本夕より支社長は、ネジ工場の牧野社長と会う約束でございました。
あいにく牧野社長は体調を崩された為、日を改めてもらいたいと、社の方に連絡があったのですが…。
残念ながら、こちらとは入れ違いになってしまいました。
電話連絡をして下さった牧野社長のお嬢様の牧野つくしさんは、入れ違いになったと察知し、わざわざ料亭まで謝りに来て下さりました。
実は牧野社長のお嬢様でいらっしゃる牧野つくしさんは、弊社の従業員であります。
申し遅れました。
私、道明寺ホールディングス日本支社:道明寺支社長の秘書を務めております西田と申します。
電話連絡だけでなく、自ら出向いて謝罪をしてくださった牧野さんですが…。
その誠意が、女性嫌いの支社長に通用するかどうかを心配しておりました。
軽くあしらった後に悪態をつき、直ぐにでも部屋から出てくる。
と、隣室で予測しておりました。
が、それなのに!
予定通り会食が始まったのでございます。
支社長が女性と二人で食事をなさるなんて、青天の霹靂でございます。
何が起こったのだろうかと心配していると─────。
女将から、信じられない言葉を聞くことになったのです。
「初めて左手のサインが出ました。」と…。
左手のサイン。
それは、料理をゆっくり出すようにの合図でございます。
このような料亭では、顧客のサインに応じてくださります。
支社長は基本、早く終わらせることに重点を置かれていました。
暫くすると、もっと信じられないことが起こりました。
隣室から楽しそうな話し声が聞こえてきたのです。
盗み聞きをしていたのではございません。
お二人の声が、漏れ聞こえただけです。
もっと聞こえるようにと、私は隣室と隔てている襖の隣へと移動しました。
「私の父は、何よりもネジが大好きなんです。」
牧野さんの声です。
「螺旋状になっているショートパスタのフジッリ(スピラーレ)のサラダを食べると、うちの父は『ネジに申し訳ない。』なんて言って謝りだすんですよね。」
再び、牧野さんの声です。
「チョロギや巻貝を見ると『自然界の回転に勝つような、綺麗なネジを作りたい。』なんて空に向かって叫びだしたりするんですよね。」
三度、牧野さんの声です。
牧野さん!
司様が、女性と初めて二人きりで食事をしているのです!
ご自分のお父様の話ばかりしないで、もう少し気の利いた話をしてください。
そして、司様!
牧野さんばかりに話をさせないで、ご自分からも少しは話してくださいっ!
私は、こんなことを心の中で唱えました。
そしたらどうでしょう。
「うおっ!」
「きゃっ!」
と、言う声が同時に聞こえたのです。
私も司様と同じく『うおっ! 』です。
隣室で何が起こったのでしょうか?
司様が牧野さんを押し倒した。
なんてことになっていたら、どうしましょうか?
いや。
それは、ありませんね。
二人は同時に驚いた。
何が起こったのか、次の反応で判断しないといけません。
この襖がマジックミラーだと、二人の様子を見ることが出来たのですが…。
こう思った時です。
「すみませんっ。大丈夫でしたか?あっ、濡れてしまいましたね。本当にすみません。」
焦ったような牧野さんの声が、ハッキリと聞こえてきました。
と同時に、司様の笑い声が聞こえてきたのです。
そして、
「お前、本当に下手だなぁ。」
このような司様の声がしました。
「はい…。本当にすみません。ジャケット、大丈夫ですか?これで、拭いてください。」
申し訳なさそうな牧野さんの声も、聞こえてきました。
どうやら、牧野さんが司様に酌をした際に飲み物を溢してしまい、司様のスーツが濡れてしまったようですね。
そして、牧野さんが司様にハンカチを渡した。
「おぅ。サンキュー。これから、特訓な。」
嬉しそうな司様の声が聞こえます。
「ビールの後は、日本酒の特訓だからな。」
坊ちゃんは、ちゃっかり次の約束までしていらっしゃいます。
帰り際。
牧野さんは当然のように電車で帰ろうとされたのですが…。
案の定、司様が大反対され「絶対に送る。」と言い出しました。
残念なことにこの料亭からだと、道明寺邸と牧野さんの家は逆方向。
牧野さんもそこに気付いているらしく、
「道明寺支社長に遠回りしてもらうのは、申し訳ないので…。」
と辞退されておられます。
ですが、このような時間に、女性一人で帰らせるのは心配です。
私は、牧野さんにはタクシーを手配しました。
そんな私を、ジト目で睨んでくる司様。
少しでも一緒に牧野さんと過ごしたかったのでしょうか?
それとも、牧野さんのお宅を知りたかったのでしょうか?
どちらにしても、このような司様の行動は初めてです。
私はジャケットからスマホを取りだし、ある方にメールを送信しました。
【司様に初恋の兆し】
お読みいただきありがとうございます。