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井沢満ブログ

後進に伝えたい技術論もないわけではなく、「井沢満の脚本講座」をたまに、後はのんびりよしなしごとを綴って行きます。

映画のはしご 久々

2018年10月12日 | 映画

所用で銀座に出かけた帰り、カップや皿に
ロイヤルコペンハーゲンを使っているので
気に入っている椿屋に立ち寄り、ふと
思い立って、近くのTOHOシネマズに
向かった。

たまたまちょうど始める映画が「プーさん」(正式タイトル失念)
だったので観た。
予告編のときから愛らしく、観てみたいと思っていたのだが、
途中で眠った。目が覚めてから、筋書きを追っているうち
このまま眠っていたいなあ、と思った。残念。
せめて英語の勉強をと、ダイアローグに耳を澄ませた。

そのまま帰ろうかと思ったのだが、口直しにもう一本観ようと
プログラムを見たら、またちょうど始まるのが「クワイエットプレイス」で
これは退屈はしなかったが、口直しまでには至らなかった。

ヴィスコンティの「ベニスに死す」は、配信サイトで見てその完成度に
言葉を失くした。
と言って、この映画が一般にさして評判がいいわけではない。その質の高さに
比して、という意味だが。各国の賞は複数得ているし、封切り同時
話題にもなった。

この映画はとりわけ感受性と知性に優れた人は除くとして
60歳を過ぎないと本質は解らないと思う。
自分がそうだった。封切り時から何十年も経て、やっと
その輝きに気づいた。初見のときは、冗長だと
感じた部分の1シーンごとに必然性と心情が込められていて、
ああ、こういう映画だったのか、とその放つ光芒をようよう感知、
長く生きていて、よかったとこういう時には思う。
凡才は長生きすべし。

トーマス・マン原作のこの映画の大筋論はいずれかの機会に譲るとして、
衣装と花の見事さ。

何という豪奢、美意識。
それぞれ無論専門領域の人がついているのであろうが、
バイセクシャルであったヴィスコンティの繊細な感性が
画面の細部にまで行き渡っている。

初見の時は、悲劇で幕を閉じたかと思い込んでいたのだが、
愛しい妻も子もあった大作曲家が15歳(映画では)の
少年への片恋に最後の命を燃やし、美に準じた、実は至福の物語ではなかったかと

感じ入った。

全編を流れるマーラーの素晴らしさ。

そういえばイタリア話題で思い出したが拙作「ジョージィ」のアニメ版の
衣装を参考に、衣服がデザインされ売り出されるようで面白い
成り行きである。イタリア特有の美的感性でいい衣装が仕立て上がれば
素敵なことだが、ものぐさで人にまかせっきり、詳細は知らない。


遺伝子解析

2018年10月09日 | 映画

遺伝子解析というのを受けて、結果が出ました。

癌体質など解るのか、と申し込んだのですが
たくさん項目があるのに、癌の項目は最初からないようです。
最も知りたかったのはパーキンソン病の因子の有無ですが、
これもなし。

ハプログループというのは・・・・単一の一塩基多型 (SNP) 変異をもつ共通祖先を持つような、よく似たハプロタイプの集団、だそうですが、私の場合は、

 

ハプログループはDグループです。

Dグループは日本人に最も多いグループです。中でも日本ではD4・D5グループが多く、D4グループはさらに分類することが可能で、研究が

 

・・・・・だそうです。

 

後述 ⇒癌に関する項目がなかった、と書いてしまいましたが、
私の見方が粗忽だったので、ちゃんとありました。


思い出

2018年10月07日 | 映画

昨日、歩いていたら東京消防署の消防車のクレーンに幼い子達が
命綱をヘルメットをつけて乗っていてビルの五階ほどの
高さに持ち上げられて、どうやら子供たち向けのサービスらしく
高所恐怖症の私は見上げているだけでゾワゾワしましたが、
子供たちには忘れられなイベントになるでしょう。

奥山和由さんが仕切る今年の京都の映画祭には、三田佳子さんがゲストですが、
三田さん主演の「遠き落日」が上映されるようです。
封切り時に出かけたら同じ招待者席に秋篠宮殿下ご夫妻がいらして
思わぬお会釈を賜ったことがあり、そういう意味でもなつかしい
映画です。

野口英世役の三上博史さんが、背の高い人ではないので、
母親役の三田さんは、老いてから向き合うシーンの時、
三田さんのとっさの機転で、足元に穴を掘ってもらい、そこに立って
三上さんより背を低くした、とうかがったことがあります。

 


