「大漁も大漁、あんな大漁は生涯聞いたことも見たこともない」
その量は想像を絶したもので、海面は鰯の体色で変化して一面に泡立ち、
波打ち際も魚鱗のひらめきでふちどられたほどだった。
つまりその40年ぶりの大豊漁は、津波襲来の不吉な前兆である可能性も秘めていたのだ。
事実、その豊漁と平行して、多くの奇妙な現象が沿岸の各地にみられた。
連日、夜になると青白い怪しげな火が沖合いに出現した。
この鰻の発生も、安政3年の津波襲来直前にみられた現象で、
鰻の群れを不吉な前兆としておそれる老人もいた。
また沿岸一帯の漁村では、井戸水に異変が起こっていた。
宮古村では60mの深さをもつすべての井戸の水が、ひとつ残らず濁りはじめた。
その色は白か赤に変色したもので、人々はその現象をいぶかしんでいた。
各所で稀なほどの大干潮がみられ、井戸の水も著しく減少した。
が、少数の老人をのぞいては、ほとんどの人々がその現象を別にいぶかしみもしなかった。
「ドーン、ドーン」とすさまじい轟音が三陸海岸一帯を圧し、
黒々とした波の壁は、さらにせり上がって屹立した峰と化した。
そして、海岸線に近づくと峰の上部の波が割れ、白い泡立ちがたちまちにして下部にひろがっていった。
波は、すさまじい轟きとともに一斉にくずれて村落におそいかかった。
家屋は、たたきつけられて圧壊し、海岸一帯には白く泡立つ海水が渦巻いた。
人々の悲鳴も、津波の轟音にかき消され、やがて海水は沖に向かって干きはじめた。
家屋も人の体も、その水に乗って激しい動きでさらわれていった。
干いた波は、再び沖合いでふくれ上ると、海岸にむかって白い飛沫をまき散らしながら突き進んできた。
そして、圧壊した家屋や辛うじて波からのがれた人々の体を容赦なく沖合へと運び去った。
ジャバ島付近のクラカトウ島火山爆発による大津波につぐ世界史上第二位、
日本最大の津波が三陸海岸を襲ったのだ。
津波の高さは平均10mとも15mともいわれている。
「ヨダ(津波)だ!」
「いや、50mは十分あるでしょう」
押し寄せた津波は、湾の奥に進むにつれてせり上がり、高みへと一気に駈けのぼっていったのだろうか。
50mの高さにまで達したという事実は驚異だった。
死体が、至る所にころがっていた。
引きちぎられた死体、泥土の中に逆さまに上半身を没し両足を突き出している死体、
破壊された家屋の材木や岩石に押しつぶされた死体、そして、波打ち際には、
腹をさらけ出した大魚の群れのように裸身となった死体が一列になって横たわっていた。
所々海岸のくぼみにたまった海水の中には、多くの魚がはねていた。
それを眼にした住民たちは、飢えに眼を血走らせてそれらをとらえるとむさぼり食った。
梅雨期の高い気温と湿度が、急速に死体を腐敗させていった。
死体には蛆が大量発生して蝿が潮風に吹かれながらおびただしく空間を飛び交っていた。
死体は流木の上にひとまとめにのせられ重油をまいて焼かれた。
肉親を探してあてどもなく歩く者が多かった。
精神異常を起こして意味もなく笑う老女や、なにを問いかけても黙りつづける男もいた。
精神的な打撃を受けて記憶を失った者は各町村にあふれていた。
また津波の恐怖で発狂した者も多く、生涯を狂者として過ごした者もいる。
雄勝村
集治監(刑務所)があって、囚人195名が収容されていた。
生き残った囚人はわずか31名。
海岸には、連日のように死体が漂着した。
人肉を好むのか、カゼという魚が死体の皮膚一面に吸い付き、死体を動かすとそれらの魚が一斉にはねた。
また野犬と化した犬が、飢えにかられて夜昼となく死体を食い荒らしまわった。
住民が犬を追い払おうとすると、逆に歯をむき出して飛び掛ってくる。
野犬退治が各所でおこなわれた。
漁船、漁具を失った各漁村では、その後3年間漁業を休止され、貧困の中で呻吟した。
明和8年1771年4月24日、地震津波が石垣島に来襲、
島民17000名のうち、8500名を死者と化した。
津波の高さは85mあったといわれている。
リアス式三陸海岸
北上山脈から触手のようにのびた支脈が半島になって海上に突き出し、
