井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

本物とまがい物は、品位の有無ではないか

2018年08月16日 | 映画

岩下志麻さんに「五瓣の椿」の感想をメールでお送りしたら
折返しお返事が来て、その中に「ボクらの時代」で高嶋政宏くんと
一緒だったとあったので、調べてみたのだが放送済みだった。

「五瓣」の岩下さんを拝見していたら、未見の「はなれ瞽女おりん」を
見たくなり、これはつらい映画だったが監督スタッフ役者を含め
一流であった。

岩下さんのメールアドレスの一部は「shimachan」で素顔は
そんな感じ。
胃下垂なら胃は下志麻、暇持て余してたら岩下ひま、と
私のくだらないダジャレにコロコロ笑い転げる方である。

「はなれ瞽女おりん」がシビアで辛かったので、気分転換に
気になっていたルキノ・ビスコンティ監督「ルートヴィヒ 神々の黄昏」を
見た。

月光王と称されたルートヴィヒ二世は、舞台作品として書きたく
資料を集めてもいたのだが、チャンスを逸したまま
今になった。

ビスコンティは伯爵の称号を持ち、少年期を城で芸術に親しみながら
育ったという経歴で、豪奢を撮ると肌で知った説得力がある。
貧しい育ちの監督に、豊かな階級は撮れない。その逆は
可能である。
貴婦人を演じられる女優は限られるが、パンパンはどの女優も
やれる。下品は演じられるが、品性は無理なのである。

「ルートヴィヒ」に登場する王妃の王冠のただごとならぬきらめきは
本物を使用したと思われる。宝石それ自体が放つ光の強さと、グレードが
画面からも伝わって来るのだ。まがいものは放てない光と
品位。とここまである種の皮肉を二重に
こめて言っているのだが、
伝わらなくても良い。

末尾になったが行方不明の子が無事に見つかってよかった。救出したボンラティアの男性の前では森喜朗氏が餓鬼畜生に見える。我欲まみれの五輪のために、ただそれだけのために健康被害とIT混乱が必須のサマータイムの提言など。

同じ晩年でも一人は後光が差し、一人は煩悩地獄の糞尿にまみれたあさましき姿。

 

誤変換他、後ほど。