
迫りくる駆逐艦と爆雷の恐怖。鉄の棺と酸素魚雷に一命を託した深海の死闘!思わず緊張。実体験ならではの迫力と臨場感。伊号潜水艦は言うに及ばず、呂号波号特潜から蛟龍回天まで、用兵者側から見た潜水艦技術の全貌と戦場の実相!
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にっぽん“防潜要塞”構築兵談(浄法寺朝美)
敵を発見した潜水艦は、敵の進路前方に潜航して近接する。
敵はしばしば変針するので、その進路は必ずしも一定ではないが、できるだけ良好な射点を占めようとつとめる。魚雷発射にもっともよい対勢は、敵の速力によって違ってくるが、方位角50度ないし70度、距離1,500mである。射点に到達した潜水艦は、最後の観測をおこない、所要の緒元を調べて斜進角を魚雷に調定して発射する。
戦時中の歌に「可愛い魚雷・・・」という句があったが、潜水艦乗員は暇さえあれば魚雷の手入れに専念した。
95式魚雷は次のような特徴があった。
酸素魚雷で速力が2倍以上になった。
波浪のある海面ではほとんど無航跡に近かった。
炸薬量が多く、破壊力が大きい
炸薬量405キロ
45ノットで12,000m
49ノットで9,000m
重量1.67トン
潜水艦技術の権威者である友永英夫造船大佐の発明に、自動懸吊装置と重油漏洩防止装置がある。友永大佐は潜水艦の技術交流のためドイツに派遣されていたが、敗勢のなか、独潜で日本に帰国の途中、ドイツの降伏を知り、自決された熱血の士である。
自動懸吊装置とは、潜航中、電力節約および被聴音防止のため、空気だけ使用、一切の電力を使わない深度保持装置である。
重油漏洩防止装置とは、外殻にある燃料タンクが被弾して穴が開いたり、爆雷で鋲が緩んで油が外に漏れそうになったとき、これを防止する装置である。原理は油タンク内の圧力を外の海水圧力よりもつねに下げておくという簡単なものである。
燃料タンクは油水置換方式といって、海水で油を押し出して使用するので、つねに下は海水、上は燃料である。この海水部分から特殊ポンプでつねに海水を吸い込む。穴がない場合は海水押出管から海水が循環し、タンク内を一定のマイナス圧力に保つ。穴があけばそこから海水を吸い込み、それが循環して同様の負圧力になる。油が漏れ出す暇がない。
この小型の特殊遠心ポンプと均圧ポンプの開発に苦心したと聞くが、爆雷を受けると鋲がゆるみ、潜航しても油が海面に尾をひき、飛行機にやられることが多かった時代、心強く、有難かったものである。
さて、作戦行動中、30数トンの糧食、24トンの真水、数10トンの艦内重量や潤滑油は順調に消費して艦が軽くなるが、艦外燃料と魚雷はそうはいかない。
外殻燃料タンクは油水置換式なので、使えば使うほど比重0.82の燃料が1.025の海水に置き換わり、100トンにつき20.5トンづつ艦が重くなる。
深度はゴムの水圧板と魚雷の前後傾斜で動く鉛の揺錘によって、自動的に横舵を動かす。
魚雷が浅いと波の影響が強く、雷道が不規則になる。
魚雷には爆発尖(せん)があり、中に湯飲み状の真鍮製の重い慣性体が入っていて、衝撃を受けるとこれが倒れ、玉が飛び出し爆発する。はじめは自爆の原因が不明だったが、これが鋭敏すぎて波の衝撃で作動するためだとわかった。感度を鈍感にして対処した。
魚雷の進路はジャイロで決めるが、毎分2万回転で発動し、空気を吹きつけ、その回転を10数分間維持する。精度は千で数メーターだったので、高い技術水準だったと思う。
方位盤とは発射指揮の計算機である。
発射前に雷速、自速、時隔を入力し、発射直前に的速、方位角、距離、照準角(潜望鏡の照準を自動追尾)を入れて発動する。計算結果は斜進角度(魚雷の進むべき方向を自動的に指示)、発射時の照準角度と命中までの射程である。円錐形カム利用のアナログ式で、時計組込の相当高いレベルの機械的計算機であった。
95式魚雷の製作面での問題は、気室がニッケル綱の塊から特殊機械でくりぬくため、量産がきかない。爆発の危険と量産困難の理由から、酸素濃度を38%に落とした96式魚雷が採用されたが、気泡が出るので評判は悪かった。雷跡で回避される恐れがある。
92式電池魚雷は、量産のきく無航跡魚雷である。
電池は薄い極板多数を詰めこんだ大容量の電池であったが、電圧を維持するために毎週充電する必要があり、とくに敵を発見してから電池温度を1度上げるのに70分もかかった。