疑似家族

2018年09月05日 | 映画

スエーデンのイングマール・ベルイマン監督の「野いちご」を
見ていたら途中で切れてしまったので、ルキノ・ヴィスコンティ監督
「家族の肖像」を見た。

バート・ランカスター演じる老教授が住むローマ郊外にある
豪奢な邸宅から一歩も出ない映画だが、2時間飽きなかった。
屋内撮影に留めたのは、ヴィスコンティ監督の病気によるもので、
移動が最小限の脚本にしたのだそうだ。

教授の家に押し寄せる複雑な人間関係のそれぞれが、いつしか
教授の家族のようになって行く、という昨今多くなった
疑似家族を描いた作品である。

日本で最初に擬似家族を描いたのは、国内外で複数の賞を得た
「青い鳥ぱたぱた?」という私がNHKに書いた単発作品ではなかったかと
思うのだが・・・・(私が知る限りは、であり先行作品があるかもしれない)
ヴィスコンティは私よりかなり早くやっていたわけだ。
巨匠を引き合いに比べるのは傲慢だが、テーマに関しての時系列に
過ぎない。

ヴィスコンティは両性愛bisexualの人で、アラン・ドロンやヘルムート・バーガーと恋人関係にあったと言われている。
「家族の肖像」に出ているヘルムート・バーガーはヴィスコンティ
亡き後「俺はヴィスコンティの未亡人だ」と言った。

わたくしは杉田水脈議員発言に関しては、物を言う気にもなれず口をつぐんで
来たけれど、
ヴィスコンティが子供を作らなかったから「非生産」であったのか、と
それは問うておきたい。いささか品性と教養を欠いてはいらっしゃらないか。
空海の相手も常に男性で子を生してはいぬが、どれほど莫大な精神的
遺産を日本人に遺したか。敢えて実利面を言うなら、ヴィスコンティ監督が
海外からイタリアにどれほどのリラと名誉をもたらしたか。
同性愛者として子を持たなかった空海の存在でどれほどの寺社が潤っているか、
こんなことバカバカしくて書きたくもないけれど、相手の価値基準が
卑しい算盤勘定レベルならやむをえぬ。

杉田議員の文章の、語彙を含めて感性の貧しいこと。
一度、
執筆依頼を受けて書いた「正論」にこちらから申し出て
批判文を書こうかと一瞬思ったくらいに、不快だった。
政治家としての批判ではない、人としての心ない不用意な発言に
対してである。
これを書けば、国内外からどういう批判を受け、敵対勢力から
どう悪用されるか、また傷つく人たちがどれほどいるか、
という想像力もおありではなかったのか。教養とは畢竟、相手の痛みに対して想像力が持てることでもある。

日本国内の保守対アンチという構造を知らぬ海外で杉田議員の発言が流されれば
単に意識の低い差別主義の政治家、という評価であろう。
せっかく、ご自身が国連に乗り込んでの立派な活動へ自ら足引っ張りを
した形でもある。性的レイシストと見なされた人物が慰安婦に対して
何か言ったところで、聞く耳持たれるものか。

論争している双方のレベルの低さ、同じ土俵に上がりたくもなし。


左翼の人々の「手段」としての杉田議員貶めも下品である。与さない。
同時にいわゆる保守の方々の杉田議員擁護も稚拙。擁護による文章美化の度が過ぎる。
文章は文章であり、言葉として提示されたまま受け取られるのは
当たり前のこと。誤解であると言うなら、誤解を与える文章を
書いた者の責任に帰することである。

なぜ男と女、二つの性だけではいけないのでしょうか」というのは、
意見ではない、無知ゆえのヘイトであろう。正確な文章をもし書くなら「性的マイノリティの人々を、なぜ政治的意図で支援せねばならぬのか」であろう。

杉田氏の発言は、万葉の男性間における相聞歌に始まる戦前までの日本文化をも
貶める。相聞歌で解らなければ西鶴でもよい。「男色大鑑」は
無論のこと、「好色一代男」の世之介が相手にしたのは女性
ばかりではない。武田信玄がどうの、と並べ始めると
際限がないので止めておく。愛国保守の鑑、三島由紀夫が
bisexualであったことすらご存じないか。優れた芸術家が
多くは男女両性をその裡に持つ。人々が美的感性に秀でるゲイたちの絵画や音楽、ファッションを含めたアートにより、どれだけ恩恵を受けたか。
それを「非生産」と言い捨てる精神の粗野、下品(げぼん)。

