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井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

甲子園「君の名は」

2018年08月22日 | 映画

いわゆるキラキラネームは、少女漫画先駆けで
今からたぶん20年くらい前からふしぎな名前が
席巻していた。

視聴者が記憶しやすいこともあり、私も現実にはない
凝った名前を使っていた時期がある。

少女漫画の描き手は時代の風に敏感なのだろう。
彼女たちが使っていた現実離れした名前が、もはや普通に定着
したのだなあ、と思わせたのが高校野球選手たちの
名前。

金足農業が、天空、大夢、輝星、朝陽、璃玖。

大阪桐蔭が、仁斗、斗舞。 

命名する親は野球選手に関する限り、大阪より秋田県が今っぽいのかもしれない。

しかし、凝りすぎるとルビを振らねばならなくなる。
画数の多い漢字は、幼稚園から覚えるのは無理だろう。
漢字じたいの複雑なのは脳の鍛錬になるので、どうということはないけれど。

特攻隊員と重ねて見るのは不適切なのかもしれないが、彼らの
現実世界への失望や馴れ合い、あきらめをまだ知らぬ一本気な情熱に
特攻隊員の少年たちの顔が重なって、ふとせつなく
なりもした。

若さはまばゆいほどに美しく、そして涙ぐましい。

 

誤変換他、後ほど。

 

 


本物とまがい物は、品位の有無ではないか

2018年08月16日 | 映画

岩下志麻さんに「五瓣の椿」の感想をメールでお送りしたら
折返しお返事が来て、その中に「ボクらの時代」で高嶋政宏くんと
一緒だったとあったので、調べてみたのだが放送済みだった。

「五瓣」の岩下さんを拝見していたら、未見の「はなれ瞽女おりん」を
見たくなり、これはつらい映画だったが監督スタッフ役者を含め
一流であった。

岩下さんのメールアドレスの一部は「shimachan」で素顔は
そんな感じ。
胃下垂なら胃は下志麻、暇持て余してたら岩下ひま、と
私のくだらないダジャレにコロコロ笑い転げる方である。

「はなれ瞽女おりん」がシビアで辛かったので、気分転換に
気になっていたルキノ・ビスコンティ監督「ルートヴィヒ 神々の黄昏」を
見た。

月光王と称されたルートヴィヒ二世は、舞台作品として書きたく
資料を集めてもいたのだが、チャンスを逸したまま
今になった。

ビスコンティは伯爵の称号を持ち、少年期を城で芸術に親しみながら
育ったという経歴で、豪奢を撮ると肌で知った説得力がある。
貧しい育ちの監督に、豊かな階級は撮れない。その逆は
可能である。
貴婦人を演じられる女優は限られるが、パンパンはどの女優も
やれる。下品は演じられるが、品性は無理なのである。

「ルートヴィヒ」に登場する王妃の王冠のただごとならぬきらめきは
本物を使用したと思われる。宝石それ自体が放つ光の強さと、グレードが
画面からも伝わって来るのだ。まがいものは放てない光と
品位。とここまである種の皮肉を二重に
こめて言っているのだが、
伝わらなくても良い。

末尾になったが行方不明の子が無事に見つかってよかった。救出したボンラティアの男性の前では森喜朗氏が餓鬼畜生に見える。我欲まみれの五輪のために、ただそれだけのために健康被害とIT混乱が必須のサマータイムの提言など。

同じ晩年でも一人は後光が差し、一人は煩悩地獄の糞尿にまみれたあさましき姿。

 

誤変換他、後ほど。

 


昔の映画に浸っています

2018年08月13日 | 映画

野村芳太郎監督、松本清張原作の「張込み」に続いて、木下恵介監督の「香華」(有吉佐和子原作)を見た。

いずれも、見事。

「香華」は3時間の長尺で臆したが、全編と後編の間に
ちょっと休憩しただけで、全く飽きなかった。
唸るほどにも、深く巧みである。

「張込み」を私は14歳ぐらいの時に見たのだが、劇中の男女の機微を正確に理解していたので、早熟といおうか物書きとしての資質は多少あったのかもしれない。
現在の目で見れば、14歳の時よりはいくらか見方が深くなった部分はあるが
14歳の私が映画から受け取ったものと大差があるわけではない。

