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ドイツを焼いた戦略爆撃  1940-1945

2021年01月04日 17時40分09秒 | 読書・戦争兵器


税込価格7,260円
イェルク・フリードリヒ/〔著〕 香月恵里/訳

出版社名 みすず書房

出版年月 2011年2月
474ページ

第二次世界大戦中、英米軍が5年にわたってドイツ全土に加えた史上空前規模の空爆。その死者数は約60万人に達した。贖罪のため封印されたドイツ民間人の苦しみに分け入り、爆撃戦争の真実を明らかにする

英米軍が5年にわたってドイツ全土に加えた史上空前規模の空爆。死者数は約60万人。贖罪のため封印されたドイツ民間人の苦しみにはじめて分け入り、爆撃戦争の真実を明らかにした類なき書。

第1章 兵器
第2章 戦略
第3章 国土
第4章 防衛
第5章 我々
第6章 自我
第7章 石

第二次世界大戦中の英米軍によるドイツ全土への無差別爆撃を包括的・詳細に描いたおそらく唯一の歴史書。十カ国語に翻訳。話題の書。

==第1章 兵器==

「飛ぶ要塞:フライング・フォートレス」B17
「解放者:レベレーター」B24

B24は2,275キロの積荷を12人の乗員を乗せ、50口径(12.7ミリ)の機関銃10丁で武装していた。

炭化した遺体は50センチくらいの大きさでした。
通常の焼死体はもはや人間とは関係ないもので、黒い小包のようなものです。
無事な部分が残っていると、それが何なのか、突然意識にのぼるのです。
このストレスに耐えるため、私たちはしきりに強い酒を飲まずにはいられませんでした。

空襲で使用される爆弾は4,000ポンド爆弾で、「ブロックバスター」つまり「街区殲滅弾」と呼ばれた。

1943年にイギリス軍は3万6千回の夜間出撃を
アメリカ軍は12000回の昼間出撃を遂行した。

アメリカは1942年から44年までのあいだに76,985機の飛行機を、
イギリスは43年に26,263機を、翌年にはさらに26,461機を製造していたが、
10万人の乗員を新しく調達し、訓練し、装備をつけて送り出すことはできなかった。

爆撃機軍団は大戦中に12万5千人の乗員を動員し、73,741が死亡あるいは負傷し、あるいは捕虜となった。1943年は14,000人という最大の戦死者を出した年であった。

両軍とも1942年の終わりには機上レーダー装置を導入していた。
機上レーダー SN2
爆撃目標誘導装置 オーボエ

「戦闘機の攻撃にはほとんど打つ手がない。零下30℃の空を飛んでいるのに顔からは汗が流れ、服の下の体は凍てついている。まるで嵐の海を漂うコルクのような船を駆り立てる」

乗員にはパイロット、副パイロット、爆撃手、通信兵、工兵、砲手2名がおり、全員21歳前後である。イギリス空軍の任務は応召の命によってなされたが、爆撃機軍団への入団は自由意志だった。もっぱら空中の出来事だけに専念する。乗員が一体のチームとなり、自分の装置をよく試験し、熟知していれば、生き残るチャンスが増すのだ。頼りになるのは訓練と神への祈りだけである。

空襲を行う高度では気温は50℃まで下がり、暖房装置付き戦闘服を着たアメリカ軍パイロットですら凍傷を負った。操縦席の暖房はほとんど効かず、機関銃用突出機銃座にはそもそも暖房装置すらなかった。機上砲手は6時間から11時間、プレキシガラスの半球の中で手足をぴたりとくっつけて座り、身動きもせず夜間を見つめる。

寒さと並んで疲労が、とくに爆弾を投下した後の帰還途上では、手ごわい敵であった。激しい睡魔に襲われパイロットと副パイロットが居眠りすると、彼らを運命が襲った。命中弾で負傷したり死亡したパイロットは交代しなくてはならないが、それは難しい。体の内圧は機内の圧よりずっと高いので出血は激しくなる。結果は墜落で終わることが多かった。

爆撃手は腹ばいになり、照準機で目標を計測しながら任務を遂行する。

「まるで、煉瓦で顔を殴られたようだった。
命中弾を体で受け止めるときの物理的衝撃はものすごい」
彼の機体に命中した弾を「巨人の手」に喩えた。
「その手は我々をしっかりと摑んだ。
まるで殺人犬に振りまわされ、引き裂かれる鼠のような気分だった」

