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井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

映画における意図的反日と、企まずしての日本貶め

2018年07月06日 | 映画

某党の重鎮の一人である方と小旅行した際、日本における
在日の方たちへの差別という話題になり、その方が挙げたのが、
在日文化人としてしじゅうテレビに出ている人がかつて受けた
酷い差別についてでした。御本人から聞いた、とおっしゃるので
こちらとしては、「それ、本当ですか」とも聞きかねて。

というのは、その差別を受けたという方の日頃の、不当な日本貶め発言と、
そして、祖国韓国への語り口と、日本人へのそれが異なっていることにも
不信感があり。

ということで、気が重いのですが「焼肉ドラゴン」のいじめシーンについて
コメント欄に疑義めくものを頂いたので、いったん発した言葉の
責任上、口をつぐんでいるわけにもいきますまい。

作者の鄭義信さんに偏った日本貶め思想があるわけでなく、「焼肉ドラゴン」と
並んで日本貶めとしてあげつらわれている某映画の監督のように、ふだんから
政権批判をしている人でもないので、一線を画すべきという意見じたいに
変わりはないのですが・・・・在日社会でのみ通用する(日本人から言えばいわゆる自己正当化のための嘘)に無意識にも影響されている箇所については言及しました。

国有地を不法占拠した朝鮮人の人たちのところへ、役所から退去勧告が来るのですが、
彼らはいたって正論を述べるわけですが、その二人組をかなり誇張した戯画化的
ワルモノに描いているのは、映画というフィクションの中では許容範囲でしょう。

踏み込んで述べれば、いじめのシーンに関しては、私もコメント欄に
御意見をくださった方と同じく、違和感を覚えたと率直に今回は
書きます。

日本人が通う私立高校に、在日三世の少年が在籍しているのですが、
その子が日常的ないじめを受けていて、ついには半裸に剥かれ
背中に「キムチ」とマジックで大書され、廊下に放置されるという
シーンです。

後味が悪いのは、その少年が自殺してしまうことです。
日本の社会で生き抜くためには朝鮮学校ではだめだ、日本人と同じ学校に通わせ
学歴を身につけさせなければ、と父親から転校を許されなかった、ということで
少年は行き場もなく、追い詰められてしまう・・・・という描写です。

悩ましいのはこういうことが事実あったのかどうか、解らないことです。
監督自身は、いじめの体験はないそうで、日本人からしたら(え、なんだそりゃ)
という感情も解かるし、しかし当時の朝鮮の方々へのいじめを(あったとしたら)具体的に知らない私としては、口を挟むこともできず。

ただ先に述べたように、私も敗戦から間もない中学校の生徒だったのでまだ通名を用いる人たちが少なく、朝鮮名での生徒が複数いたのです。しかし教師の側からも
生徒の側からも悪しき扱いを見聞きした記憶は皆無、能力のある子は
それなりの敬意で扱われていたし、私自身彼らを特殊な視点で見たことは
一度たりとありません。国籍すら意識はしていませんでした。とこれは私の身辺レポートでしかありません。

余談ですが、まだ私が幼稚園に上る前のことなので敗戦後、ほんの数年後ですが、川をはさんだ対岸が「朝鮮人」という呼称がとりわけの差別の感覚も伴わず用いられ、原始的に敏感な幼児期の感性なので正確だったと思うのですが・・・・そのが火事で炎上、夜だったので大きな炎が漆黒の夜空にはためいて、いまだその光景は目に焼き付いています。飼っている豚も何も死んだ・・・と大人の言葉も覚えています。
幼かったので、そのことの悲惨さまで思いは至らず。

在日三世の少年がいじめられ、自殺してしまうという構図は映画では効果的で、
それで監督が手法として用いたのか、事実をなぞったのか、そこは
解らないのですが、そのことのみあげつらい監督と映画を貶めるのは
ちょっと違う・・・・というのは繰り返しますが鄭義信さんに普段から
声高の日本批判はなく、映画では在日側の非もそれなりに
描いていること、90分から120分という
映画的時間制約の中で、日韓問題を論文よろしく俯瞰で描くことは不可能だし、
また映画としては邪道です。プロパガンダを目的とした映画でない限り。
プロパガンダ映画にはものを言いやすいのです。
たとえば捏造慰安婦を主役に据えた、明らかな政治的映画「鬼哭」や
ありもしない朝鮮人虐待を描いた「軍艦島」など。