わたくしはいわゆる保守派の非難「一部を抜き取って」揚げ足など、取ってはいぬ、
物書きプロの端くれである。意図的誤読など、してはいない。

かといってLGBTを政争の道具として国会議事堂前に押しかける人々にも辟易、
それゆえわたくしは「どっちも、どっち」と言っている。


杉田議員の慰安婦に対する活動など、その政治的行動に関しては刮目している。
政治家に教養と品性、文化を求めるのが過剰なのか。

人としての佇まいは受け入れがたいが、その政治家としての行動には
今後も期待したい。

保守政治家の中では、大阪維新の足立康史議員のコメントが冷静で
公平、まっとうであろうと思われる。

http://agora-web.jp/archives/2033821.html

 

誤変換他、後ほど。


フィクションと史実とのはざま

2018年09月01日 | 映画

清少納言と紫式部の女の物書きどうしの確執を描きたいと、昔から目論んでいると
述べたことに対しコメント欄に、仕えた相手が異なるのでお互い会うことはないのではないか、という意味のコメントを頂いたのだが(記憶がおぼろになっていて、文言は
定かではない)、むろん清少納言が仕えたのは藤原道隆の娘である定子、
紫式部の主人は藤原道長の娘である彰子であり、「職場」で
二人が顔を合わす可能性のないことは私も承知である。
だが、そこで引き下がる人は物書きにはなれない人なのである。

 

ということを枕に、後進にいささか伝えたいこともあるので営んでいるブログだが、
眼の前の諸事・諸問題にかまけ怠りがちなので、納言と式部を枕に
いささか物書きの楽屋うちをお見せしようかと思い立ったしだい。
やろうと思いつつ億劫さが先に立ち、今日になってしまった。

さて、物書き的感受性の持ち主とそうでない人の発想の差というものがある。
物書きという生来の嘘つきでない人は「史実がこうだから、それはあり得ない」
という発想でとどまる。が、物書きは「史実にない部分にこそ、つけ入る隙が
ある」と考える。

史実にこうと書かれたことは動かしようがないが「書かれていないことは、あり得る」
と物書きという嘘常習犯は考える。

紫式部が、清少納言についてその日記で「嫌な女!」と書き散らしているのは
史実。となれば、それを読んだ清少納言が、紫式部をどこぞで待ち構えていて
「枕草子」から伺える、あの端切れのいい機転の効く言葉を品よく浴びせる
シーンが浮かぶ。

紫式部も、反論の語彙は豊富、何しろ世界最古の長編小説をものした
女だから、うねうねと典雅な物言いでチクリと返す・・・・あるいは
待ち伏せなどという思いもよらぬ出来事に、蒼白になって立ち尽くし、
清少納言に「おーほほほほ」と白鳥麗子並みに高笑いされるか。

しかし、紫式部も一筋縄では行かぬ女、あの手この手で陰湿な仕返しを
した・・・という史実はどこにもないが、なかったという確証も
ないのである。

二人共下級役人の娘、そうそう生まれついてのおっとりした気質ではあるまいし、
その後の陰に陽に繰り広げられた(かもしれない)丁丁発止を想像して、いとをかし・・・
という言い草は違うけれど、視点の角度を変えれば女同士の
心理のぶつかりが、もののあわれと、こじつけられなくもない。

式部と納言、キャラが立って対比的なのも物書き心をくすぐるのである。
二人に加えて、恋のベテラン和泉式部も登場させ愛憎を、三重に
仕組む。

狂言回しに穏やかで慎ましい赤染衛門を出してもいい。物語的
興趣で言えば、実はこの赤染衛門こそが一番、エグい女で
式部の自らへの尊敬を利用、和泉式部と清少納言への悪感情を
焚き付けて、面白がりながら何食わぬ穏やかな常識人の
微笑みで女たち三つ巴の確執の外側にいる、という
構成もある。

何しろ、紫式部の清少納言と和泉式部への悪口といったら、男の
物書きはこうも同業をこきおろさない。

清少納言については、


清少納言こそしたり顔にいみじう侍りける人。
さばかりさかしだち、真名(まな)書きちらして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。
かく、人に異ならむと思ひ好める人は、かならず見劣りし、行く末うたてのみ侍れば、艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見すぐさぬほどに、おのづからさるまじくあだなるさまにも侍るべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ。

 

概略、現代口語訳してみれば、

清少納言って、得意顔でまぁお偉そうな女性なんですわね。
女性には珍しい漢字の書き手ではあるけれど、よく見りゃ
欠点ばっか。(その点、あたくしは・・・・w)
IQが高いふりで漢字を書き散らすけど(あたくしから見たら)
ちょー未熟。
この程度の女がさあ、人より優れてると思い込んでるって
どーなの、かえってみすぼらしいのよねえ。
風流ぶりながら、行く末はきっと寂しいもんだわよ。
どってことないものも、さも感動したふりでさ、その
不誠実さが透けて見えるのよね。こんな女、どーせ晩年は
悲惨よ、悪いけど。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

こうも、悪口垂れるかと思うほど素敵にある意味ビッチ・・・・といおうか
女はいかに上つ方といえど、ビッチ虫の一匹は腹中に飼っているもの。
え、あの方? え、どの方。解らぬ。

紫式部のビッチ筆は、和泉式部にも及ぶ。

 

和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。
されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。
うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉の、
にほひも見え侍るめり。
歌は、いとをかしきこと。
もののおぼえ、歌のことわり、まことの歌よみざまにこそ侍らざめれ、
口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとまるよみ添へ侍り。
それだに、人の詠みたらむ歌難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ、
口にいと歌も詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢには侍るかし。
恥づかしげの歌詠みやとはおぼえ侍らず。

 

超現代語意訳

 

和泉式部ってさあ、チラ見したら結構ツイッターとか
ラインとかの文章が上手いしぃ。
けど、なーんかねえ。
メールなんかの文章は、センスはあるし気がきいてるかもしれないけどぉ。
古文を含めた文章なんか勉強してないしぃ。
(読んでもラノベかせいぜい村上春樹、谷崎・三島・鴎外なんて
読んでないんじゃない?)

感性だけで、さくっと書いたのなんかまあ悪くもないけど。
人の文章の批判するって、どーよ(あたくしなんか、その点・・・
批評はついこのように書いちゃうのだけど)
(赤染衛門さまなどと違って)このあたくしが尊敬できるような
歌の詠み手ではございませんわ。

 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

かなり意訳したがしかし、現代語に直してみると紫式部という人がいかに二人を
こき下ろしていたかが解かるし、言われた清少納言も紫式部の親族だと
思われる人の様子をこき下ろしているし、いや面白い。

だが書かれっぱなしで黙っていた和泉式部の心のうちこそ、暴風雨であったかもしれない。

あたくし、紫式部さんや清少納言さんみたいに人の悪口は書きませんことよ。
書けば、品の悪いレベルにあたくしまで堕ちちゃうから。
でも、ああぐやじい、あたくしが恋愛に恵まれてるからって
まあ、紫式部って言いたい放題、嫉妬かしら、文を書く
才能はあっても、男に恵まれてないしぃ、けどこの恨みいずれ晴らさずにおくべきや。

と、妄想の翼を広げるうち、そうだ光源氏のモデルとなった男が
瞳にほのかな紫を湛えたイエス・キリストの末裔である類まれなる
美青年であったらどうかな、とか。八戸にキリストがたどり着いた、
十字架に架けられたのは弟だったという伝説もあるしなあ。

とこれが作家という名の妄想族の楽屋なのである。

「史実にはないけれど、なかったという証拠もない」箇所がつけ目なのである。

昔電通から頼まれて吉原を舞台の時代小説を書いた時、考証でついてくれた
研究家の女性に、「女郎と貧しい簪職人が手に手を取って吉原の大門から
逃亡させたいのです」と言ったら「あり得ません、史実にもありません」
と、普通ならここで引き下がるが、私はそんなことはしない。物書きだから。
「不可能を可能とした時、フィクションの醍醐味が生まれるんです。
ない、とのっけからおっしゃらず、出来る道を考えてください」

で、それは小説上では可能になったのであった。それが絶対なかったとは
誰にも言えない。山田風太郎さんや夢枕獏さんが、得意な分野。
史実では会ったこともない人間同士が、しかし会ってないと断言できる
史実もない、から山田風太郎ワールドが生まれ、陰陽師がいたことは事実、
そして彼らがあやかしの術をスケール大きく使ってはいなかったという
確証はどこにもないからこその、獏ワールドなのである。

もっとも、紫式部と清少納言は女同士の凄まじい確執の果てに怨霊と
化して十二単で、夜空を飛び狂うのである。
最初は物書きの女(普通より女っぽく素敵に底意地悪く、素敵にいやらしい、
いい人に愛憎は書けぬ)どうしの
あれこれに興味を抱いて考えているうち、
夜空を十二単の裾を
ひるがえして飛び交うそのシーンを私自身が見たくなり
書きたくなった
のであった。松竹のプロデューサーにちらっと構想だけ
話したことがある。あれから、茫々と歳月が飛び去った。

物書きの楽屋裏、こんなふう。

ネタを盗られないうちに、これを証拠として保全しておく。・・・・
といって書くかどうか判らない。平安朝の風俗や衣装、宮廷の
決まりごとなど調べが厄介で・・・・そこらはいかに妄想とはいえ
ゆるがせに出来ぬ部分。空海・最長・泰範も同じ理由で
先延ばししている。何しろ密教の儀式次第から、法具に至るまで
調べの煩瑣なこと。

 

 

誤変換他、後ほど。