約70度の角度で2センチ砲が二つ、戦闘機の機首上方に取り付けられ、パイロットは光像式照準器によって上に向かって狙いを定めて撃つことができた。この射撃角度だとパイロットは爆撃機から見えない死角に侵入できた。その後発砲すると、爆撃機全体が弾丸に晒された。
戦闘機は、燃料タンク付近である両翼のエンジンのあいだを狙う。


高射砲での演出は印象的だった。
サーチライトと機関砲がその舞台俳優だった。
ひとつの大砲台に、最大で70のサーチライトと160門の機関砲が設置された。
1.5m標準サーチライトは光度13億カンデラで13キロ上空まで照らし出した。
そのような装置はそれ自身がすでに武器といえる。これに捕捉された飛行機はもはや爆弾を正確に落とすことはできなくなる。

「安全に身を隠していると思っていたのに、空中の小さな避難所が突然、目も眩むような光に晒される。飛行機は網にかかったハエのようになり、砲手に方位を悟られる前に逃げようと絶望的な試みをする。高射砲のサーチライトを生きて逃げられる者は多くはない」

爆撃司令部は乗員に30回の出撃を課していた。
1943年11月当時、20%の者がそれを果たした。
計算すると、1回の出撃につき3.3%の損失率となり、3分の2は30回の出撃を生きて終えることができないことになる。それでメンバーたちは運命論者となった。

「士気を挫く爆撃:モラール・ボミング」

==第2章 戦略==

爆撃機軍団の乗員12万5千人のうち、5万5千人、つまり44%が戦死した。
爆撃された側の死者数ははっきりせず、42万人から57万人の幅がある。

最初にドイツ空軍から攻撃されあ大都市は。1939年9月25日のワルシャワと、1940年5月14日のオランダ・ロッテルダムである。

爆弾が人々を地下壕へ追いやり、そのあいだに彼らの頭上では建物が燃え上がる。
外へ出なければ、待っているのは窒息死である。
「焼夷弾を、少しずつではなく大量に」

「アメリカは傍観と戦争介入のあいだで揺れている。
ルーズヴェルトが再選されたら、アメリカは間違いなく戦争に踏み切るだろう。」
アメリカでは参戦に賛成する市民は7.7%だけで、その5倍以上が反対していた。
少なくとも19%の中間グループがおり、その人々はヨーローッパで民主主義が脅かされるなら介入してもよいと考えていた。

もし英戦闘機がドイツ軍によって壊滅すれば、海軍は海に逃れるしかない。
そうなればイギリスは無防備である。
上陸用舟艇を持たないドイツはフェリーで上陸するだろう。
そのときはイギリスの海岸をマスタード・ガスに浸す、とチャーチルは宣言した。

1940年夏の転回点で、戦争は軍隊同士が戦うものではなく、軍隊を民間人の領域、つまり市街地に差し向けるものに変化した。

ヒトラー:「もし戦争が冬を越せば、アメリカの参戦は確実だ。
ルーズヴェルトはユダヤ人の奴隷だ」

チャーチルは蒸気船リッチモンド公爵夫人号に自国に優れた兵器を積み込んでいた。
この船でワシントンに向かったヘンリー・ティザードの手荷物には、これまで人間に向けられたうちで最も恐るべき兵器、連合戦略爆撃を遂行する部隊を30ヶ月で作るための機密と特許が入っていた。レーダー技術、B17用機関銃砲床、ロールスロイス・マーリンエンジンと、物理学者ルドルフ・パイエルスとオットー・フリッシュによる基礎研究の成果を、ルーズヴェルトは来るべき同盟の前払いとして受け取った。

このふたりの学者はウランの核分裂が爆発を引き起こす臨界量を算出していた。その爆発の規模も算定され、大変に説得力のあるものであった。ティザードすでにベルギー領コンゴにある世界最大のウラン埋蔵量を持つカタンガ鉱山に関心を示していた。
まだ製造されてはいないが理論上可能なこうした武器は煉獄の炎を解き放ち、その業火の中で悪の帝国は燃え、浄化されるであろう。

