純平君は…8月11日、鹿児島で、爆撃を受けて、戦死しました。
なんということでしょう、終戦まであと4日でした。この生死を分けた4日とは何だったのでしょう。純平の死を信じられない蓮子さんはひたすら帰りを待っているのです。
前回、義父の学徒動員について書きましたが、その当時の話を義父の友人に聞く事が出来ました。 山口県の大津島にはこの魚雷の基地があり、400人もの学生が志願してきたそうです
ここに、昭和18年10月学徒出陣し、人間魚雷の搭乗員になりウルシ沖で戦死した慶応大学学生の塚本さんの手記があります。純平君は鹿児島で戦死と言っていますがよく似ています。 ~~~ 昭和19年11月、塚本さんの出撃が決まる。出撃が決まると搭乗員たちは、最後の帰省が許された。しかし回天の任務を話すことは、固く禁じられた。家族水入らずの時間は、一年ぶりだった。 戦後、塚本さんの遺品の中から、家族に当てた録音が見つかった。 「母よ、妹よ、そして長い間育んでくれた町よ、学校よ、さようなら。本当にありがとう。昔は懐かしいよ。秋になれば、お月見だといって、あの崖下にススキを取りに行ったね。あそこで転んだのは誰だっけ。こうやって、みな愉快にいつまでも暮らしたい」。
~~昭和19年2月、海軍は人間を乗せた新型魚雷の開発に踏み切る。搭乗員が生存できる可能性を残すため脱出装置をつけることが条件だった。しかし戦局の悪化とともに、開発が難しい脱出装置は断念された。 搭乗員の命を犠牲にすることを前提とした兵器、人間魚雷の誕生である。~~学徒動員兵はこの魚雷のために集められたのですが、製造が間に合わず、これに載ったのは2つ先輩の人達で、義父たちは辛うじて生き残ったということです。
「俺が待っていたのはこの兵器だ。どうしても俺はこれに乗る」。この兵器とは人間魚雷回天。その反面、自分の決意が揺らぐ気持ちも綴られている。訓練生活で塚本さんは、迷う心を断ち切ろうとする。「人間は弱い。自己を思うからだ。滅私、完全なる滅私生活へ。母を忘れよ」。
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蓮子ばかりでなく、多くの母親が悲しみを味わったのです。