「君を忘れない」という映画では、タクシーが青年をはね、その青年が
韓国人であることを知ると、乗客もタクシー運転手も「なんだ、朝鮮人か」
放っておけ、と路上にうずくまった青年を放置して走り去るのです。
このシーンを見た私は怒りに震えました。こんな日本人、いません。
ごく特殊な差別主義者が皆無とは言いませんが、映画は乗客のみならず
運転手まで同調、あたかも総ての日本人がこうである、という意図的描き方
だったので。
しかもこの映画に文化庁からお金が出ていることを知って、更に
怒りが増幅したのでした。日本人をここまで歪曲、侮辱した映画に
お金を出す日本のひずみ。敗戦後営々と構築されてきた体制の縮図を
眼前に突きつけられた思いだったのです。

何か、気が重いのでいわゆる「(広義の)戦後Regime」にはこれ以上踏み込みませんが・・・・

映画は自殺する少年の語りで綴られます。ナレーションをやっている人物が
死ぬとは思っていないので、その死はより唐突な衝撃となって観客に
伝わる手法。実は昔、同じ手法を私はNHKで流し世界のあちこち、国内でも
複数賞を頂いた「みちしるべ」という作品で試みていて、鄭義信さんの
作家としての手法の内側の一端が垣間見え、興深かったのですが・・・・
ただ鄭義信さんの半端ないところは、少年が死してもなおナレーション役を
務めさせことです。

気が重いので敢えて余談にまた走りますが、「焼肉ドラゴン」で一家の主とその妻を
演じるキム・サンホとイ・ジョンウンが至芸です。
なかんずく、キム・サンホの無口な人物像。それが感情を爆発させた時のたどたどしい
日本語の芝居の上手さに惚れました。見事の一語。造形的に美しい人ではないのですが、その顔にさえ見惚れたのです、いい顔してるなぁ、と。

お母さん役のイ・ジョンウンは韓国人特有の(日本人からすれば)過剰なほどの感情
表現、情念の濃い仕草の大きな芝居。力強いです。

登場人物の一人に、コン・ユを呼べたら面白かったのになあ、とふと。彼の本物の芝居を見たい私としては。韓国から渡って来たばかりの、日本語がたどたどしい、いかがわしい男、でも憎めない、が登場するのですが、コン・ユの汚れ役で私は見たかった。
この俳優さんも秀逸でしたが。概して、日本人の役者さんたちより、韓国人俳優が
よかった・・・・・というより、たちこめる何かが韓国の方と日本人では違うのですよ・・・・。日本人が韓国人を演じて、しかも本来の関西弁使いでない人たちが関西弁のせりふだし・・・・。日本勢も決して悪くはなく、拍手は惜しまないのですが、うーん、韓国人の役者ならおそらく、もっと作品にもっと本来の熱気がこもり肉厚になっていただろうという思いは正直なところ。激情のシーンでも、どこか日本人的に淡白なのです。
これは本当にもう、画然たる民族性の違い。
商業的見地から、日本人役者の起用が必要だったのか・・・・それは解りません。

日本人が時に持て余す、韓国の人たちの情念の濃さが、芝居や歌の世界では
よいほうに出るようです。

誤変換他、後ほど


映画における政治的プロパガンダについて

2018年07月05日 | 映画

村川絵梨ちゃんが出演するという、それだけのご縁で見たのが鄭義信さんの舞台で、
これがが完璧な出来栄えであることに驚き、続いて今度は、南果歩さん主演の
舞台を拝見。これも見事。

ところが、鄭義信さんの作品群の中で、最も世評の高い「焼き肉ドラゴン」を
見る機会がなく、再演を心待ちにしていたら映画になった、というので
出かけたのが、今日。
降りみ降らずみの雨と、強い風に傘を奪われそうになりながら。

端的な感想は、「鄭さんは舞台の人」だということです。
映画自体がつまらないわけではないのですが、これが役者の息遣いが
直接伝わる舞台なら数倍素敵だったろうと、無意識にスクリーンを
舞台に転化しつつ見ていたりもしたのですが・・・・
もともと舞台の生理で書かれたものを、スクリーンにすんなり移植することじたい
かなり困難なことではあります。世界でも、舞台から映画への脚色で
上手くいったものはレアで・・・・私の知る限り「Boys In The Band」(邦題 真夜中のパーティ)ぐらいしか今は思いつきません。まだあるとは、思うのですが。
テネシー・ウィリアムズも人気のプレイライトだったので、複数映画化
されていますが、映像化の必然性を感じたのは「Suddnly Last Summer」(去年の夏、突然に)
だったでしょうか。

鄭さんは国籍を韓国に置く在日三世の作家であり、在日社会を舞台では描き続けていて、映画は
脚本と共に監督も手がけています。

両親役を演じた(韓国の俳優さんだと思います)お二人が秀逸でした。とりわけ
無口なお父さんの表情の多弁なこと。

なんでも、この映画が日本人貶めではないかとネットの一角で問題に
なっているそうですが・・・・

舞台作品を3作、映画を1作見た者の感想でいうと、鄭さんに意図した反日は
ありません。
舞台は特にそうでしたが、ご自身の体験したと思しき、熱い坩堝のような在日社会を
リアルに描いているだけのことで、そうすれば当然日本人から受けた差別やら、
いじめも現れるのですが、それは単にそういうことがあった、という情報に
過ぎず、それらを用いて鄭さんが意図的に反日プロパガンダを行っている
わけではありません。
鄭さん自身が本国から棄てられた「棄民」であるとの自覚もお持ちで、
よくあるように、一方的被害者の立ち位置で「日本を糾弾」するわけでもありません。

ただ、そうと理解はしていても映画には、日本人である私の耳に逆らうセリフも
皆無だったわけではありません。

たとえば、お父さんが片腕を失ったのは日本に無理やり戦場に連れて行かれ、と
なっているのですが、いわゆる戦時徴用は戦争末期の短期間であり、
日本人であった人たちに先行して赤紙が来ていたのであり、主に戦地に赴いていたのは
元々の日本人たちです。
それに日韓併合で、当時の彼らは日本人だったので何か受け身の犠牲者的に
描かれても、そこはちょっと違うかな、と感じるところです。
ただ、映画の中の人物の心情として叫ばれるので、それはとてもよく
解ります。


しかしながら、あの当時の日本軍の兵隊募集に群がっていたのは、朝鮮の男たちです。
競争率が数倍という状況で、日本が無理やり兵隊にした、というのは
もし事実ならレアケースだったかもしれません。
日本軍の兵隊になりたくて、血書まで送りつけたのが朴槿恵大統領の父上である
朴正煕・元大統領です。

あと、祖国に帰るに帰れなかった、というセリフが出てきますが、
帰れないということはありません。戦時中は「君が代丸」という
韓国を日本を結ぶ船があったし、戦後戦時徴用で日本に来た朝鮮の
人たちのうち、自らの意志で日本にとどまったのは、245人・・・・だったか、
とにかくわずかであり、無理やり引日本に引っ張って来られた、という
朝鮮の人々が、245名を遥かにオーバーして存在していたことは
奇妙です。つまり「強制連行」の嘘です。

映画の中の登場人物が「主観」で語ることなので、作品評として
セリフの内容を批判するのは筋違いですが、しかし現実とは
違うという意見は、映画評とは別に出し続けるべきでしょう。