公称雷速は30ノットだが信頼性がなく、方位盤には雷速27を入力と指導されていた。
92式は相手が18ノット前後では射程5千で使う気になれず、95式命中後の処分用に使った。
電池魚雷の歴史は古く、大正末期にドイツから売り込みにきたというが、価格がベラ棒に高すぎたので、電池もモーターも10年がかりで自主開発したものだという。
潜水艦の目である潜望鏡は、フランス、イタリア、ドイツから輸入されていたが、国産第一号はイタリアのガリレオ型を原型とした。倍率とその変換、仰角、伏角には変遷があったが、昼間用は水平線をにらみ、夜間用は対空見張りも可能であった。1.5倍の倍率は片目で見ると実物大に見える。潜望鏡には写真機が付属していて、他で方向を合わせ、潜航中でも撮影可能である。
日本得意の夜戦見張り兵器として12センチの双眼望遠鏡を積んでいた。
鏡の本体を耐圧とし、対物と対眼部分に耐圧蓋がついている。曇りの問題があった。
次は耳にあたる水中聴音機だが、昭和7年にドイツからと、何とアメリカから同時に輸入している。結局、ドイツの技術者を招いて完成した。
93式は艦首に16個の聴音器を並べ、方向精度は左右約5度、距離は集団音で20~30キロ、独行船では15キロ程度だが、海中の音波の伝播状況によりムラがあった。音質により相手の種類がわかる。
逆探という電波探知機は、横浜に寄港したドイツ仮想巡洋艦からヒントを得て研究をはじめ、昭和18年秋に潜水艦に装備された。艦橋の4隅に受波機があり、概略の方向がわかった。
昭和20年春にサンチ波用逆探知機が開発された。
聴音機といい探知機といい、隠密性が要求される潜水艦にとって、自ら発射するアクティブ兵器より、受け身のパッシブ兵器のほうが重視されるのは必然である。
潜水艦通信の特徴の1つに、超長波(VLF)通信がある。
波長17.4KHで、送信所は愛知県の依佐美、送信機出力750キロワットであった。
受信側は92式改三に、前置増幅器をつけて受信可能となった。
インド洋のアラビア沖でも比較的良好に受信できた。
VLFの特徴は電波が水中に入ることだが、近い所では海面下4~5m、インド洋でも1~2mであった。
第二次大戦中、日本の潜水艦の喪失隻数は127隻である。
戦後の米海軍の調査によれば、日本潜水艦を撃沈した米兵力と日本の隻数は、
航空機が20隻
水上艦艇が70隻
潜水艦が21隻となっている。
残りの16隻は米海軍でもわかっていない。
~~居住・糧食・保険・医務衛生などの技術~~
日本の居住性も魚雷を抱いて寝るほどで、恵まれた環境ではなかったが、糧食や保健面を含め相当の注意は払われていた。フレオンガス式冷房、紫外線を発生する太陽光、熱くならない蛍光灯などは潜水艦のために開発された。
真水と食料は生活の基本だが、潜水艦で24トンの真水は貴重品、
洗濯は干し場もなくできないので、出港時には新品のシャツ5枚、ふんどし10枚を持って乗る。
潜水艦糧食の歴史は、脚気予防に対するビタミンB1の錠剤と味噌汁混入からはじまる。
多くの変遷をへて昭和6年、糧食制度が確立され、30種類ほどの品目別の摂取量が決められ、総カロリーは4,380であった。
これを基に3分の1程度を収納する米麦庫、味噌醤油庫、冷凍庫、冷蔵庫などの大きさが決まる。冷蔵・冷凍技術は未熟、機械も大きく力不足。残りの3分の2は艦内通路に置く。
主として保存食の研究を行なった。
10数種の肉や魚、野菜の水煮、卵の粉末、餅などの缶詰、漬物、乾燥野菜、湯を加えるだけのウドンなどがつくられた。インスタントラーメンの世界的技術はこんな研究から生まれたという。通路の他いたるところに缶詰、米袋であふれていた。
30日も過ぎると米、味噌、缶詰だけの食生活がはじまる。
そんなとき、甲板に打ち上げられる飛び魚、シャワー室の片隅でつくる青豆のモヤシが珍味となった。食欲が減退し、缶詰も鉄の臭いが鼻をつき、どの肉も味は同じ、ほとんど食べられない。ただし梅干し、切干し大根、ガンズケ、塩辛のような缶詰が好まれた。
ドイツは黒パンを10日ごとに艦内で焼くほか、燻製のサラミ、チーズ、塩の利いたバター、ジャガイモの水煮が主食であった。ビタミンC補給のためレモンを大量に積んだという。
日本の烹炊器具はすべて電気だが、ご飯の蒸気が高温多湿の原因の1つと言われた。
