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まこねこまどかブログ

マンガ家まこねこの気ままな日記

コーヒー好きな龍馬と勝

2012年11月23日 | 明治人物伝


ブルーベリー酢と牛乳を混ぜたものを最近は飲んでいます。
牛乳はあまり好きではないので、いろいろな物を足して飲んでいます。
体にいいかと思いますが・・・。
ところで、コーヒーは、お肌によく、シミやしわになるのを防ぐとTVで言っていました。
前に、コーヒーは体を冷やすので、ダイエットには良くないと言うのを聞いたことがあります。
どの効果を優先するかは、個人の判断ですね。
私は、コーヒーは大好きですが、甘いコーヒーとコーヒーキャンディーがあまり好きではありません。
ところで、坂本龍馬のコーヒー好きは有名で、それをもじったコーヒーキャンディーもあるくらいです。
坂本龍馬の師である勝海舟の屋敷では、明治時代に毎日、お客さんにコーヒーを出していました。
そして、アイスクリーマーも持っていました。
お酒はほとんど飲まないとありましたが、パンが大好きで、特にあんぱんなどの甘党だったそうです。
なんだか、ほほえましいですね。


川村清雄の展覧会

2012年11月20日 | 明治人物伝

 

今日は御天気も良く、江戸東京博物館に行ってきました。
夕べ、検索したら、10月8日から12月2日まで特別展示場で川村清雄展をしていることが分かったのです。
ちょうど寝る前に、川村清雄の本を見ていたところでした。
一度見たいと思っていた明治神宮蔵の振天府の下絵を見ることができました。
下絵と言っても、しっかり色が付いているもので、実物より、小さいサイズのものです。
これは、明治天皇の偉業をたたえるためにスポンサーたちが当時の有名な画家たちに注文を付けて描かせたものです。
幕府が倒された後、旧幕臣の中から、優秀な青年たちを留学させましがその中に川村はいました。
そして、絵を学ぶためにアメリカからフランスに行き、イタリアでも学びましたが、日本の絵画の良さを友人から教えられ、油絵で日本的な表現を追求するようになったのです。
当時の、画壇は、フランスの影響をうけた画家たちが力を持っていて、イタリアの影響を受け日本的な感性で、旧幕臣の川村はのけものにされていました。
画壇から総すかんを食っていた川村の個展にフランスの仏教学者シルヴァン・レヴィがやって来ました。
そして、川村の絵に感激して、パリの美術館に収めたいと言ったのです。
川村清雄は、神話をモチーフにした「建国」を描いて1929年(昭和4)にパリのリュクサンブール美術館に送りました。
それ以来今回、初めて日本にその「建国」が帰って来たのです。
日本の各地で数枚の作品を見ることができますが、こうして一同に作品を見ることができるのは今回が初めてです。
勝海舟が100円で買い、部屋にずっと飾っておいた龍の絵もありました。
川村の従妹は、熱心なクリスチャンで、彼の回りにもいろいろなクリスチャンがいました。
勝海舟の葬儀の時、勝にもらった白い直垂を来て写っている写真もありました。
意外な発展の多い展覧会でした。
彼の人生は、まこねこまどかブログの過去の「川村清雄の人生」に書いてあります。
ヤフーで検索すると、3番目に出てきます。そちらをお読みくださいね。

 


森有礼1

2012年11月15日 | 明治人物伝


東京アンテオケ教会のHPから、ヨーロッパチームのブログを見ていますが、ベルギーのブリュツセルはきれいな街です。
でも、人がほとんど歩いていないし、閑散とした感じでした。
寒いので、みんなお家に閉じこもっているのかな?
ロンドンのようにクリスマスのイルミネーションも見かけませんでした。
イギリスとオランダとギリシャしか行ったことがないので、終末の舞台となるヨーロッパのいろんな国に行って見たいですね。
ところで、幕末・明治と留学生がたくさん欧米に行きました。
明治3年、森有礼が、初の弁務使として、アメリカに行く時、同じ船に欧米に行く留学生が32人乗っていました。
その中に、森についてアメリカに行く留学生の、木村熊二と大儀見元一郎がいました。
二人とも、就職口がなくて困っていたのを、勝海舟が援助してアメリカに行く費用を出してくれました。
そして、この二人は、アメリカで牧師になって帰国し、木村は明治女学校を作り、大儀見は日本婦人基督矯風会の組織を作り視力障害者の伝道と教育に尽くしました。
ところで、明治4年頃にアメリカでは100人以上の留学生がいました。
それを、管理し援助するのが、初代弁務使の森有礼の役目の一つです。
クラークが札幌農学校に来ることになったのも、森が斡旋したからです。
後に、専修大学の創設者のひとりで、勝海舟の娘と結婚することになる目賀田種太郎は、森についてこう語っています。
「森氏は率直勇進、少しも忌憚なく、宴席等に招かれたら出席し、求められたら必ず演説をする。
その間、少しも飾りなく、ただ実際を述べ、また日本人が他の東洋頑迷人と同じく見られることがあれば、これを訴ふべき時は容赦なく訴え出た。
それゆえに、学者社会、教育社会、政治社会にも相当に尊重され、すこぶる人望のある人であった。
以後の経過に於いて、もしこのところに特に親日の傾向を増し、あるいは日本に同情 するものが多かりしは、けだしその初めを森氏開拓の傾向の功に帰らざるを得ない。」
と述べています。
この時代、森有礼にしかできない働きだったのです。


