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なかなか勝てない馬がいる。今日もその馬が走る。
がんばれ、と声が出る。
まなざしは、ゴールの先を見つめている。

常念岳2857m

2020年09月04日 11時13分44秒 | 深田久弥
安曇野の梓川右岸から望む 常念岳・横通岳 ピラミッド型の山容の常念岳(左)

「常念を見よ」

それは我が友人だけでない。
60年も前にウェストンが言っている。
「松本付近から仰ぐすべての峰の中で、常念岳の優雅な三角形ほど、見る者に印象を与えるものはない」と。

ウェストンもやはりその美しい金字塔に惹かれて登ったのだろう。
彼がその頂上に立ったのは明治27年1894年の夏だった。
金字塔と呼ばれるにふさわしい山はわが国に幾つも数えられるが、
その最も代表的な一つとして常念岳が挙げられよう。
ウェストンはその頂上に小さな「ケルン」を見つけた。
彼より以前にもう熊やカモシカを追う猟師たちが登っていたのである。

彼が道案内の猟師から聞いた話しによると、昔、密猟者がこの山の谷間で野営していると、
頂上から風に乗って夕べの勤行(ごんぎょう)のお経と鐘の音が聞こえてきた。
それが夜通し続くので、密猟者は良心の呵責にあい、再びこの山へ近づこうとしなかった。
それを聞き伝えた麓の人々は、この山に「常念坊」という名前を付けたという。
常に念じている僧のいる山の意である。

昔は常念岳と言わず常念坊と呼んでいた。

日本の登山家で最初に常念岳をこの世に紹介したのは小島烏水で、
彼が登ったのはウェストンより遅れること約10年の明治39年1906年の夏であった。
その頃はまだ北アルプスも詳しく知られず、槍ヶ岳が富士山につぐ日本第二の高峰とされていたが、
その槍と常念とどちらが高いかと、真面目に議論されたりした。
それほど常念は天空を突いて、眼につく山であった。
烏水は大天井(おてんしょう)岳の方から縦走してきて、この頂上に立った。
頂にかかる下に匍松で編んだ毀れた小屋が傾いていた。
この破れ小屋が後の常念小屋のもとになったのだろう。
常念小屋の建ったのは大正8年1919年で、それから三年遅れて私はその小屋に泊まった。

山田利一・・・
横尾山荘

山にはそれぞれ御ヒイキがある。
常念には若い勇敢なクライマーを誘い寄せる岩壁や困難な沢はないが、
その美しい形をもって、芸術家気質(「かたぎ)の人々を惹きつける。
画家や写真家に、この山は多くの材料を提供してきた。
常念岳は北アルプスの他の深山とは違って麓の風景とマッチしているところに、
芸術家気質の人に親しまれる理由があるのだろう。
しかしいざ登ろうとすると里からは遠い。

松本から大町に向かって安曇野を走る電車の窓から、もしそれが冬であれば、
前山を越えてピカリと光る真白いピラミッドが見える。
私はそこを通るごとに、いつもその美しい峰から眼を離さない。


今回の舞台は、北アルプスの常念岳。
早朝、中房温泉を出発した田中。この日の行程はコースタイム19時間のロングコース。
快晴の中、順調に標高を上げるが、標高2700mのりょう線に出ると、冬の訪れを告げる寒風が待っていた。

常念小屋
蝶ヶ岳フュッテ
上高地

槍・穂高の絶景



























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