高峰秀子さん演じる主婦の、前半はアップを撮らず張込みの刑事たちの視線で見て、愛人だった男と再会した時から、顔と表情の細部にカメラは寄っていく、というごとき「手法」は、子供の時にはさすがに気が付かなかった。
この職業を得ていなければ、大人になっても見逃していたかもしれない。

それにしても、半世紀前の日本映画を続けざまに見て愕然とするのは
昨今の映画、テレビの幼児化。成熟した大人の不在である。

未成熟文化に成り果てた原因はハリウッド映画の隆盛にも一因が
あるのかもしれぬ。

ヨーロッパ映画がハリウッドに駆逐され映画館から消えるに連れ、ハリウッド式の
儲け第一主義跋扈で、観客ターゲットの知性も感性も低い層に向けての制作に堕していったのかもしれない。大ヒットないしヒットは間口をとてつもなく広く設定しないとあり得ない。

日本映画で国際的賞を受ける作品もあるが、妙な政治メッセージに
辟易とするばかり。以前の受賞作に政治の妙な臭いはない。

アカデミー賞の授賞式におけるスターたちの政治発言にも
辟易とさせられる。私が出席させてもらっていた頃、
映画に政治を持ち込む風潮は皆無だった。
政治色のある作品を一概に否定はしない。ただしアートとして
昇華されていれば。

日本人の知性や感性の幼児化はあるいは、GHQ由来の教育にも
あるのかもしれない。

暮らしの中だけではない、映画やドラマにおける語彙の貧困化を見ても、その思いを
深くする。

日本弱体化を狙ったGHQが行った施策の一つが、日本語の追放であった。
幸いローマ字化の試みは潰えたが、敗戦から年を重ねるごとに
日本語が貧しくなっている。

 

誤変換他、後ほど。


昔の映画

2018年08月12日 | 映画

小津安二郎監督の「彼岸花」を見た。
正直なところ、シナリオが珍しく完成形には達していず冗長。
これほどの名匠でも脚本が至らぬと、ここまでか、と
いうのが感想である。

それと、美意識の高い監督なのに一家のテーブルに置いてある
花の生け方の乱雑さと種類の貧相さに一驚。花には視線が行く
監督ではなかったのかもしれない。こんな些末事、昔は
私も気が付かなかった。

面白かったのは佐分利信さんが演じる父親が二等車(当時のグリーン)から
広島の娘に電報を車掌に託すところ。1958年製作なので、当時はそうだったのだろうと時代考証上、参考になった。戦後14年目なのに、戦争の片鱗もなく
裕福な画面なのは、小津調だろう。とりわけ女たちの普段着の着物のコメントは
趣味が良い。

畳に座った視線での、ローアングルに固定したカメラは相変わらず。作品の
品の良さも。それは配役された俳優たちも、品のいい人ばかりが
キャスティングされている。あの当時の役者の品の良さは
なんだろう? 日本が総じて下品になったのか。

登場人物の中、山本富士子さんと笠智衆さん、よもやこの人達と
お会いして言葉を交わしたり、仕事をご一緒するなど
映画の封切り時には夢にも思わなかったことである。

山本さんとは数年前、ある公演の楽屋でお目にかかり驚いたことに
私をご存知でいらした。当時はまだ私がテレビに出ている頃だった。
笠智衆さんとはNHKの単発ドラマでご一緒して、稽古場で
お目にかかり言葉を交わしたことがある。当時は
テレビドラマも、じっくり稽古してから本番に入っていた。
樹木希林さんもそこにいらして、しばらく私的にもお付き合いを頂いた。

「五瓣の椿」(野村芳太郎・監督)を半世紀ぶりぐらいに見た。封切り当時、面白くて
2度続けて見たのだが、シーンの90%程度は忘れていた。
「風前の灯」という木下恵介監督の映画は、これも大昔に一度見たきりで
見直したのがつい最近だが、
妙に記憶が鮮明だった。なぜなのだろう。

