悪癖の一つに、寝室のテレビをつけっぱなしに寝るというがあり、
そのためについているテレビが音声で伝える情報に
夢の内容が反映されるときことが、ままある。
昨夜は、滞在中のホテルの部屋が見つからず焦燥して部屋を
探し歩くという夢を見て、これが現実ならフロントに
案内を請えばよいだけのことなのだが、夢の中の理性は
特有で、そこに発想が行かない。
そのフロント自体が迷路の中にある。
やっと探し当てたフロントで、にこやかに
親切に応対してくれた女性がいて、それが
片平なぎささんだった。片平さんとは、大昔に一度
仕事をしたことがある。
夢もリアルだと、覚醒時の体験と同質であり、時に
うつつのそれよりも、夢の中の体験が強烈であることもある。
わけてもこの世を去った愛犬たちの夢がそうで、
たなごころに感じるぬくもり、息遣い、体臭まで
耳に鼻腔に知覚して、覚めた瞬間この夢覚めなかったら
よかった、と悔いに似た思いを味わうことも
しばしば。確かにそこに「実在」したという実感があり、
白日のもとしらじらと味わう現実よりも、心により深く刻印されるのだ。
うつつと夢まぼろしの境界線が曖昧になる。
となれば、思い起こされるのは人生の出来事は
全ては想念が織りなす夢ではないのか、という
メタフィジカルな命題である。
いったい、どちらが現実なのか、という問いかけは
古代中国の思索家も述べていて「莊子の夢」として
知られている。
荘子が、蝶となり百年を花上に遊んだ夢を見て目覚める。
自分が夢で蝶となったのか、蝶が夢見て今自分に
なっているのかと、形而上の疑問を述べたのが
「 荘子斉物論」であるらしい。
らしいというのは、私が未読で解説のみを知っているに
過ぎないからだが。
富士山という一見実在も、実はそれは想念が織りなす
夢ではないのか。
という問いが大乗仏教における「唯識説」への
発端かも知れない。それはすべてを生成している
のかもしれない「宇宙」とは何か、壮大な問いかけにも
通じるのではないか。
飛躍するが、「思いは実現する」というこの世の仕組みの
その「思い」はネガティブなそれであれ、
希望に満ちているものであれ、
表面意識におけるそれではなく、潜在意識と更に
その先の深層意識に到達した場合の思いである。
フロイト、ユングが近代において把握した潜在意識や
深層意識を仏教はとっくに知っていてそれが
「阿頼耶識」というものではあるまいか。
この世の実存を探るときのキーワードが
阿頼耶識なのではないのだろうか。
思えば叶う、念ずれば花開く、は深層意識領域内の
ことなのであるが、しかし表面意識でそれを
コントロールするのは難儀である。
トラウマによって正常の水位にはない
潜在意識(深層意識)は、表面意識では思ってもいない
ネガティブな歪んだ「願望」を更に強く刻印していて、
それが思いがけない現実を引き寄せてしまうのだという
考え方。
となれば、人生を望ましいものに再編成するには
潜在/深層意識を浄化する必要があり、そこから
精神世界の技術が必要となり、修行法も
派生するのかもしれない。
表面意識で幸せな結婚を望んでいるのに、実際は
めぐりあう男のすべてが、自分を不幸にするタイプで
あるという世の中に珍しくはない例も、実現間際で
挫折してしまうパターンも実は
潜在/深層意識で自己処罰としての願望の実現ではないか、
と考える一派がいる。
幼少期の親との関係で、不幸であると自己肯定感が
持てず、孤独や不幸を自ら招き寄せてしまう・・・・。
学びが半端なので、私にとっては仮説なのであるが。
私の神秘学の著書を送ってくれた友は、一生を
その分野の追求に捧げたらしいので、今度
40年ぶりに会ったら、そのことを教えて欲しいと
思っている。
私は潜在意識と深層意識の区別もわからぬまま、あるいは
同じなのかも知らぬまま、深層意識は潜在意識の
更に奥底にあるもの、と勝手に区分けしているだけのことであり、
それも、今後追求してみたい。
大学入試では第二志望として心理学科を選んだほどで、
第一志望が合格したので、心理学を学ばずに終わったが
関心のある分野であることは、今も変わりがない。
ものを書くことを選んだのは、畢竟人の心を
探ることに興味があるからだろう。
テレビをつけっぱなしにする悪癖から、話が飛躍したが、
眠りについて表面意識が薄れ、潜在意識の領域に
なった時、音声としてテレビから刻印される情報には
注意をしたほうがいいのかもしれない。
テレビで発信される情報はネガティブなもののほうが多い。
目覚めた時接するテレビでも、朝な夕な繰り返し
伝達されるそれは潜在位意識にもいずれ到達しそうで、
理性による分別が必要なのかもしれない。思考を
望まぬ方向へ拉致されかねない。おのれ主体での
思考、感性と思い込んでいるそれも実は
マスコミや、親や学校、親しい友人たちの
思念に誘導された結果かもしれない。
人が生きる目的の一つが「自分とは何か」という
ことを知る過程だと思うが、そこに到達するまでの
道のりが人生なのではないか。仮に
目的地にたどり着かずに果てた、としても、だ。
誤変換他、その他の遺漏がもしあれば後ほど。
久しぶりに思わず聴きたくなって聴いてしまいました。
そういえば内田裕也氏が昨日ご逝去されたそうです。
内田さんは決して覚えていなかっただろうけど私のドジな青春の記憶の1頁になぜか鮮明に残る因縁の人でした。
何があってもやはり最後は奥様が心の拠り所だったのでしょうか。
あの時の「シェキナベイビー」へのレスポンスを。
R.I.P
安らかにお眠りください。
先生は長生きなさるのですから!