makuragakayogakudan

まくらが歌謡楽団のブログです♪

ちょっと休憩~♪

2020-03-29 09:39:33 | 音楽 
もう3月も終わりだというのに、雪がちらちら…

毎日、更新させていただく予定でおりましたが、実は私(ご存知の方もいらっしゃるかもしれませんが)音楽関係の仕事をしておりまして、来週は年に一度の発表会を行う予定で1年前からホールを予約してみんなで準備をしておりました。
ところが、想定外のこの事態と、日々変化する日本の状況に、どう対応したらよいのかこのところ、毎日がニュースとにらめっこ状態が続いています。
こんな中で、本当は、毎日歌うことで皆様と元気を分かち合いたいと思いましたが、適当にただ、歌の紹介とウィキペディアだけを載せるのもなんだか~と思いますし、また、大変心温まる、丁寧なコメントをいただいても、時間に追われると適当な返信になってしまうのも本当に申し訳なく思いますので、まずは、来週の日曜日が過ぎて、おちついて パソコンに向かえるようになりましたら、また、歌のご紹介、ならびにまくらが歌謡楽団の活動状況などをアップさせていただきたいと思います。
それまで、皆さんの書き込みは、是非、たくさん~お待ちしております!
ヒートアップも大歓迎ですよ!できることなら、こちらをチャット画面に変えて、自由に会話を楽しんでいただくのも良いかなと思ったりしております。

では、皆様、よろしくお願いいたします♬



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2 コメント

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終戦直後の流行歌 (Ted)
2020-03-30 14:55:16
 「皆さんの書き込みは、是非、たくさん~お待ちしております!」とのことなので、書きに来ました。櫻さんと茂木さんは Facebook ですでにお気づきのように、私は最近こちらで書いたコメントに手を加えて、自分のブログ記事にし始めました。「花」へのコメントについても、いま修正・追加をして準備中ですが、追加部分に、あるいは「花」の思い出への続編として、終戦直後に歌われていた流行歌二つについて書く予定で、それをこちらで先に紹介します。以下の話は、「花」の思い出がそれらの流行歌の思い出にどうつながったかというところから始まります。
 「花」へのコメントでは、2010年以前に開催されたと思われる同窓会で、女性の参加者たちが「花」を歌ったのは、温泉旅館の男湯でその歌を歌っていたのが誰かを確かめようと彼女たちが図り、私はまんまとそれに乗せられたのかもしれない、ということを書きました。私は小学生時代の2度の転校で、言葉の相違を含むカルチャーショックを受け続け、そのため、6年生の時は極めてシャイな児童になっていました。休み時間に流行歌を盛んに歌っていた児童もいた中で、私は歌など歌ったことは全くなく、雑談の輪の中にいても、もっぱら聞いているばかりでした。雑談時に自らはあまり話さないという性癖はいまも大して変わりませんが、歳を取って歌うようになった私を見た元女児たちは興味深く思ったことでしょう。
 そして、6年生当時、休み時間に歌われていた歌といえば、♪赤い花なら曼珠沙華/阿蘭陀屋敷に雨が降る ...♪ と始まる『長崎物語(「じゃがたらお春」の唄)』(https://www.youtube.com/watch?v=-xHIJ9nfphs ) があります。徳川幕府が1636年に出した混血児の海外追放令でジャガタラ(現在のジャカルタ)へ追放になった14歳の少女「お春」を歌ったものだそうです(http://www.itscc.net/mid/m_008.html )。小柄なN君が得意げに歌っていたのが今も目に浮かびます。作詞=梅木三郎、作曲=佐々木俊一で、由利あけみが歌ったレコードが1939年に発売されたということです。1930年代の歌といえば、いかにも古いようですが、1939年は私たちが6年生の時から8年前で、戦争中には流行歌などはほとんど作られなかったでしょうから、当時は比較的新しい歌だったのです。戦争中のいろいろな束縛から解放されて、この歌などがラジオからよく流れていたのでしょう。
 もう一つ「ジープでハロー」というような語句のある歌を、青い学生服(当時はまだ戦争中の名残で、国防色といわれた黄土色の学生服を着ている児童が多かった中で、その色は目立ちました)を着て「色男」のあだ名を持っていたK君が歌っていた記憶があります。いつかの同窓会の折にそのことを思い出し、K君にその歌の題名を尋ねましたが、彼はそんな歌を歌っていたことさえも覚えていませんでした。インターネット検索してみると、それらしい歌(「ジープ」と「ハロー」は出てきますが、「ジープでハロー」とつながった語句はありません)に、作詞=吉川静夫、作曲=上原げんと、歌=鈴村一郎、レコード発売が1946年の「ジープは走る」(https://www.youtube.com/watch?v=Yq5FI8TGV0M )がありました。♪スマートな可愛いボデイ/胸のすくよなハンドルさぱき ...♪ と、進駐軍のアメリカ兵が乗り回していた小型トラック「ジープ」、あるいはアメリカ兵自体を讃えた歌です。K君が歌っていたのはこれだったようです。彼は「ハロー、ハロー」のところで、手を上げる所作をしていたものです。
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未だ残る記憶 (茂木)
2020-03-31 09:10:17
 Tedさんは昔のことを鮮明に覚えていらっしゃいますね。私の“流行歌”に纏わる思い出のひとつは島倉千代子と体育館です。私は5才まで群馬県の下仁田町で育ち、その後、もっと奥の南牧村で中学2年まで過ごし、また下仁田町に戻りました。5才頃、島倉千代子が来るというので町中がざわめいていたような記憶があります。家族の皆がそのことばかり話題にしていたのです。誰かに連れられて中学校の体育館で島倉千代子ショーを観ました。といっても覚えているのは、歌手が着ていた明るい模様の着物のこと、体育館の中がいかにも田舎風に活気だっていたことくらいです。南牧村に移ったある日の登校中、道端の一軒の玄関は開けっ放しでTVで唄う島倉千代子の歌がその奥から聞こえてきました。TVが珍しかった時代でもあり、高音の美声に思わず足が止まりました。以来、彼女が好きな歌手のひとりになりました。そしてまた下仁田町。卒業式はかつての体育館で行われており、「仰げば尊し」を歌いながら、島倉千代子ショーの記憶が無意識からにじみ出てくるような気分になりました。
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