チロがわが家にやって来た。
昭和26年の春、ボクが10歳のときである。本当は犬を飼いたかったのだが、いつも母に拒絶された。
「犬は一人前のコメを食うんだぞ。そんなコメがどこにある」
父は大阪に単身赴任。母は信州の片田舎で、4人の男の子を育てながら、田畑を耕していた。母の言葉づかいは、父親代わりを兼ねているので、とてもきつかった。
「女手一つで、4人のぼこ(子供)たちをしとねる(育てる)のは、ひずこくずら(大変だろう)」と、親類縁者、近所から、母は言われ続けていた
生家は信州の寒村にあった。父の出どころだった。太平洋戦争が始まるまでは、大阪の住金の社宅に住んでいた。疎開して信州の父の本家に転がり込んだ。しかし、終戦になっても、ロクな仕事がなく、父は本家や近所の農作業を手伝い、わずかばかりの野菜をもらってくるだけだった。そんとき、会社の復興の知らせが来たのは昭和21年の11月だった。父は母とぼくら4人を残し、勇んで大阪に行ってしまった。2年後に、小さな家だったが、真新しい戸建ての家が、山の麓の丘の上に建った。父が頑張った成果だった。
猫は本家からもらった。
「マコト、本家にビク持って、猫を一匹もらって来い」
「チェッ、犬でねえのかよ。猫なんか野山に連れて行けねえじゃんかよ」
「つべこべ言わず、早くもらって来い」
仕方がない。犬代わりに猫を鍛えて、野山を連れて歩けばいい。ボクは口笛を吹きながら、畔道を本家に小走りで向かった。
「マコちゃんが来たのかえ。子供を産まねえオスがいいズラ」
おばちゃんは、みかん箱に入っている、数匹の生まれたばかりの子猫の股間を覗きながら言った。持って行ったビクに、オスの子猫を摘まみ入れながら言った。
「猫はネズミを獲るで、かわいがってやらにゃあ」
ぼくは、ビクを両手で抱いて、まるで貴重なスイカでも運ぶようにして、家に戻った。
「母ちゃん、この猫の名前はチロに決めたで、毎日オラと寝る」
「バカこいていろ。猫は夜ネズミを獲るのだから、自由にして外にも出られるようにしておかねばいけん。床下から出入りできるように、羽目板の端を切れ」
母は猫を台所の板の間以外、ほかの部屋に入れてはいけないと言い渡した。しかし、真冬になると、障子戸を20cm開けておくと、チロはボクの布団の中に入って来たのだった。
チロが4歳になった秋、裏山にチロを連れて遊びに行った。ボクは栗拾いに夢中になっていると、チロのことはすっかり忘れてしまった。気がつくと、チロがいない。
「チロ、チロ、チロ来い」
何度呼んでも出て来ない。チロがいつもいる軒先の薪の上、蔵の庇の下の藁の上など、どこを探してもいない。仕方がないので、山に向かって、両手でメガフォーンをつくって、出来る限りの大声で叫んだ。
「チロ、チロ―、こっちへ来ーい」
3回叫んだところで、チロではなく、母が家の中から飛び出してきた。
「みっともないから、大声出すな。お前、また、ズボンにカギ裂きつくったな。藪に引っかけたズラ」
母はチロのことなど、まったく頭にない。ボクのズボンの破れを見つけて、不機嫌な顔して家の中に戻ってしまった。
ボクはもう一度、栗拾いをした場所まで行った。山の夕暮れは不気味になって来ていた。山の上には墓がある。よくキツネが出た。死者のお使いだと言われた。ボクは墓の方に足が向かず、中腹でチロを呼び続けた。チロの応答はなかった。もう家に戻っているかもしれないと、ボクも夕暮れの中、背中を押されるように家に急いだ。
チロは家に戻っていなかった。ボクは落胆して、家に入ろうとしたときに、チロは腹になにか巻き付けて、庭に入って来た。よく見ると、ヘビである。シマヘビならば陸鰻(オカウナギ)と言ってご馳走になるが、毒蛇のヤマカガシである。
ボクは家に入るや、大声で怒鳴った。
「母ちゃん、チロが帰ってきたけど、ヤマカガシに首も腹も巻き付かれている」
母は無言で庭に飛び出した。
「マコト、なにしているんだ。早くヤマカガシをチロから取ってやれ、早くしろ」
ボクは軒下の薪の上にあった桑棒を取り、チロに巻き付いているヤマカガシを剥がそうとしたがうまくいかない。
「頭はチロが咥えているから、尻尾の方から剥がせ」
母は強い口調でボクに命じる。尻尾に手を掛け剥がそうとしてら、チロは咥えていたヤマカガシの頭を、ポロリと落とした。ボクは急いでチロの腹に巻き付いているヤマカガシを、チロの後ろ脚を持ち上げて、縄跳びのように2回転して外した。そのまま、家の脇を流れる小川に投げ込んだ。
チロはボクに近いづいてきて、ノドをゴロゴロ鳴らして、感謝するようなしぐさをした。
(この愛猫物語のエッセイは、日本ペンクラブの競作として、2004年5月光文社より『私猫語が分かるのよ』と題した単行本に、約10ページ分が収められている)
昭和26年の春、ボクが10歳のときである。本当は犬を飼いたかったのだが、いつも母に拒絶された。