ダム破壊:反跳爆弾

軍需生産の要であり、そこを破壊すれば他のすべての部門の生産が停止する要所は何かと調査した結果、経済学者は、それはボールベアリングであると判断した。

火災嵐は大気の状態を変える。
それは三重の意味で生命を脅かす。
第一は熱で、火災区域では摂氏800℃にも達する。
第二は火柱から4キロの範囲を吹く秒速15mもの風である。
人は抵抗してもなぎ倒され、最悪の場合は火元に吸い込まれる。
第三は酸素不足である。燃える突風を呼吸することはできない。

火災嵐には、建て込んだ無傷の町と、生活用品、家具、衣類、食料、書籍が詰まった建物が必要である。とくに必要なのは木組屋根と床板である。
火災嵐が頂点に達すると、放射熱だけで建物の屋根から地下室までが一挙に燃え上がり火柱と化す。突風はまるで巨大ポンプのように地下室から酸素を奪う。秒速75mもの風が水平方向に吹き荒れた。

核兵器の、初期段階での影響は火災嵐と似ている。
核兵器も主に溶解、炭化、蒸発によって人を殺す。

ドイツのパイロット部隊は1941年6月から44年10月までに4万4千人を失っていた。
飛行学校で彼らは150時間の飛行訓練を受けた。
しかし敵側はその2倍の長さの訓練を経ており、数も7倍だった。

「V1」と名づけられた飛行爆弾は斜面上のカタパツトから発射され、化学的に発生する蒸気で動くピストンがそれを軌道に乗せる。時速320キロに達すると、パルスジェット・エンジンによって速度は2倍になり、22分でロンドンに運ばれる。830キロの爆薬を装填していた。
この兵器で目標を狙うことはできない。
15キロの範囲内のどこに落ちるかはわからない。
ロンドンに向けて発射された8,839発のV1ロケットのうち、27%が住宅地に落下し、5475人を死亡させた。

V2は、到達距離、弾頭、目標を狙う正確さにおいてはV1とほとんど変わらないが、重量は14トンもあり速度は17倍であった。音もなく飛来する上、秒速1.5キロという高速のため目にも見えないこの兵器は、人々の心理に深刻な危機感を与えた。
V1とV2ロケットによる死者は8,938人、負傷者は22,524人である。

ヒトラーは大部分のV2ロケットを、ロンドンではなくアントウェルペンに向けて発射し、その数は1,610発だった。ベルギーでの死者は6,448人、負傷者は22,524人だった。

*アントウェルペン・・・ルーベンスが暮らしていた家。
現在は、ルーベンスが所蔵していた美術品が展示され、美術館として利用されています。館内に所狭しと絵画が掛けられており、見応えがありました。

この報復兵器による最大の犠牲者は、兵器そのものによってではなく、その製造過程で発生した。ハルツ山脈南部にある地下製造所での過酷な奴隷労働で、強制収容所の囚人たちと強制労働従事者2万人が命を落としたのである。

モントゴメリー:この作戦は「マーケット・ガーデン」と呼ばれた。
この計画は、後続の戦車部隊に通路を開くため、空挺部隊に橋を確保させるものであった。
アメリカ軍第82・101空挺師団
イギリス第30軍団
映画「遠すぎた橋」
監督: リチャード・アッテンボロー

シチリア上陸作戦以来、パットンに強いライバル心を抱いていたモントゴメリーは、後の歴史家に彼最大の汚点と言われた「マーケット・ガーデン作戦」を立案、連合国軍最高司令官アイゼンハワー大将を説得する。彼は政治的配慮から、結局この無謀な作戦を承認する事となる。
この作戦は、3個空挺師団(英第1(英語版)、米82、米101)と1個空挺旅団(ポーランド第1(英語版))が敵中深く降下し(マーケット作戦)、ベルギー・オランダ間の5つの橋(Oversteek、Waalbrug、その他に移動式Bailey bridge)を占領、橋頭堡を築くことで機甲軍団(英第30(英語版))が駆け抜けて(ガーデン作戦)、一気にライン河を渡りオランダを解放。ドイツの喉元にクサビを打ち込んでベルリンに侵攻し、クリスマスまでには戦争を終らせるという思惑だった
連合軍は、天候や情報の錯綜に苦しめられながらも、第3の橋の占領まで成功する。しかし、第4の橋の攻略の頃から、作戦の無謀さが露呈し始め、戦闘は悲惨さを増していく。
。レジスタンスの少年に応える偵察機は実物のスピットファイアを使用している。