巨大な自然の斧で切断されたような大岸壁が随所に屹立して海と対している。
海岸には山肌がせまり、鋭く入りこんだ湾の奥まった個所に村落がいとなまれている。
そのわずかな浜に軒をつらねる家々は、辛うじて海岸にしがみついているようにみえる。
海は、人々に多くの恵みをあたえてくれると同時に、
人々の生命をおびやかす過酷な試練をも課す。
海は大自然の常として、人間を豊かにする反面、容赦なく死をも強いる。
私が三陸津波について知りたいと思うようになったのは、
その防潮堤の異様な印象に触発されたからであった。
そして、明治29年と昭和8年に津波史上有数な大津波があったことも知るようになった。
明治29年の津波来襲時は、津波の代わりに「海嘯」という言葉が使われ、
カイショウまたはツナミと呼ばれている。
嘯く(うそぶく)という言葉が使用されているのは、津波の押し寄せる折の海の轟を表現しようとしたものなのだ。
「よだ」・・・三陸沿岸特有の「津波」に代る地方語。
「津波じゃねえ、あれはよだのでっけえやつだ」
「よだってのは、地震もなく、海面がふくれ上がって、
のっこ、のっこ、のっこと海水がやって来てよ、
引き潮の時がおっかねえもんだ」
よだという言葉にひびきには、その無気味さがよくにじみ出ているように思う。
~~来襲~~
中央気象台が地震を記録したのは、昭和8年3月3日の午前2時32分14秒であった。
東北地方の三陸沿岸は積雪が大地をおおう厳寒の中にあった。
天候は晴れで、夜空には凍てついたような星が光っていた。
三陸沿岸の住民には、一つの言い伝えがあった。
それは、冬季と晴天の日には津波の来襲がないということであった。
「天候は晴れだし、冬だから津波はこない」
それを信じたほとんどの人は再び眠りの中に落ち込んでいった。
しかし、その頃、海上は急激にその様相を変えていた。
海水は、再び海底を露出させ沖合いで体勢をととのえるように盛り上がると、
第一波より一段とすさまじい速さで海岸へと進んだ。
津波は、3回から6回まで三陸沿岸を襲い、多くの人々が津波に圧殺されひきさらわれた。
その上、厳寒のしかも深夜のことであったので凍死する者も多かった。
「地震があまり激しいので、起きた。
地震は8分も続いた。
地震が終わってから15分程した頃、潮が勢いよく引いてゆくのが見えた。
それとほとんど同時に、ダイナマイトの破裂するような音が沖の方から聞こえてきた。」
大湊港では、駆逐艦「秋風」「太刀風」「帆風」「羽風」の4隻と特務艦「大泊」を急羽。
さらに横須賀鎮守府では「野風」「沼風」「稲妻」「雷」の各駆逐艦に衣服、食料等を満載させて緊急出動させた。
各艦は、最大出力で北進、翌4日午前11時頃には、濛々と黒煙をなびかせながら、
大船渡、釜石、宮古、久慈の各港に姿をみせて投錨した。
また6日早朝には軍艦「厳島」が食料、衣類、毛布等を満載、
釜石に入港後、宮古にも到着して救援物資を配布した。
天皇は、津波襲来の報告を受けるとすぐに待従「大金益次郎」を特使として被災地に派遣した。
精力的に慰問して歩き、また天皇からの御下賜金として死者・行方不明者一名につき、
金7円、負傷者に金3円、罹災世帯に金1円を贈った。
衆議院では議員1名につき10円の寄付金を集めた。
「そのとき配給された陸軍の外套を、津波外套といいましてね」
~~チリ地震津波~~
昭和35年1960年5月21日
気象庁は南米チリの大地震をとらえ、続いて23日午前4時15分、
四度目の地震がきわめて激しい地震であることも観測した。
その地震によって起こった津波が、23日午後8時50分頃にはハワイの海岸に来襲、
60名の死者を出したことも承知していた。
しかし、気象庁では、日本の太平洋沿岸に来襲するとは考えず、津波警報も発令しなかった。
昭和27年11月5日にカムチャッカ沖で発生した津波が遠くチリに4mの波高の津波。
逆にチリ沖で発生した津波はカムチャッカを襲うはずだ。
~~津波との戦い~~
昭和29年の大津波・・・死者26360名
昭和8年の大津波・・・死者2995名
昭和35年のチリ地震津波・・・死者105名