松平定敬(さだあき)

2012年10月19日 | 明治人物伝


私の実家は、愛知県瀬戸市ですが、妹の家は岐阜県多治見市です。
どちらも、陶磁器の町です。
今朝、お墓のある可児(かに)市に行ってきましたが、本当に山また山でした。
ゴルフ場を超えて、川を渡りましたが、昨年この川が氾濫したそうです。
ちょうど読んでいた本が「松平定敬(さだあき)のすべて」という本でした。
松平定敬は、高須四兄弟の末弟です。
この高須というのが、今まで何県か意識したことがありませんでしたが、昨日岐阜行きの電車に乗っている時、岐阜県だというのを知りました。
妹に聞くと、今、高須は町おこしをしていて、この間ゴルフで行ってきたそうです。
この高須は、長野県の隣で、川が3本通っていて、いつも氾濫するので、そのためのに毎年たくさん費用がかかりました。
それを、宗家である尾張徳川家が、年間かなり援助をしていたそうです。
高須も尾張もお互いに養子が行き来している血縁で、水戸や一つ橋からも養子が入っているので、みんな入り組んだ複雑な形で親族になっています。
高須家の兄弟たちは、松平義建(よしたつ)の子どもで、みな養子に出ました。
二人の兄は、尾張徳川藩主、次が、会津若松の松平容保(かたもり)、末弟が桑名藩主の松平定敬(さだあき)です。
会津若松の松平容保(かたもり)と、桑名藩主の松平定敬(さだあき)は、仲が良かったので、最後まで官軍と戦いました。
定敬は、名前を変えて北海道に行き、五稜郭でも戦ったのです
高須四兄弟のお兄さんの尾張徳川藩主は、官軍についたので、兄弟で敵味方になったわけです。
悲劇の会津若松ですが、来年度のNHK大河ドラマ「八重の桜」で、今は盛り上がっているそうです。
幕末の物語には、この高須四兄弟の誰かが出てきます。
そして、私の次回作にも松平定敬が出てきます。
最初は、尊大な態度でしたが、だんだん打ち解けてきたときは、優しい言い方に変わっていました。
どんな描き方をすればいいのか分かりませんが、今から楽しみです。

 


忠孝の道

2012年10月04日 | 明治人物伝


旧幕臣たちが勝海舟の娘たちが、キリスト教を信じていると聞いて、けしからんと思い勝に意見をしに行った時のお話です。
「キリスト教には忠孝の道なし。」と言うと、勝は「余は聖書も見たが、成るほど忠孝の話は見えないかもしれないが、忠孝の実あらば良いではないか。
我が家の裏方にホイッニーとう人あり、立派な孝子なり。
まづ、ホイットニーの行為を見に来になさい。
先賢も忠臣は孝子の門より出づと云えり、我が子女たちもあれ程の孝心あらば必ず立派な忠義の者となるだろう。」と松山幸吉が話したと言う記事があります。
忠孝とは、忠義と孝行のことです。
また、森有礼や福沢諭吉・らが集まって作った明六社の集まりで、ある日、福沢が「キリスト教というものは他の点では良いかも知れぬが、親孝行のことはどうか知らない。」という話をした。
すると、勝海舟が「私はキリスト教でも親孝行は大いに重んじていると思う。というのは、内の隣にホイットニーという者がいるが、その兄弟が老いた母を大事にするさまといったら、なんともいえない。とてもわれわれ日本人に真似ができようとは思われない。
キリスト教はたしかに親孝行を重んじるよ。」と言ったそうです。
植村正久は、この話は当時の政治家・学者・宗教家・志士の集まる福沢主催の「共存同衆」という会合でのことだと言っています。
とにかくこの話がどこでなされたかは分かりませんが、当時の新聞などに何度も載った有名な話だそうです。