ジークフリート線は、対戦車障害物と砲塔を備えた600キロにわたるコンクリート製の砦で、付近のアウトバーンはライン川河畔の都市へまっすぐ通じていた。

ハンブルグ空襲の死者はの大部分は路上ではなく、地下室の穴倉で息絶えた。
火災時にそこを支配する化学法則は、ときによって異なる。
地下室は一定の時間が経つと大量の熱を外から吸い込み、火葬場のような機能を持つ。
あるいは、そこには致命的な燃焼ガスがひそかに充満する。ハンブルグ市当局によれば、死因の70%から80%はガス中毒によるものである。

火災によるガスで窒息死させることは、戦間期に考案された空からのガス殺という戦略の変種である。「戦略爆撃」という概念は、自身がテロであるということに自覚的であり、その特徴はテロということで十分に説明可能である。

チャーチルがドイツの60都市に向けようとしていた毒ガス攻撃とバクテリア攻撃

時限爆弾は通常、地下に隠れた住民が空襲終了後に出てきて、火災の隙間を通って逃げることを防ぐためのものである。火災嵐によって地下室の出口は塞がれていた。熱気とガスのため、防空室は処刑場と化した。

アメリカの調査によれば、爆撃戦争における死因の5~30%が爆発、爆圧、破壊の衝撃、5~15%が熱風、60~70%が一酸化炭素中毒である。
「密かに作用し死をもたらすこのガスはどんな火災の場合も発生の可能性があり、たとえ石炭が発火しなくても、大火災の場合には常に発生すると思われる」
「狭い通りでは人間が跡形もなく燃え尽きてしまうことさえある。空気は熱く、もはや呼吸ができないと思うほどだった」

ガスを吸入すると心臓の活動が促進される。意識が消える前には胸苦しさに襲われる。酸素欠乏は別の作用をおよぼす。人々は酸素を求めて吸い込もうとし、最後は横になる。酸素は下に残るからである。

この記録には繰り返し「まるで眠っているように」と表現が出てくる。
「幽霊のように座り、毛布や布を顔にあてていた。
それで煙から身を守ろうとしたようだ」

外で何かが爆発したり、破裂したり、燃えたりすると、建物の住人は本能的に地下室に入る。
地下の空気は冷たいが、時間とともに熱くなる。地下室は冷たいかまどである。炎に当たっていない場合はミイラ化し、死因がガスか、酸素不足か、それとも熱によるものかは解剖してみなければ分からなかった。

酸素の状態を確認するには蝋燭が欠かせなかった。
蝋燭はガスの流入を知らせてくれた。中の人間は炎が青くなり、その後消えると自分たちがガスを吸っていることを誘った。彼らには選択肢が2つしかなかった。窒息死か焼死である。

焼夷弾は落下の際にブリキ板がはためくような音をたて、炸裂弾は笛のような音をたてた。
「白い炎を上げて燃える焼夷弾は、ヒューヒュー音をたてて燐を撒き散らす火炎爆弾とはまったく違っている」

救助できるか否かは時間にかかっていたので、爆撃軍団は時限信管を使用し、投下後36時間、72時間、あるいは144時間で爆発するようにした。これで救援隊は近づけなくなり、抹殺力は如何なく発揮される。
「粘土質の土地では、爆弾は地下4mにも潜り込んでいた」

消防士は不発弾を処理することはできても、時限爆弾の信管を抜くことができなかった。
「この仕事のためには強制収容所の被収容者がいた。早朝にダッハウの強制収容所に行って、12人が必要だといえば、100人が名乗り出た」

火葬はドレスデン旧市場で行われることになった。
そこには鉄製梁で巨大な火格子が建てられ、その上に1回につき約500人の遺体が薪の上に並べられ、ガソリンをかけられ、燃やされた。

同じ頃、2万人の遺体を火炎放射器で処理するよう国防軍が指示を出していた。
バラバラになったり炭化した遺体の山が堆積すると、火炎放射器以外の方法は考えられなかった。

1944年2月になってもヒトラーは爆撃による死者を集合墓穴に葬ることを厳しく禁じていた。
こうした処置は別の人々に向けられた抹殺の仕方に似ていたからである。

1941年から45年までに裁判所は、銃後の秩序を乱した罪によって15,000人のドイツ国民を死刑に処した。その罪とは、略奪、士気を挫く言動、敵国の放送の受信である。
「所用欲から、大惨事を無責任に利用した」
71歳の年金生活者シュミットは、靴二足、ネクタイ5本、婦人用銀製腕時計2個を瓦礫から拾い上げ、これを死によって贖うこととなった。
同様に39歳のマイヤーは空襲の翌朝、ワイン倉庫からワイン1箱を盗んだが、倉庫を出たところで警察に逮捕され、死刑となった。