その量は想像を絶したもので、海面は鰯の体色で変化して一面に泡立ち、
波打ち際も魚鱗のひらめきでふちどられたほどだった。
つまりその40年ぶりの大豊漁は、津波襲来の不吉な前兆である可能性も秘めていたのだ。
事実、その豊漁と平行して、多くの奇妙な現象が沿岸の各地にみられた。
連日、夜になると青白い怪しげな火が沖合いに出現した。
この鰻の発生も、安政3年の津波襲来直前にみられた現象で、
鰻の群れを不吉な前兆としておそれる老人もいた。
また沿岸一帯の漁村では、井戸水に異変が起こっていた。
宮古村では60mの深さをもつすべての井戸の水が、ひとつ残らず濁りはじめた。
その色は白か赤に変色したもので、人々はその現象をいぶかしんでいた。
各所で稀なほどの大干潮がみられ、井戸の水も著しく減少した。
が、少数の老人をのぞいては、ほとんどの人々がその現象を別にいぶかしみもしなかった。
「ドーン、ドーン」とすさまじい轟音が三陸海岸一帯を圧し、
黒々とした波の壁は、さらにせり上がって屹立した峰と化した。
そして、海岸線に近づくと峰の上部の波が割れ、白い泡立ちがたちまちにして下部にひろがっていった。
波は、すさまじい轟きとともに一斉にくずれて村落におそいかかった。
家屋は、たたきつけられて圧壊し、海岸一帯には白く泡立つ海水が渦巻いた。
人々の悲鳴も、津波の轟音にかき消され、やがて海水は沖に向かって干きはじめた。
家屋も人の体も、その水に乗って激しい動きでさらわれていった。
干いた波は、再び沖合いでふくれ上ると、海岸にむかって白い飛沫をまき散らしながら突き進んできた。
そして、圧壊した家屋や辛うじて波からのがれた人々の体を容赦なく沖合へと運び去った。
ジャバ島付近のクラカトウ島火山爆発による大津波につぐ世界史上第二位、
日本最大の津波が三陸海岸を襲ったのだ。
津波の高さは平均10mとも15mともいわれている。
「ヨダ(津波)だ!」
「いや、50mは十分あるでしょう」
押し寄せた津波は、湾の奥に進むにつれてせり上がり、高みへと一気に駈けのぼっていったのだろうか。
50mの高さにまで達したという事実は驚異だった。
死体が、至る所にころがっていた。
引きちぎられた死体、泥土の中に逆さまに上半身を没し両足を突き出している死体、
破壊された家屋の材木や岩石に押しつぶされた死体、そして、波打ち際には、
腹をさらけ出した大魚の群れのように裸身となった死体が一列になって横たわっていた。
所々海岸のくぼみにたまった海水の中には、多くの魚がはねていた。
それを眼にした住民たちは、飢えに眼を血走らせてそれらをとらえるとむさぼり食った。
梅雨期の高い気温と湿度が、急速に死体を腐敗させていった。
死体には蛆が大量発生して蝿が潮風に吹かれながらおびただしく空間を飛び交っていた。
死体は流木の上にひとまとめにのせられ重油をまいて焼かれた。
肉親を探してあてどもなく歩く者が多かった。
精神異常を起こして意味もなく笑う老女や、なにを問いかけても黙りつづける男もいた。
精神的な打撃を受けて記憶を失った者は各町村にあふれていた。
また津波の恐怖で発狂した者も多く、生涯を狂者として過ごした者もいる。
雄勝村
集治監(刑務所)があって、囚人195名が収容されていた。
生き残った囚人はわずか31名。
海岸には、連日のように死体が漂着した。
人肉を好むのか、カゼという魚が死体の皮膚一面に吸い付き、死体を動かすとそれらの魚が一斉にはねた。
また野犬と化した犬が、飢えにかられて夜昼となく死体を食い荒らしまわった。
住民が犬を追い払おうとすると、逆に歯をむき出して飛び掛ってくる。
野犬退治が各所でおこなわれた。
漁船、漁具を失った各漁村では、その後3年間漁業を休止され、貧困の中で呻吟した。
明和8年1771年4月24日、地震津波が石垣島に来襲、
島民17000名のうち、8500名を死者と化した。
津波の高さは85mあったといわれている。
リアス式三陸海岸
北上山脈から触手のようにのびた支脈が半島になって海上に突き出し、
巨大な自然の斧で切断されたような大岸壁が随所に屹立して海と対している。