「五瓣の椿」の岩下志麻さんは二十歳ぐらいでいらしただろうか。
美しくて芝居も見事。
メールをお出ししようかと思いつつ、まだ書いていない。
暗がりの銀幕に大写しになる岩下さんを拝見したのは
大学生の時であるが、むろんこの方と後年仕事をしたり
私的にもお付き合いが生ずるなど、脳裏をよぎりもしなかった。
漠然と物書きになるのかもしれないと思っていたが、脚本という
形は考えていなかった。

山本富士子さんも、子供の頃から銀幕で拝見していて
この世のものならぬ美貌を、後年間近に拝見することが
あろうなどと、これも思ってはいない。
半世紀前のスターさんは、文字通り映画館の暗がりに
明滅する遠い夜空の星であった。

中学か、高校生の頃であったかロケ先で見かけた三田佳子さんも同じくである。よもやお友達付き合いなど。

誤変換他、後ほど。


人生の無意味を遊びで埋める

2018年07月11日 | 映画

奥山和由さんの秋公開、新作映画「銃」を、御本人から
頂いたDVDで拝見しました。

「ソナチネ」に続く自信作だとおっしゃっていましたが、
モチーフが通底しています。

わたくし流解釈ですが「ソナチネ」は、ある側面から見れば
無意味で空虚な人生を(ある側面から見れば、です)、何とか生き延びるには
「遊び」で
埋めるしかない、ということで登場人物のヤクザたちは
無為の日々を、子供じみた遊びに興じるのですが、
ついに究極の遊びである「殺人」を無表情にやらかし、
そして、自分をもあっさり殺して無意味な人生に自分でピリオッドを
打ちます。

「銃」は、ある日、銃を拾った若者が、その瞬間から
生き生きと人生が脈打ち始めます。
生きているという実感が、死に直結する玩具「銃」を
手にしたとたん、生じるのです。

生きるという意味が解らぬまま生きていることへの、苛立ちの
反動であったのかもしれません。

そして、ついには人を無造作に殺すのですが、
人を殺すということは自分を殺すことという暗喩を底に
秘めているもので(わたくし流解釈)、この主人公も
自らを殺めようとします。

北野武監督の、「たけし」としてのお笑いの裏には
寒々とした虚無が張り付いているような気がしないでも
ないのですが、人の心の奥底は覗けません。

同じく「ソナチネ」と「銃」が自分だとおっしゃる
奥山さん。人生の無為を埋める遊びが奥山さんにとっては映画なのでしょうか。

とはいえ、一方で手放しの人生賛歌である「熱狂宣言」を作る方なので
一筋縄ではいきません。熱狂とて考え方によれば、虚無を埋める
遊びかもしれず。

「ソナチネ」と「銃」をひとくくりにするなら、
私は「RAMPO」「女殺し油の地獄」派なのですが、
「ソナチネ」と「銃」が解らない、ということはありません。
(暴力性をわがものとして裡に秘めている人には、
自己同調して、響き合う作品だと思います)

ある女優さんと話している時、「今、手にピストルを持っていたら
間違いなく撃っていただろうという瞬間がこれまでにあった」
という言葉を鮮烈に覚えていますが、私にその要素はありません。

厭世的なのに、自死を選ばず来たのは自他ともに、命を断つという
行為にリアリティを持てないのです。

ただ、テロリストの心情はある程度わがものとして想像の範疇内にあります。

     天誅とつぶやき仰ぐ冬の月

という駄句をいつぞや詠みましたが、あくまでも心情としての
それであり、実行はしません。
人一人を殺めたところで歴史の大きな流れは変わらぬ、
ということや、殺人は人の道に悖(もと)るというごとき
頭で考えたそれではありません。
妙な言い方かもしれませんが殺人者の資質をそもそも
持ちません。刹那の殺意さえないかと言えば、あると正直に
答えねばなりません。そういう要素が皆無でないから
「拳銃」の世界も、解ります。

陽気に語ってくださる奥山さんの、表情豊かな目を拝見しながら、この方のどこに
「ソナチネ」や「銃」が潜んでいるのか探れないのですが、
言葉の端々にふと垣間見える、やんちゃな喧嘩上等の不良っぽさが
好きです。

三田さんに「奥山さんって、少年がネクタイ締めたような人」と
言ったら、三田さんすかさず「あなたもね」。

はい?

 

誤変換他、後ほど