潜水艦は温度34℃前後、湿度100%のほか換気不十分で、炭酸ガスは空気中の約10倍、
すなわち0.4%程度である。
炭酸ガスの発生は激動時は多く、睡眠時は少ない。
2%で眠くなり、3%で頭痛、5%で危険、7%で即死。
(正常の空気では0.03%)
長時間潜航になると眠くなるので、当直員以外は寝かせるに限る。
炭酸ガス検知器は昭和18年になって配られた。
酸素はボンベを積み、放出器から放出する。
炭酸ガス吸収装置は、昭和19年、散布式吸収剤(人絹パルプを苛性ソーダに浸し、膨張後に粉砕したもの)に改められた。床に散布するが、あとの掃除が大変だった。
電池が破壊され、電池液と海水が混同するとクロリンガス(塩素)が発生する。
個人の防毒マスクで防いだが、効かないらしい。
爆雷を受けたとき、これがいちばん怖かった。
七尾へ潜特(特型潜水艦)が移ったことも、いつかは敵の探知するところとなった。
七尾港はB29の猛爆撃を受けて壊滅した。
付近海面には、磁気機雷がまかれた。そればかりではない。潜特の訓練待機港とみられる各地は、執拗な空襲にさらされた。
昭和20年の初夏から、さしあたって作戦上ほとんど戦略的意義がなく、町としてもろくな軍需工場も施設も持っていないような罪のない町、酒田、伏木、敦賀などの各都市が、大空襲を受けたのも、実を言えば、この潜水空母部隊のまきぞえだったのである。
この計画の骨子は、伊400潜と伊401潜の2隻、6機の「晴風」で、ウルシー在泊中の敵機動部隊に特攻攻撃をくわえる。この攻撃隊の名は、神龍隊ーー
8月14日、両艦は3日後の驚天動地の決死攻撃を準備しつつあった。
その有泉司令にもたらされた電報は、なんと、終戦の詔勅と、内地への帰還命令であった。
密かに磨いてきた孤剣は、ついに振りおろされる寸前に力が萎えたのである。
昭和17年から、いや多年にわたって世界にただひとつ、黙々とつみかさねてきた特殊技術は、ついに日の目をみることなく終わった。
★晴風とは800キロの大型爆弾を抱いて、潜水艦から飛び出す水上爆撃機のこと。
横須賀に向かう伊401潜の司令室で、横浜入港を目前にして司令の有泉大佐は拳銃でわが命を絶った。同艦長の南部伸清少佐は、司令の遺体を水葬礼をもって相模灘の底深く葬った。
「みんな一緒に靖国神社へ行こうぜ。
死んでも俺が、下士官を引率して行くぞ・・・」
なおも敵の爆雷攻撃が続けられ、遠来のような爆発音が響く。
日没も過ぎ、潜航13時間ともなれば、艦内の空気は濁って呼吸困難となり、頭痛がしてくる。
みな一刻もはやく、新鮮な空気を吸いたい。
「潜航やめ、浮上用意!」
聴音手 「周囲に感度なし」
水上航行中、用意していた戦果を打電した。ところが、これが失敗だった。
敵はスクリューを止めて、われわれの浮上を待ち構えていたのだ。
発した電波によって方位を測定され、敵駆逐艦群の探照灯で、いきなり照射されたのである。
緊急ベルがけたたましく鳴り、哨戒員が脱兎のごとく艦橋からすべりこんできた。
「急速潜航!」
潜水艦のくせに、こんな大型カタパルトを装備するのは、世界最大の潜水艦(3,530トン)伊400潜と伊401の2隻だけだ。これらは世界の、どこの港へも往復できる航続距離を持っていた。
マンモス潜水艦伊400潜クラスは、晴風3機を搭載した。
やや小さい伊13潜、伊14潜(基準排水量 2,620トン)は晴風2機搭載した。
この第一潜水隊の4隻に搭載された晴風10機で、パナマ運河の閘門(こうもん)を爆破しようというのだ。パナマ運河の水位を調整する閘門を爆撃すれば、大西洋と太平洋を結ぶ運河は、艦船の通過は不能になるからである。
「片道1ヶ月も要するパナマ運河では、話が悠長すぎるのではないか?」
「むしろ人口の多いサンフランシスコやロサンゼルスの方が、米国民の恐怖心をおこさせる意味で適していよう」
有泉大佐ももちろん納得した。
B29の大爆撃に、せめてもの仕返しがしたい、というわけだ。
ところが、軍令部と海軍総隊の意向は、すなわち。敵空母の群がるカロリン諸島のウルシー環礁をやれ、というのだ。潜水空母がウルシーへ向かう途中、終戦となったことは言うまでもない。
さて、この零式小型水上偵察機は、もちろん潜水艦搭載専用である。
星型空冷300馬力
巡航速力80ノット
航続5時間
旋回機銃7.7ミリ1
まさに当時の中間練習機の性能というしろものであった。