「犬は一人前のコメを食うんだぞ。そんなコメがどこにある」
父は大阪に単身赴任。母は信州の片田舎で、4人の男の子を育てながら、田畑を耕していた。母の言葉づかいは、父親代わりを兼ねているので、とてもきつかった。
「女手一つで、4人のぼこ(子供)たちをしとねる(育てる)のは、ひずこくずら(大変だろう)」と、親類縁者、近所から、母は言われ続けていた
生家は信州の寒村にあった。父の出どころだった。太平洋戦争が始まるまでは、大阪の住金の社宅に住んでいた。疎開して信州の父の本家に転がり込んだ。しかし、終戦になっても、ロクな仕事がなく、父は本家や近所の農作業を手伝い、わずかばかりの野菜をもらってくるだけだった。そんとき、会社の復興の知らせが来たのは昭和21年の11月だった。父は母とぼくら4人を残し、勇んで大阪に行ってしまった。2年後に、小さな家だったが、真新しい戸建ての家が、山の麓の丘の上に建った。父が頑張った成果だった。
猫は本家からもらった。
「マコト、本家にビク持って、猫を一匹もらって来い」
「チェッ、犬でねえのかよ。猫なんか野山に連れて行けねえじゃんかよ」
「つべこべ言わず、早くもらって来い」
仕方がない。犬代わりに猫を鍛えて、野山を連れて歩けばいい。ボクは口笛を吹きながら、畔道を本家に小走りで向かった。
「マコちゃんが来たのかえ。子供を産まねえオスがいいズラ」
おばちゃんは、みかん箱に入っている、数匹の生まれたばかりの子猫の股間を覗きながら言った。持って行ったビクに、オスの子猫を摘まみ入れながら言った。
「猫はネズミを獲るで、かわいがってやらにゃあ」
ぼくは、ビクを両手で抱いて、まるで貴重なスイカでも運ぶようにして、家に戻った。
「母ちゃん、この猫の名前はチロに決めたで、毎日オラと寝る」
「バカこいていろ。猫は夜ネズミを獲るのだから、自由にして外にも出られるようにしておかねばいけん。床下から出入りできるように、羽目板の端を切れ」
母は猫を台所の板の間以外、ほかの部屋に入れてはいけないと言い渡した。しかし、真冬になると、障子戸を20cm開けておくと、チロはボクの布団の中に入って来たのだった。
チロが4歳になった秋、裏山にチロを連れて遊びに行った。ボクは栗拾いに夢中になっていると、チロのことはすっかり忘れてしまった。気がつくと、チロがいない。
「チロ、チロ、チロ来い」
何度呼んでも出て来ない。チロがいつもいる軒先の薪の上、蔵の庇の下の藁の上など、どこを探してもいない。仕方がないので、山に向かって、両手でメガフォーンをつくって、出来る限りの大声で叫んだ。
「チロ、チロ―、こっちへ来ーい」
3回叫んだところで、チロではなく、母が家の中から飛び出してきた。
「みっともないから、大声出すな。お前、また、ズボンにカギ裂きつくったな。藪に引っかけたズラ」
母はチロのことなど、まったく頭にない。ボクのズボンの破れを見つけて、不機嫌な顔して家の中に戻ってしまった。
ボクはもう一度、栗拾いをした場所まで行った。山の夕暮れは不気味になって来ていた。山の上には墓がある。よくキツネが出た。死者のお使いだと言われた。ボクは墓の方に足が向かず、中腹でチロを呼び続けた。チロの応答はなかった。もう家に戻っているかもしれないと、ボクも夕暮れの中、背中を押されるように家に急いだ。
チロは家に戻っていなかった。ボクは落胆して、家に入ろうとしたときに、チロは腹になにか巻き付けて、庭に入って来た。よく見ると、ヘビである。シマヘビならば陸鰻(オカウナギ)と言ってご馳走になるが、毒蛇のヤマカガシである。
ボクは家に入るや、大声で怒鳴った。
「母ちゃん、チロが帰ってきたけど、ヤマカガシに首も腹も巻き付かれている」
母は無言で庭に飛び出した。
「マコト、なにしているんだ。早くヤマカガシをチロから取ってやれ、早くしろ」
ボクは軒下の薪の上にあった桑棒を取り、チロに巻き付いているヤマカガシを剥がそうとしたがうまくいかない。
「頭はチロが咥えているから、尻尾の方から剥がせ」
母は強い口調でボクに命じる。尻尾に手を掛け剥がそうとしてら、チロは咥えていたヤマカガシの頭を、ポロリと落とした。ボクは急いでチロの腹に巻き付いているヤマカガシを、チロの後ろ脚を持ち上げて、縄跳びのように2回転して外した。そのまま、家の脇を流れる小川に投げ込んだ。
チロはボクに近いづいてきて、ノドをゴロゴロ鳴らして、感謝するようなしぐさをした。
(この愛猫物語のエッセイは、日本ペンクラブの競作として、2004年5月光文社より『私猫語が分かるのよ』と題した単行本に、約10ページ分が収められている)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/6d/f5/bc31790d8a2a5d14a067d2bd41c9bbb1_s.jpg)
ああ、やっぱり面白い。
チロが見えるようです。