海岸には山肌がせまり、鋭く入りこんだ湾の奥まった個所に村落がいとなまれている。
そのわずかな浜に軒をつらねる家々は、辛うじて海岸にしがみついているようにみえる。
海は、人々に多くの恵みをあたえてくれると同時に、
人々の生命をおびやかす過酷な試練をも課す。
海は大自然の常として、人間を豊かにする反面、容赦なく死をも強いる。
私が三陸津波について知りたいと思うようになったのは、
その防潮堤の異様な印象に触発されたからであった。
そして、明治29年と昭和8年に津波史上有数な大津波があったことも知るようになった。
明治29年の津波来襲時は、津波の代わりに「海嘯」という言葉が使われ、
カイショウまたはツナミと呼ばれている。
嘯く(うそぶく)という言葉が使用されているのは、津波の押し寄せる折の海の轟を表現しようとしたものなのだ。
「よだ」・・・三陸沿岸特有の「津波」に代る地方語。
「津波じゃねえ、あれはよだのでっけえやつだ」
「よだってのは、地震もなく、海面がふくれ上がって、
のっこ、のっこ、のっこと海水がやって来てよ、
引き潮の時がおっかねえもんだ」
よだという言葉にひびきには、その無気味さがよくにじみ出ているように思う。
~~来襲~~
中央気象台が地震を記録したのは、昭和8年3月3日の午前2時32分14秒であった。
東北地方の三陸沿岸は積雪が大地をおおう厳寒の中にあった。
天候は晴れで、夜空には凍てついたような星が光っていた。
三陸沿岸の住民には、一つの言い伝えがあった。
それは、冬季と晴天の日には津波の来襲がないということであった。
「天候は晴れだし、冬だから津波はこない」
それを信じたほとんどの人は再び眠りの中に落ち込んでいった。
しかし、その頃、海上は急激にその様相を変えていた。
海水は、再び海底を露出させ沖合いで体勢をととのえるように盛り上がると、
第一波より一段とすさまじい速さで海岸へと進んだ。
津波は、3回から6回まで三陸沿岸を襲い、多くの人々が津波に圧殺されひきさらわれた。
その上、厳寒のしかも深夜のことであったので凍死する者も多かった。
「地震があまり激しいので、起きた。
地震は8分も続いた。
地震が終わってから15分程した頃、潮が勢いよく引いてゆくのが見えた。
それとほとんど同時に、ダイナマイトの破裂するような音が沖の方から聞こえてきた。」
大湊港では、駆逐艦「秋風」「太刀風」「帆風」「羽風」の4隻と特務艦「大泊」を急羽。
さらに横須賀鎮守府では「野風」「沼風」「稲妻」「雷」の各駆逐艦に衣服、食料等を満載させて緊急出動させた。
各艦は、最大出力で北進、翌4日午前11時頃には、濛々と黒煙をなびかせながら、
大船渡、釜石、宮古、久慈の各港に姿をみせて投錨した。
また6日早朝には軍艦「厳島」が食料、衣類、毛布等を満載、
釜石に入港後、宮古にも到着して救援物資を配布した。
天皇は、津波襲来の報告を受けるとすぐに待従「大金益次郎」を特使として被災地に派遣した。
精力的に慰問して歩き、また天皇からの御下賜金として死者・行方不明者一名につき、
金7円、負傷者に金3円、罹災世帯に金1円を贈った。
衆議院では議員1名につき10円の寄付金を集めた。
「そのとき配給された陸軍の外套を、津波外套といいましてね」
~~チリ地震津波~~
昭和35年1960年5月21日
気象庁は南米チリの大地震をとらえ、続いて23日午前4時15分、
四度目の地震がきわめて激しい地震であることも観測した。
その地震によって起こった津波が、23日午後8時50分頃にはハワイの海岸に来襲、
60名の死者を出したことも承知していた。
しかし、気象庁では、日本の太平洋沿岸に来襲するとは考えず、津波警報も発令しなかった。
昭和27年11月5日にカムチャッカ沖で発生した津波が遠くチリに4mの波高の津波。
逆にチリ沖で発生した津波はカムチャッカを襲うはずだ。
~~津波との戦い~~
昭和29年の大津波・・・死者26360名
昭和8年の大津波・・・死者2995名
昭和35年のチリ地震津波・・・死者105名
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます