昨日の午後は、青山墓地に行きました。
外国人で二番目に埋葬されたアンナ・ホイットニーのお墓には、勝海舟の字で「義人は信仰によって生きる」と彫ってありますが、裏には、「体は土になるが、霊は天に帰る」とあります。
漢文調ですね。
横には、長男のウィリス(ウィリイ)の奥さんの弟(宣教師)のお墓もありました。
この辺りは、外人墓地なので、十字架が幾つも立っています。
後で、気がついたのですが、明治時代最大の宣教師の一人であるでフルベッキや、暗殺された森有礼のお墓もありました。

函館出身の秦冬は、聖公会の牧師夫人となったホイットニー家の末っ子アディから、讃美歌を習い「女学雑誌」に出会うきっかけが与えられました。
若松賤子訳の「小公女」の口語文に心をときめかしました。
そして、憧れの明治女学校に入学したのが、明治26年です。
明治女学校は、勝海舟の援助によって、アメリカに留学して牧師になった木村熊二が作ったキリスト教が土台の学校です。
勝海舟が支援していて、武道のための道場も寄付しました。
明治26年は、翻訳家の若松賤子の夫でクリスチャンである巌本善治が二代目校長をしていました。
その頃、勝海舟の三男と結婚したクララがミセスカジとして英語や編み物などを教えていたのです。
秦冬は、その学校で教師をしていた島崎藤村の最初の妻となった方です。
不思議なつながりですね。




クララのお父さんが教えていた商法講習所の記念碑です。
銀座六丁目のの旧松坂屋の前にありましす。
今は、巨大ショーツピングセンターのために工事中です。
なんと、斜め前にユニクロが出来ていました。
ここが、一橋大学の発祥地です。

明治8年7月に、日本人のための横浜海岸教会の献堂式が行われました。
9月に、クララはヘボンの小さな礼拝堂で日本人のための礼拝に出席しています。
ところで、クララは後に勝海舟の息子と結婚してミセス梶に変わりますが、明治女学校の教師になります。
その学校は、勝海舟がお金を出して留学させた木村熊二牧師が作った学校です。
当時の女学生の憧れの学校でした。
教師には、津田塾の津田梅子や日本で初めてキリスト教文学を紹介して「小公子」などを翻訳した若松賤子がいました。
また、女医第一号の荻野吟子や島崎藤村や内村鑑三などという、そうそうとした教師の集まりでした。
その時代に生きていたら、行って見たかったですね。

明治8年に銀座の鯛味噌屋の二階で、ホイットニー先生によって商法講習所は始まりました。
前の松坂屋の近くに記念碑があります。
そこが、一橋大学の発祥地です。
今週は、その絵を描いています。
初まりは、なんでも小さな源流から始まる物です。
写真は、その頃もあった新しくなった歌舞伎座です。