とはいえ、映画では「焼き肉ドラゴン」という店ほか在日の人たちが
ひしめくエリアは日本の国有地であり、そこを不法占拠している、と
率直に語ります。

また、自国における済州島での大虐殺が原因で、帰るに帰れなかった、いわゆる
政治難民であった、という事実も映画は避けません。強制連行などではなく、
実体は済州島から逃げてきた人たちを日本が救い、いさせてあげ続けている、
というのが事実ですが、映画はそこも嘘はついていません。

ただ「祖国に帰っても、言葉も喋れない、仕事もない」と
言われても・・・・とは思います。それは日本のせいではないのだし。
帰るに帰れない、と自己都合のそれを正当化するための嘘が「強制連行」です。

帰ったところで「パンチョッパリ」半日本人として罵られ、差別される
現実も祖国にはあるわけです。

映画では北朝鮮に帰るカップルが描かれ、それっきりでその後の消息は
観客も知らないのですが、胸がつぶれる思いをしました。

 

この映画を、どこかで賞を貰った安倍内閣批判で、日本の貧困をあり得ないデフォルメで
汚く描いた、という悪評を保守からは唾棄されている映画と並べる人たちが
いて私は内容を知らないのですが、「焼肉ドラゴン」はかなり公平な視点で描かれています。

映画の私立中学におけるいじめについては、私は現場にいたことがないのであり得ただろう、と
は思いますが、私が通った中学には「金」という姓がわりにいて、しかし差別を
目撃したことはなく、それどころか足の速いキム少年は、学校の
ヒーローでした。これもまた、一つのレポートだと受け止めて頂けたら
幸いです。

いじめがあったとしても、一方に朝鮮の学生たちに拠る日本人への暴力沙汰が
あったので映画は映画として見ても、現実にあったことなかったことは我々
日本人がきちんと発信していかねばなりません。

文中の「降りみ降らずみ」は、降ったりやんだり、という意味です。

 

誤変換他、後ほど。

 


Le parole di Mann Izawa al Teatro Sistina di Roma

2018年07月01日 | 映画

昨夜は、甥っ子の一家・・・甥とその嫁と、その娘、生まれてまだ半年の長男と会食でした。
赤ん坊を時々寝かせるため、畳の個室を取ったのですが全然眠らず、元気でした。
いつも機嫌のいい子で、泣きません。なんだかにこにこしています。
姉からうつされたという風邪の咳を少し残していましたが。
三田佳子さんにこういう話をすると、「なんだか、ほっとするわ」とおっしゃるのですが、よほど私に生活臭がないのでしょう。同じようなことを、他の人にも言われたことがあります。

「君の名前で僕を呼んで」は、英語バージョンで2度見たものの、まだ隔靴掻痒のところがあり、原作でチェックしてみたり、情報収集してみたりしているのですが、若い研究者役のアーミー・ハマーに感心して略歴を読んでいたら、「白雪姫と鏡の女王 Mirror Mirror」の王子役で出演していたとのこと。

え・・・とチェックしてみたら、確かに出ています。
しかし、全く記憶に残っていなかったのです。
顔は当然のことながら同じなのですが・・・・芯のないファンタジーなので、役の性根がなく、心に食い入る芝居のしどころもなかったせいでしょう。

といっても「白雪姫と鏡の女王」はそのジャンルの作品では上出来の方で、面白かったしアーミー・ハマーも与えられた役どころは、完璧に演じてはいます。
ただ・・・・人間を深く描くたぐいの映画ではないので、演技もある種の上滑りで巧みに動くパペットを見ている按配で・・・(やりようがないのです)。
私は役者をビジュアルのみで楽しめるではないので・・・・そういえば、きれいな男だったなあ、という極めて希薄な印象で顔立ちすら忘れていたのでした。
美貌は見ていて楽しいけれど、それだけではどうにも。
「君の名前で」のアーミー・ハマーは深く心にとどまり、ずっと忘れないでしょう。

 

ローマ情報はもう食傷気味かもしれませんが、半分は自分の記録のためなので、ご寛恕を。

 

 

Le parole di Mann Izawa al Teatro Sistina di Roma

カーテンコールの後、舞台に上げられて挨拶させられた時の動画を、イタリアのファンの方がアップしてくださっていたので・・・・。

夜8時まで明るいイタリアの劇場の開演は遅く、役者さんたちの熱演のせいかかなり時間が押していて、楽屋を訪れ外に出た時はもう午前0時を回っていたのです。
プロデューサーのClaudio氏が、私のスピーチが長いのを気にしていたのを動画で初めて知りました。(というほど、実際は長くもなかったのだけれど、劇場を契約時間外まで使っているとと余計な出費なのかしら?)
英語でのスピーチを覚悟していたのですが、あちらで通訳さんを用意してくださってました。

「私は古いタイプの日本人で、人前で感情表現をするのが得意ではありません」というくだりの、「古いタイプの日本人」がカットされていますが・・・・

まあなんだか、とにかく英語でなくてよかった。最後はGrazieもちゃんと言ったのですが、そこもカットされてます。

出演の子供たち、大丈夫なのかと心配したのですが、零時近くまで。
客席にもいました。またセクシュアル
なシーンもあるのに、とはらはらしたのですが
イタリアの親御さんたちは、気にもとめてないようでした。

 

誤変換他、後ほど。

 


90歳への道しるべ

2018年06月29日 | 映画

余り皆さんの興味はそそらなさそうな「君の名前で僕を呼んで」なのですが・・・
うっかり字幕なしのDVDを注文した怪我の功名で、2度観たのですが、
最初は英語のダイアローグを追うのに精一杯、しかし
2度目は原作で隙間を埋めたこともあり、細部の描写に気がついて
いよいよ、これは秀作だ、という思いを深くしたのでした。

宣伝文句に煽られてアメリカで大ヒットというのを、無邪気に信じ込んで
いたのですが、4月にはもう日本で封切られていて、それでも
私の耳に届かなかったのは、興行的にはさほどのことでも
なかったのかもしれません。観た作品やドラマのことを書くと
その作品を好きな人のコメントが来るのですが、今回は反応がゼロなところを
見ても。

と思えば、むしろ納得で・・・・テレビもそうですが、映画はとりわけ
質と量が一致しないことのほうが多いのです。多いというより、ほぼそうかも
しれません。いわゆる世界的大ヒット作で、質の高い作品に遭遇した
ことがありません。映画のほうが観客を選ぶたぐいの作品は、よくて
手堅い集客、普通は承知で単館上映などに腰を据えて創ります。

昨年度だったか? なんだかダンスする映画と、地味な「ムーンライト」が
アカデミー賞を競い合い、結局地味な「ムーンライト」が授賞したのだった、と
思いますが、観客を膨大に集めたのは男女がなんだか踊っている、
退屈もしないけど、さして深くもないダンス映画のほうでした。
映画もドラマも、無論好き嫌いで観ていいので、質がどうのというのは
気難しく映画にアートを求め、言いたい人間が言えばいいので。

それにしても、プロの訳の分かった人たちが「ムーンライト」に賞を
与え、「君の名前で僕を呼んで」は現時点で、各国の賞に
308もノミネートされ、授賞が92という目覚しさ。
創り手としては、人気の度合いはむろん嬉しいことだけれど、
創る者になってよかった、と心の底から思えるのは質で
評価されることです。

それにしても、嬉しい驚きが完璧に近い脚本を書いた
ジェームズ・アイヴォリーが、現在90歳ということです。

というのも、不肖わたくしが90歳まで実は書き抜こうと
思っているからです。なんだか、たまに作動する霊感で
自分の寿命を知っているのですが、長いのですよ。

まだ多少の時間はあるので、修行は出来るしいずれは
得心できる作品を書き上げることができるか、と
砂漠で蜃気楼を追うような日々です。

ジェームズ・アイヴォリーという90歳(書いていた時点はたぶん
89歳)が、あんな精緻なそしてみずみずしい感性のホンを
書いたということが、わたくしには道しるべです。

余談ですが、小説版の中で「エスパドリーユ」という単語があり
前後の脈絡から、おそらくぺったんこ靴だと
踏んだのですが、調べたらやはりそうでした。女性なら知っている
単語なのかもしれません。

若い研究者役のアーミー・ハマーが素敵に履きこなしていて、こういう
靴は、アキレス腱がシャープな人にしか似合わず、しかもアーミーは短パンで、
これも足がまっすぐで長い男にしかそぐわず、日本人には無理・・・
と思い込んでいたら、昨夜観た北野武監督の「ソナチネ」に、若いヤクザ役で
出ていた勝村政信さんが、足がまっすぐで結構似合っていて、靴がエスパドリーユで
あったかどうか、記憶にないのですが。ふーん、日本人にもいるんだ・・・・と
思ったのですが・・・・しかし、「君の名前でーーー」の後に虚無的な
北野バイオレンス映画を観ると、脳が撹拌されました。

奥山和由さん制作の自信作だ、とご本人がおっしゃったのですが、
「RAMPO」や「女殺し油の地獄」のような耽美的な映画をプロデユースなさったかと
思えば、無造作に人を殺す「ソナチネ」を送り出し・・・・面白い人だなあ、と
まだお付き合いのとば口ではありますが、興味の尽きない方です。

プロデューサーという職域に目配りが効くようになったのは、最近です。
書くのに精一杯で、直接接触することの多い演出家は身近なのでしたが。
この間のローマで、花火をぶち上げてくれたClaudioといい、奥山さんといい
優れたプロデューサーは、その言葉の最もいい意味に於いて腕利きの
「山師」です。

奥山さんは、くださったSMSで「RAMPO」について、「あの当時の確信犯的な『遊び』です」と書いてありました。
「所詮、映画、されど映画。出来ればなるべく危ない遊びをしたいと思ってます」

秋に封切りされる「熱狂宣言」に関しては「な~んにもものを考えない、現代の大衆に不埒な遊び相手を与える映画にしようと考えました」

 

遊びをせむとや生まれけむ  梁塵秘抄

 https://www.nekkyo-sengen-movie.com/

誤変換他、後ほど。

 

 


「君の名前で僕を呼んで」

2018年06月28日 | 映画

「日の名残り」の脚本家がアカデミー賞で脚色賞を得、
俳優他さまざまな賞を得たりノミネートされていて、
アメリカで大ヒットとか。(2018.4.10現在92受賞308ノミネート)
それに加え北イタリアの田舎と、この間訪れたばかりの
ローマが舞台だということで、何気なくAmazonから
取り寄せた映画が「Call me by your name」(君の名前で僕を呼んで)でした。

取り寄せたはいいが、字幕が広東語の選択があるのに
日本語字幕はなし。
イタリア語になったときだけ、英語の字幕が出る、という
難儀な見方をしたのですが、内容は解りました。

幸い、原作小説の翻訳版を合わせて求めていたので、
観終わった後、ついていけなかった箇所を小説版で
補強したのでした。それでも、ネットにある専門サイトで
予告編を観ただけで、とりこぼしたセリフがあります。

http://cmbyn-movie.jp/

 

4月27日(金)公開『君の名前で僕を呼んで』日本版本予告

 

以下、少し内容に触れるので観ようと思う人は
読まぬほうがよいと思うけれど。

1983年、北イタリアの果樹園に囲まれたヴィラで大学教授の父を持つ17歳の
少年は、
ガールフレンドもいて、それなりの経験を持つそういう意味では
普通の少年なのですが、その夏ヴィラを訪れたアメリカの
若い研究者の男に強く惹かれてしまうのです。

男は少年を冷たく避けながら、その実彼もひと目見たときから
少年に恋しているのですが、その感情に正直に
向かい合えず、二人の仲はぎくしゃくとします。

そして結ばれる・・・・という話の運びなのですが、
アメリカに戻った男から電話で、結婚すると聞き、
祝意を伝える少年なのですが、電話を切った後、
暖炉の前で泣く。ひと夏の終わりです。セリフもないまま、延々と少年の
さまざまな感情が交差する表情をカメラは映します。延々と。
そして画面から少年の姿が消えてからなお、暖炉の薪の爆ぜる音が
残っている。というごとき余韻の残る結びでした。
映画のこういう終わり方を観るのは初めてかもしれません。
集中度の低い、画面の小さなテレビでは使えない手法です。
(後述 調べたら少年の表情だけを移し続けるラストは3分30秒だそう。
それでも、飽きないのです)

「日の名残り」のベテラン脚本家ジェームズ・アイヴォリー(90歳)の
脚本ですが、原作の
末尾はごそっとカットして、しかし小説で描いた世界を
映像としてみずみずしく繊細に再現していて、鮮やかでした。

英国アカデミー賞 脚色賞および 第90回アカデミー賞 脚色賞 を初受賞、全米脚本家組合賞脚色賞、放送映画批評家協会賞脚色賞、サンフランシスコ映画批評家協会脚色賞、シカゴ映画批評家協会脚色賞、フロリダ映画批評家協会脚色賞、オースティン映画批評家協会脚色賞

小説はシノプシスにすれば、原稿用紙2枚もあれば
足る態度の展開なのですが、少年の繊細な心理を
呆れるくらい細やかに描写して、これは白人作家の
いい意味における執拗さで、学びたい点です。分野は
全く異なりますが、スティーブン・キングの、これでもか
と細部を描き尽くす作風を連想したのでした。

なぜ、男があれほど強く少年に恋しながら、間を置かず女性と結婚するのか、そこに疑問が残りましたが、おそらく彼は常識のほうを
選んだのだろうし、あるいはヘイターの父親を恐れたのかもしれないし、
またひと夏つかの間の恋が、永遠に続くものではないことを知っていたのかもしれません。

少年の両親は、少年と青年の恋に気づきながら
無言で見守っています。

父親のせりふが、原作でも映像でも図抜けて優れていました。

「炎があるなら吹き消すな。乱暴に扱うな」

「放っておけば自然に治るものを、もっと早く治すために心の一部を
むしり取ってしまえば、三十歳になる頃には心が空っぽになり、新しい相手と
関係を始めようとしても相手に与えられるものが何もないことになる」

「建前と本音。その中間にも多くの生き方がある。しかし本当の人生は
ひとつしかない。気がつけば心はくたびれ果て、体はいずれ誰も見てくれない」

(オークラ出版 マグノリアブックス アンドレ・アシマン著 高岡薫・訳)

示唆に富んだ言葉がもっと長くあるのですが、脚本家もやはりこの部分に
感応して、父親に延々と長台詞を言わせています。

 

『君の名前で僕を呼んで』インタビュー特別映像

 

映画への疑問はもう一つ、なぜ男性同士なのか、男女ではないのか、と
いうことでした。しかしながら、愛の本質を描くには世間一般の
誰もが受け入れる関係ではなく、一種の極限に二人を置くことを
作家は選んだのでしょう。

少年と青年がユダヤ人同士であるということが
キーだと思うのですが、ここは日本人である私には
実感では分かりづらい部分です。全く解らぬというほどではないのですが、
想像の域内です。同じ国内にいて「異邦人である」という民族意識を
日本人は持たず、おおむね周囲は同胞です。

映画に現れるローマが、旅行嫌いの私が当初はあれほどうんざりしていたローマが、
今は恋しく勝手なものです。美しい街です。
イタリア人の美意識は天性なのでしょう、田舎の建物の
一つ一つさえアートなのです。風雪に漆喰が剥げ落ち、レンガが露わになった
塀さえあたかも絵画。

日本の美意識は特有で卓越しているところもあるのですが、こと建物と
町並みに関しては美のかけらとてなく殺風景です。

イタリアの田舎で数日間を過ごすことは積年の夢ですが、
映画を観て、なおさらその思いが募りました。

ローマのホテルに日替わりで置かれるタオル地のスリッパです。
デザインがいいので、鞄に放り込んで来ました。

 

誤変換、他の地ほど。