makuragakayogakudan

まくらが歌謡楽団のブログです♪

チューリップ

2020-04-26 19:37:09 | 音楽 
皆様、こんばんは!お元気でいらっしゃいますか?

動画アップロードを決心したものの、ビデオも撮影も編集も全て初心者レベルから脱出したことのない私のチャンネルは、酷いもので…本当に公開するのはお恥ずかしいですが、これから回を重ねるごとに少しでも良くなれたらと思います。

さて、そのため、動画アップロードの際に一番簡単そうな曲ということで「チューリップ」ところが…実は奥が深いのでした…

作詞 近藤宮子さんは(ウィキペディアより)
国文学者の父・藤村作が広島高等師範学校(後の広島大学)へ教授として赴任した1907年、広島県広島市国泰寺町(現在の中区国泰寺町)に出生。母・季子は広島高師附属中学、山中高等女学校の音楽教師を務めた。1910年、父が東京帝国大学文学部助教授に転任、東京市外千駄ヶ谷に転居。1931年、父の教え子で東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽学部)講師・国文学者の近藤忠義と結婚、専業主婦となる。 同年8月末、当時幼稚園唱歌研究部に関わっていた父から夫・忠義を介して子供のための作歌を頼まれる。当初一般公募をしたが、よい作品は少なく唱歌研究部委員だった作曲家・福井直秋が懇意の藤村作に頼んだものが宮子にまわってきた。作歌中満州事変が勃発。約1ヶ月の間に『チューリップ』、『こいのぼり』、『オウマ』など10編を作歌、作品を協会に提出し全て採用された。 
その後専業主婦して激動の時代を送る。夫の忠義のみならず、弟の赤城さかえが左翼活動に関与し心を痛めた。1932年、宮子の作った作品は全て無名著作物として公表される。同年東京高等師範学校附属小教師・井上武士が『チューリップ』を作曲。作詞者不詳のまま出版された。 
1940年代後半に日本音楽著作権協会が本格的に活動を開始、無名の著作物に関しては、作者から名乗りを上げていく流れとなった。しかし宮子は多くの作品が作者不詳でもあり、歌いつがれていくならよし、と思いこの後も名乗りでる事はなく過ごした。 1960年代に入り更に著作権の改正問題が起きた。『チューリップ』などの人気曲は日本教育音楽協会の貴重な財源でもあり、当時のこの協会の人物が著作権の延命を図るため『チューリップ』などの作品を自らの作詞として登録してしまった。 
1931年に作歌してほぼ40年後の1970年、著作権法が約70年ぶりに全面改正され公布が決定、著作権の記事が出始め、一般にもよく知られることとなる。この頃、赤旗編集部の記者をしていた宮子の長男・創が子供の時、こいのぼりの作詞はお母さんよ、と聞かされたと他の記者に話すと興味を持たれ、取材後記事として世に出て大きな注目を集めることとなった。 ウソはいけないと1983年、宮子76歳で裁判を起こす。控訴上告が続くが1993年、相手が上告せず、宮子の勝訴が確定、正式に『チューリップ』、『こいのぼり』ほか全作品の作者として認められた。この時86歳、大きな話題となった。殆ど物証が無いにも関わらず裁判官が心証によって判決を断定した珍しいケースであった。1999年死去。享年92。 
なお『こいのぼり』の作曲者は今も不明なほか、唱歌・童謡には現在も作者不詳のものが多数ある。

ちいさなお子さんが初めて覚える歌のような誰でもくちずさむ「チューリップ」に、このような歴史があることを知りませんでした。

なお、作曲の井上武さんは(ウィキペディアより)
主に唱歌・童謡の作曲に従事し、「虫の声」「お月さま」等、日本音楽史上に残る数々の作品を遺した。芳賀小学校から群馬県師範学校(現在の群馬大学教育学部)に進学。その後東京音楽学校(現在の東京芸術大学)に進学し、音楽を学ぶ。 
台湾総督府付属女学校教諭として台湾に赴任。帰国後洗足音楽短期大学などで教鞭をとった。のち東京音楽大学教授に就任。日本教育音楽協会会長・同声会会長などの要職を歴任。各地の学校の校歌作曲にも多く携わった。 
戦後は、新宿区戸山町の戸山ハイツに居住。活動の傍ら地元の東戸山小学校PTAコーラスの指導も行っていた。 死後の1975年、生前の業績をたたえて、母校の群馬大学に群馬大学教育学部同窓会と群馬県音楽教育協会によって石碑が建立された。主な作品は、
  • 「こいのぼり」(作詞:近藤宮子[要出典])
  • 「お月さま」
  • 「汽車ぽっぽ」(戦時童謡兵隊さんの汽車改詩)
  • 「うみ」(作詞:林柳波)
  • 「ぞうさん」(作詞:堀内敬三)
  • 「チューリップ」(作詞:近藤宮子)
  • 「ゆきだるま」(作詞:宮中雲子) など
さて、最後になりましたが、お恥ずかしいながら動画をアップさせていただきます。
いろいろなご意見はあろうかと覚悟しつつ…😰 初回なので、お手柔らかにお願いいたします😰 なお、曲目のリクエスト、ご意見等、どうぞよろしくお願いいたします♬

では、こちらをクリックして下さい♪


今週も頑張って参りましょう!!!

皆様、こんにちは🎵

2020-04-22 10:34:58 | 音楽 
皆様、ご無沙汰しております。

まくらが歌謡楽団が始まって、そろそろ半年が経とうとしています。クラシック音楽畑で育った私にとって、電気の楽器たち(キーボードやアンプやマイクなどなど~)は、触るのももちろん、演奏するのはほとんど初体験、その上、いろんな楽器の方々と合わせて、お客様方と一緒に昭和歌謡を歌って~本当に、楽しいひと時でした。今年は、お正月明け早々から、2カ所、3カ所と舞台も多く、「華やかな年になるなぁ」と予感をしておりました。

ところが、クルーズ船の御客さんだけの問題かと思っていたコロナがだんだん日本に染み出してくるように~徐々に徐々に広がりを続け、あっという間に緊急事態宣言などというものが発令され…東京、大阪など大都市だけでなく、全国で自粛を余儀なくされるようになりました。
飲食業などを営まれる方々の明日をどう生き延びるかという悲痛な叫び、不安、日々増え続けるコロナ患者の為に命を削るほどの医療従事者の方々、毎日を幸せに暮らしていたみんなの生活…これが、戦争でもない、災害でもない、こんな事で脅かされるとは、思ってもみませんでした。目に見えない敵というのは、戦い方もわかりませんから、いつ勝てるのか、撲滅できるのかさえわかりません。

でも、こんな今の世界ですが、見方を変えれば、まだ私たちは何かができる、みんなと一緒には歌えないかもしれませんが、画面を通じて、遠くの方も近くの方も、一緒に歌うことができる、普段は古河市内の方とだけですが、いつもお世話になる大阪のTedさんをはじめ、北海道から九州、もしかしたら海外の方も一緒に画面を通じて歌うことができるかもしれない…そしたら、絶好のチャンスになるかもしれない、そんな風に考えたりしています。
実際に、まくらが歌謡楽団のメンバーの方々は、ネットを通じて音楽配信を行い始めました。私自身も何かできないか…ここ数日、考えております。できる事から何か…

そこで、思いついたのが、みんなで笑って楽しんでいただけるようなチャンネルを作ること、Tedさんの所属される喜多さん「猫じゃらしチャンネル」さんのようには、とてもいきませんが、何か考えたいと今、試行錯誤しております。どうなるか、わかりませんが(一度作ってすぐ消すこともありますが=😅 )何か、自分にできる1歩を進めてみたいと思います。
今、考えていることは~いつもYouTubeからの引用で映像をいただいていますが、それを自分でできないか、それからリクエストも含めて、もっと皆様と意見の交換ができないか、いろいろ考え中です。もちろん、何かご意見がありましたら、是非、お寄せいただけると嬉しいです。
それでは、お会いできる日を楽しみに…どうぞ、コロナに負けずに頑張って下さい!



「粛」という漢字

2020-04-14 18:02:12 | 日記
皆様、お久しぶりです!お元気ですか?
いつも、Tedさん、茂木さん、情緒的な素敵なコメントをありがとうございます♬

さて、毎日のニュースがコロナ一色、朝もコロナ、昼もコロナ、夜もコロナ…
コロナといえば、最初の頃は、石油ストーブ?と思いましたが、今は、もうそんな事も言ってられません。今日も、何割自粛できたか、その話題が先行しています。

ところで、自粛の「粛」という漢字ですが、ちょっと見てみたら~私は、なんと書き順を間違えていました。書き順は、こちら🎵
「粛」という漢字の意味は、皆様もご存知のように~
1.心・規律などを引き締める、つつしむ
2.身が引き締まる程厳しい
3.物音をたてない
などと、”コトバンク”というサイトに載っていますが、1と2はできたとしても、3は、歌う時には難しいですね!やはり、この自粛の期間、外出や人と会うことは自粛できたとしても、それによって、心が自粛してしまっては、かえって健康によくありません。
そこで、私からの提案ですが、是非、1日に最低1回は、お家で、「3.物音をたてない」を大きく変更して→「3.大きな物音(雑音、騒音を含む)をたてる」にしてみませんか?う~ん…熟語にしたら、「自粛」が「顰蹙(ひんしゅく)」になるかもしれませんが、かまいません!心の健康の為には大きな声で歌うことが大切です!

それでは、今日の1曲。


ウィキペディアによると~
1961年、作詞者のやなせたかしは『木島則夫モーニングショー』の前身である『NETニュースショー』の台本構成をしており、番組内に音楽を流すコーナーがあった。そこで自身で作詞した「手のひらを太陽に」を、知り合いであったいずみたくが作曲し発表したものである。歌は、いずみの推薦により宮城まり子が歌った。 
作詞者のやなせは、「厭世的な気分になって追い込まれていた時のことです。暗いところで自分の手を懐中電灯で冷たい手を暖めてながら仕事をしていた時に、ふと手を見ると真っ赤な血が見える。自分は生きているんだという再発見と、その喜びを謳歌して頑張らなくちゃと、自分を励ますためにこの詞を作った」と述懐している。また、元々は童謡ではなくホームソングを作るつもりで書いたという。なお歌詞の中でアメンボが出てくるが、これは当初はナメクジであった。
1962年、 NHK『みんなのうた』への売込みが成功し、宮城まり子とビクター少年合唱隊の歌唱、映像はやなせ自身制作のアニメーションで放送された。当時、歌は反響もなくヒットしなかったが、 1965年にボニージャックスが歌ってキングレコードから発売され、その年の紅白歌合戦で歌唱すると、反響を呼び広く知られるようになった。

アメンボがナメクジでなくて良かったなと思います😀 
では、明るく楽しく歌いましょう~!

1週間…

2020-04-06 17:57:52 | 日記
皆様、お久しぶりです!
1週間前が、ずいぶん昔のように思う今日このごろですが、皆様お元気でいらっしゃいますか?
昨日、開催予定だった会は、結局、来年に延期となりました。やはり、今は開催するリスク、開催しないリスク、両方ともリスクなしには行えませんが、「もしも~」の事を考えたら、延期するしか方法はありませんでした。
今月の歌声広場もなくなりましたが、市内の多目的ホール、図書館が開かない限り、中止が続くように思います。こんな状況は、誰をも想定外の事態だと思います。
明日は、緊急事態宣言が出るのでしょうか…私は、もちろんコロナの感染拡大も恐ろしいですが、このような事柄から想像されるのは、映画等で観たことのある戦時中の姿。緊急だからこそ、戦後、75年の今、日本にとって大切なものは何か、どのような状況下にあっても、独裁ではない、民主主義の上に立つ、そして弱いものを見放すことのない政治を願うばかりです。
なんて~暗い毎日ですが、こんな時こそ、音楽ですね!
音楽は、人の心を癒してくれます。そして、歌は元気を栄養分として活性化してくれます。
さぁ、こんな時に歌いたい歌は~~~~~~~~~~

ウィキペディアによると~
サトウハチローがこの詞を作ったのは戦時中であったが、「戦時下に軟弱すぎる」という理由で検閲不許可とされ、戦争終了後に日の目を見た。というのがこれまでの定説化した話であったが、出版文化研究家の永嶺重敏が当時の文献を調査した結果、1946年の雑誌記事でサトウハチローが「映画の脚本を読んでから詞を書いた」と記述していること、さらに佐々木康監督も晩年に「映画の脚本をサトウに持たせて詞を書かせた」と発言していることから、詞を作ったのは戦後であると結論づけている。曲は映画の撮影が始まっても完成せず、作曲者の万城目正は秋田県のロケ先へ向かう汽車の中で曲を書いたと回想している。
可憐な少女の思いを赤いリンゴに託して歌う歌詞が、終戦後の焼け跡の風景や戦時の重圧からの解放感とうまく合っていたのと、敗戦の暗い世相に打ちひしがれた人々に明るくさわやかな歌声がしみわたり、空前の大ヒットとなった。2007年(平成19年)には日本の歌百選に選出されている。
「リンゴの唄」吹き込みの際、作曲者の万城目正は度々ダメを出し、「もっと明るく歌うように」と指示した。しかし、この注文は当時の並木には酷で、並木は戦争で父親と次兄、3月10日の東京大空襲で母を亡くしていたため、とてもそんな気分にはなれなかったのである。その事を聞いた万城目は、「君一人が不幸じゃないんだよ」と諭して並木を励まし、あの心躍らせるような明るい歌声が生まれたという。 
短調で暗いメロディなのに何か元気になりたい時に口ずさんでしまうのは、意味があったのですね。
皆様も、ふじりんご片手に大きな声で歌ってみましょう