1939年9月5日の「国民に害をなす者に対する条例」は、「空襲時における犯罪」の要件を示していた。それは主に、灯火管制下の都市における「こそ泥」のことで、暗黒犯罪という名称で呼ばれた。「甚だしく忌まわしいものであり、彼は法に従って思考する良識ある人間の共同体から追放された。よって死刑が相当である」

実際、この条例は「任意に荷物を運びだされた建造物や空間で略奪行為を行う」者を死刑に処すると規定している。
ナチが下した15,000件の死刑判決は、もはや秩序の拘束力を疑うことができる性格の持ち主を次々と根絶するものであった。判決は正当である必要はなく、下されることで効果を発揮する。司法テロリズムによる判決はそれが下される当人にとっての罰なのではなく、周囲の人間にとっての教訓なのである。家を失った人々の収容施設で百万個のバター突きパンを分配するナチ政権は同時に、くすねたソーセージ250グラムのために人の首を刎ねることもする。ナチ政権が生殺与奪の権力を握っていた。

無数のつまらない犯罪を標的にする司法テロリズムは、警察の監視によって遂行されるのではなかった。住民が刑法学者や密告者となり、住民の一部はハンターとなった。

ж 第一次大戦末期の1918年11月はじめ、無謀な出撃命令に反発したキール軍港の海軍艦隊乗務員の蜂起に始める反乱はドイツ各地に波及し、労働者がそれに加わって革命に発展し、大戦は終わった ж

ж1931年の満州事変の際、日本軍はコレラ菌、チフス菌、赤痢菌で水源を汚染した。

空襲はあらゆる感覚を呼び覚ます。
鼻は炎とガスの臭いをとらえ、皮膚は温度と空気の流れ、燃え上がる炎、それが運んでくる風を感じる。ついには血管がその衝撃波を吸収するか、あるいは破壊してしまう。爆風の吸引力で衣服は体から引きはがされる。

「まるでキャベツでも運んでいるように、膨らんだものを5,6個入れた袋を引きずっている男の人がいました。それはその人の家族の頭だったのです。家族全員の分で、地下室でみつけたのでした。」

L氏は、バラバラになった妻の遺体を袋に入れていた。背骨が少し付いた骨盤と大腿骨の端である。F夫人のほうは夫を貯蔵用瓶に入れていた。臀部全体と背骨の一部である。臀部の周囲のズボンは焼けて肉に付着していた。

暑さ1mのコンクリート製外壁は動かすこともできず、叩き割ることも切断もできなかった。閉じ込められた人々はまだ生きていて、話すこともできた。「ついに聖職者がやって来ました。中の人たちに最後の助けを、つまり終油の秘蹟と赦免を施すためです。中にいる大勢の人たちは痛さのあまり恐ろしい声で叫んでいました」

爆撃戦争は14歳以下の子供75,000人を死亡させた。
男の子が45,000人、女の子が35,000人である。
そして負傷者は11万6千にんである。死者総数の15%は子供である。

「その男の人はボール紙に覆われていました。よく見ると、頭がないのが分かりました。そこから10mほど離れた場所に私の親友の頭がありました」
子供には死体に対する畏怖の念が欠けているので、爆撃の直接的作用によって歪んだ死者の表情を冷静に観察した。バラバラになった遺体は、まるで隠れたかのように消えてしまうことが多かった。

瓦礫から掘りだされた有機体は死者ではなく、死の状況を表す物体である。
「並んで置かれた遺体は膨張していました」
高温に「よって死んだ人々は人形の大きさに縮んでいて、人々を驚かせた。
「とても小さくなっていて、信じられないくらいでした」

熱、爆圧、落下する瓦礫は、弾丸や刃剣での攻撃のように人体を切断するのではなく、人体を解体する。こうした死に方は、放熱という宇宙の力と、血管と石を粉砕する目に見えない力、つまり爆圧とを褒め称える隠喩である。
このような力は人体組織が老いて朽ちることを拒絶し、分解作用に晒された組織をただのゴミとして扱う。遺体をバケツに入れる行為がそれを承認する。

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