

日本人が声闘に応じようとすると「日本人として恥ずかしい」と牽制して来る定番は「外国人」による。「私は日本人だが」というのも定番である。「私は生粋の日本人ですが」という強調系の前置きもネット言論ではおなじみである。

 ネットで真実を知る若者たちがマスコミの洗脳から脱して社会の実権を握る時、様相はいくらか変わるかもしれない。団塊の世代の人達がマスコミと学校教育で根深く洗脳を浴び続けて来た。